すとう信彦 & his band

社会起業家(チェンジメーカー)首藤信彦の日常活動とその仲間たち

ハンナ・アーレントの「悪の平凡さ」はなぜ批判されたのか?

2013-12-26 20:51:41 | Weblog
ハンナ・アーレントはなぜ今、読まれ、そしてその言葉が我々の心に浸み入るのだろうか?
「ハンナ・アーレント」の上映が新宿のシネマカリテでも始まり、ようやく観ることができた。B1の入り口にたむろする同世代。皆髪が白いけど、これが観たいという意思が異様な雰囲気をかもしだしている。若い女性も学生もいて、老若男女入り乱れる不思議な気分。みんな、それぞれの思いと期待で来ているんだなあ!
まるで大河小説のようなアーレントの人生で、1960年のアイヒマン裁判傍聴は一つのイベントにすぎない。アイヒマン裁判のとき、今でも覚えている。戦争から何十年もたって、まだユダヤ人虐殺の犯人を追い詰めるイスラエルの諜報機関に背筋を寒くした。それが1960年だって!虐殺からたった15年後の話だったのか?!15歳の少年にとって15年間のユダヤ人の執念は驚異だったが、この年になると、そんなものは一瞬だったように思える。
ハンナ・アーレントは実物のアイヒマンを観て、何十万のユダヤ人を焼却炉に送り込んだ悪魔の実像が、そこいらじゅうにいる保身と責任回避の小役人と変わらないことに衝撃を受ける。それが「悪の平凡さ、凡庸さ」( Banalty of Evil )だ。想像を絶する残虐な犯罪が日常の凡人によって行われたこと、普通のごくありふれた平凡な市民が人間社会の構造と制度の中で、あれほどの巨悪を平然と行ったことによる、人間性自体に対する彼女の問いかけが、この言葉に表れていると思う。彼女は普通の人が悪魔になる原因を自分の行為がひょっとしたらとんでもない「悪」になるということを「考えないこと」「思考・思索の欠如」にあるとした。
しかし、この映画を観て、ユダヤ人の虐殺に協力したユダヤ人社会があったという話が、このアイヒマン裁判の中から証言されていたことを知った。アウシュビッツをはじめ、強制収容所のあった地域にはユダヤ人社会があり、アイヒマンに協力していたことは知らなかった。だからアーレントは民族浄化という人類の犯罪を、単に個人の人間や集団によるものだけでなく、またユダヤ人だけが虐殺被害者となっているのではなく、ナチスもユダヤ人も含めて、ごく平凡な一般人の中にある「悪」を、いうなれば「悪の普遍化」を指摘したのだと思う。そしてこのことが、ユダヤ人でもある彼女に対して、ユダヤ人の裏切り者としてユダヤ社会の激しい批判が加えられた原因であると初めて理解できた。ユダヤ人だけが絶対的な犠牲者でも被害者でもないという社会科学上の冷静な発見こそ、ユダヤ人だけが被害者であり、だからどんなに他を抑圧してもイスラエルという国を作ることに正義があるのだとするユダヤ人社会からは、絶対に許せないことだった。
逆に言えば、アーレントはユダヤ人虐殺という特殊問題ではなく、我々人間ひとりひとりが「悪」の責任者であるという社会科学上の解明を行い、そのことが、今の世界、今の日本社会に生きる我々に、思考と思索を停止した我々に、一条の光を投げかけているのだ。

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