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無思想の発見 その3

2016-12-02 19:52:36 | 世間

江戸の人が、『公私の別』をいかによく心得ていたか、それは襲名という慣習にも見事に示されている。襲名と言えばほとんどの人が歌舞伎役者の話だろうと理解するはずである。先代と同じ役柄を演じるようになれば、同じ名前にする。(中略)古い問屋さん、大商人にも同じ慣習があった。(中略)代が変わるということは、実は私的空間の出来事である。(p27)

『私』や『自己』という概念は、決まってるようで、実は極めて多義的である。たとえば私自身は、「実存的主体としての私」なんてないと思うと同時に、「身体という自分」については、実存そのものだと思っている。

むろん、意見が違う人もいるかもしれない。実存とは現実のことであり、『現実=実存は人によって違う』からである。(p34-35)

『人間知性論』の中で、ジョン・ロックは言う。「たとえ、指を切り落としても、自己が減ることはない。肉体は自己ではないからだ」と。(中略)

ロックはイギリス人で、だから西欧文明では、かなり前から、『自分は身体ではない。身体hが自分ではない』と思っているらしいのである。(中略)

なぜならキリスト教圏では霊魂不滅だからである。霊魂は身体ではなく、身体は霊魂ではない。(中略)身体は霊魂の仮の住まいなのである。(中略)だから『変わらない私』(自己同一性(ここで言う魂))が暗黙のうちに当然とされるのである。(中略)

現代人が宗教なんて本音では信じてないとしても、こうした文化的な伝統は変えられない。西欧の『近代的自我』というのは、中世以来の『不滅の霊魂』を近代的・理性的に言い換えたものだろうと、私は思っている。(p36-38)