特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

北花崎と船戸木戸の阪東バス~柏駅から北花崎行きに乗った話~

2017-07-06 23:47:39 | 旅行

 かなりでかい画像が上にあると思いますが、今回はこのドラッグセイムス柏花野井店のお話
ではなく、そのすぐそば北花崎バス停まで走っていたさる廃止バス路線についてのお話です。

 昭和61年わたくしは野田市のお隣柏市の某高校へ通う高校生となっておりました。
高校は最寄のバス停まで10代の若い足取りでもまあ10分はかかりバスに乗っても最寄の北柏駅までラッシュ時ならやはり10分は覚悟しないと、という辺境の地に位置しており空気の良さだけが自慢でした。

 そのバス停は小学生時分に飽きるほど乗った野田と柏を結ぶ柏03系統のバス路線上にあり、柏14もそして阪東バスも走っておりました。
バス停のスタイルは幼き日に見たオレンジ型ではなく、すでにお洒落でシックなしらゆり型へと変わっており、行先欄には野田市駅・船戸木戸・北花崎等と全てが書かれていました。
時刻表は手書きではありましたが一枚に集約されいちいち野田行・東急ビレジ行・阪東バスと分かたれてはおらず、分数になんらかの添字を付けて注記していました。

 柏駅西口の東武バスたちの8割は昭和61年当時、まだ青&クリームの旧塗装であり、なかんずく野田出張所担当路線のそれは全て旧塗装でした。
さすがに前方方向幕の大型化改造は皆なされていました。

 個人特定を恐れて詳述は避けたいと思いますが、私のメインの通学方法はバスではありませんでした。
それでも悪天候や体調不良時には高校生と言えどバスを使いたくなりますでしょう。
たとえ小学生時代に全身全霊を包み込んだ路線バスへの燃えさかる情熱が消えうせ、高い大人運賃を払わなければならないとしても。

 さてここからが乗車記なので少し詳述しましょう。
昭和61年の1学期、柏駅3番乗り場からは野田市駅・野田車庫・柏市立高校・三井団地・東急柏ビレジの各地行き、と阪東バスの船戸木戸・北花崎行き、さらに柏営業所の担当する「布施」行きがありました。
母校の最寄停留所へはどの路線に乗っても行けました。

 布施・三井団地行きだけ名前の違う停留所で降りねばなりませんでしたがそれもまた十分最寄として機能しました。
布施・三井団地とも今は本数が激減していますが当時は毎時2本位あったように覚えております。2番乗り場からは「柏の葉公園住宅前行き」という見たこともない路線が出来ておりました。
また南柏駅を経由する「初石駅行き」がなお残存しておりこの路線は小学生時代に乗って運転士さんと面白いやりとりをしたことがあるのでまた別回にお話したいと思います。

 柏駅西口~船戸木戸線は開設時から阪東自動車によって運行されています。
が、この柏駅西口~北花崎線はかつて東武バスの運行によるものであったことが諸資料から窺えますが一体いつから阪東バスになったのかはわかりません。

 当時の3番のりば時刻表をなんとか思い出すと、最も本数の多いのが野田車庫止まりでどれほど少なく勘定しても1時間に1本はあり、
次が野田市駅ないし東急柏ビレジ行きという感じでした。
現存する柏市立高校止まりは激レアとなった16号経由は置いておくとしても本当にちょろちょろしかありませんでした。

 この「時刻表を思い出す」という作業のためにわたくしはブログをアップした日の日中30分間、
まんじりともせず柏駅西口の3番乗り場の後方にすっくと立ち続け瞑想をするという奇行をなし、地元の皆様に大変ご迷惑をおかけしました。

 ところで小学生時分にその車窓の眺めの美しさとともに心に刻みこんでいたバス停「水堰橋」が昭和61年にはどうしたことか廃止か統合かで消滅していました。
入学直後車内路線図を見ていてそれに気づき、あたかも後年野田出張所廃止を耳にしたときと同じほどの大きな寂しさを胸中に生じさせた覚えがあります。

 かかる阪東バス担当の柏駅西口発北花崎行きは少なくも朝7時15分発というのがありました。実際私が詳細記憶する唯一のものがそれです。
15というキリの良い分数を覚えております。
ちなみにその次が電建第一住宅経由野田車庫行きでそのまた次がこれまた懐かしい東武バスによる「柏北高校」行きでした。なお私の母校ではありません。

 ところで果たして北花崎行きは一日何便あったか、すでにオタ魂を失っていたので記憶していませんが
野田車庫行きに比すれば「ほぼゼロと見なして差し支えない」本数であったろうと思います。船戸木戸行の本数が意外と多かったのは覚えています。

 阪東バスには系統番号というものがありませんでした。東武と同じ大型方向幕ではありましたが
青地に白抜き文字表記となったのは平成以降であって、当時は白地に黒文字でただ単に「北 花 崎」と3文字あるだけでした。

小学生時代に見た船戸木戸行きの阪東バスは側面方向幕が「船戸木戸←花野井入口←布施入口←柏駅西口」とありましたが、このバスは「北花崎←?←北柏駅入口←柏駅西口」となっていました。
?の部分はもしかするとそもそも無くいきなり北花崎と書いてあったかも知れません。

 発車前の「お待たせしました、整理券は要りません」のテープ文言は東武と同じですが阪東自動車ではなく「阪東バス」といっておりました。
なお同じ東武傍系の茨急は当時「いばきゅー」ではなく「い・ば・ら・き・きゅーこー」とフルで言っていたことは前回以前のどこかでお話した通りです。
きを「ぎ」とは言っていなかったどうかは定かではありません。

テープの音声は野田とは違う人の声、やや年増の女性のような声だと思いましたが、野田と違うだけで東武柏とは同じだったかも知れません。
昭和56、7年まで記憶を遡れば同じ東武でも野田と柏と境ではテープ音声が別人でしたので。

 中学時代は野田市南部から北部へ一家揃って転居し日常ほぼバスを利用しない生活を送っておりました。
3年のブランクを置いて久方ぶりにバスに乗り驚いたことの一つに運賃表示器が幕式ではない、ということが挙げられます。
この阪東バスもそうでした。その運賃表示器の東武との異同についてはさすがに記憶しておりませんが、運賃は当然東武と同じです。
金額は忘れましたが200円までは到底行かない。支払い方法は現金か回数券しかない時代ですがいつも現金払いで乗っておりました。
小学生時代の「割る2をして1の位が5だったら10の位に1足して1の位をゼロにする」という運賃計算が脳にこびりついていて、高校生になってもたまにやりそうになったことがありましたね。

 終点まで乗らずくだんの最寄停留所で降りたのでなんともあれですが結構乗客数は多目で、わたくしは今も昔も二人席の相席が嫌いな人間なので座らずに前方の吊り革につかまりました。
車内の広告は東武のと大して変わらない顔ぶれでしたが、成田のなんとか煎餅というお店やさんのものもあり、チーバくんの黒い鼻部分の人間には?????でした。 
 
 私の悪い癖で大きく話がそれますけど、野田というところは間違いなく千葉県ではあるんですが、TVつければ千葉テレビは映らずテレビ埼玉のほうが良く映る、ラジオつければベイFMより茨城放送のほうが良く入る、という次第で千葉の中央部のことが野田の人間にはよくわからないんですよ。
他県民に「千葉だからロッテファンだな」と言われたことありますが、野田からすると幕張なんていったらそらもう電車を何本乗り換えて何時間かかるかわからない僻遠の地なんですね。
野田で生まれ育つと成田とか津田沼とか六実とか聞いても他県のようにしか見えないのです。
さらにこの野田市特殊論的な話を続けさせて頂くと、高校は柏だったので鎌ヶ谷とか沼南町の子らも普通に同級生にいるわけです。
で、自分らの住んでる土地が江戸川&利根川に挟まれていて自転車であるいは歩いてでも両大河間を往復できる、という野田・関宿の子には当たり前すぎる日常が他市町の子らにはすさまじい驚きをもって迎えられるんですね。
これはショックでしたね。大人の階段を一つ登りました。

 軌道修正して阪東バスの記憶話に戻りますが、柏駅を出ると今でも次のバス停は「あけぼの町」ですがその次に現在「呼塚交差点」という停留所があります。昭和の御世ここは「警察前」と言っておりました。

 警察前の次の次が「ぢがね橋」なのは今と変わらず、ただくだんの阪東バスの乗客の大半がなぜかここでぞろぞろ降りてしまいました。
当時すでに北柏のライフタウンが出来ていたので住人の方々だったかも知れませんね。

 警察前、北柏駅入口、布施入口、前原が区界停留所なのは昭和57年頃と変わりません。
なおわたしが乗ったのはここまで。その先終点北花崎でこのバスがどうしたかはわかりません。


北花崎は昔も今も転回スペースが無さそうなので船戸木戸まで行っていたのではないでしょうか。


次回は大利根温泉線の話をしようか今は無き水堰橋バス停の話をしようかバスの車内から見た野田市駅貨物線の話をしようか迷っております。

今回も拙ない思い出話にお付き合いありがとうございました。
 
ジャンル:
バス
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