特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

男性車掌と野07 流山駅前行きと流山のプール

2016年10月05日 09時46分36秒 | 旅行
昭和50年愛宕神社~松戸線は京成との共同運行を終了し東武バス単独で野07系統野田市駅~流山駅前となりました。
その年の10月から運河橋の架け替え工事が始まります。



本橋が全面通行止めになり仮橋が設けられたのですが、この仮橋というのが運河橋からちょうど100メートル位江戸川よりに架かっていてこの人道橋のあたりです。橋の両詰には工事用臨時用の小さな信号機が地面にじか置きされていました。赤と青しかないあれです。

 その黄色だけがない信号機が子供の目には非常に面白く映り、わたしは近所の子供とともに当時宅地開発も何もなされていない山崎の雑草臭い野道をてくてく歩いて行き、現場そばの草むらからこの信号機、そして渡っていく車の群れを眺めてよく無為に時をすごしたのです。たまに工事中の本橋のほうへ近づいて工事のおじさんに見つかると「くぉらぁあ」とよく怒られました。

 仮橋は大変狭く自家用車程度でもとろとろ~と徐行して渡っていました。やがて青いシマシマの東武バスが向こう河岸に現れますが渡ってきません。否、動いてないように見えるくらいの徐行で進行してきました。その間こちら側の信号は何度も青に代わっていますが橋上にバスがいる以上こちらから進入するわけにはいきません。ライトバンで渋滞待ちしてた白タオルをはちまきのように頭に巻いたお兄さんが、怒りも露わに降りてきて橋の様子を伺いに来ますが、腰に手
をあててあきれた様子でバスを眺めていました。

この運河の水運機能は今や全く失われましたが、今なお三方を河川で野田を隔絶させて陸上交通の著しい後進性を野田にもたらすという隔離機能は健在です。

やがて小学生となりクラスメートというものができるとその親御さんあるいはうちの母などと一緒に夏休みに流山市民プールへよく行きました。野田にも愛宕の踏切の向こうになにか市営プールがあったそうですが高くて小規模でつまらないという噂でした。なお5年生以降は完成したばかりの清水公園のプールに鞍替えしました。

当時マイカーは一人一台とまではいかない時代で「お母さんと一緒に行こう」となるとやはりバスでした。近所の神社だのあるいはバス停そのものだので待ち合わせしてワクワクドキドキで流山行きのバス待ちをしました。

昭和59年の野07系統の時刻表(『ながれやまグラフ』)。昭和56、57年も同程度、その前の時代には1時間に1本はあったと思いますね。




バス停「山崎島」が信号越えたあたりにありました。道案内の看板のある「霊波之光」でなにか祭事があって渋滞していると、もうこの交差点付近からバスは動かなくなってしまいました。2001年東武野田出張所廃止直前に名残を惜しんで一日2便しかないうちの朝8時台の一本に野田市駅から乗ったとき、ここから乗ってきて運河駅前で降りた若い女性がいました。




「山崎島」と「東亀山」の間の江戸川病院も昔からあります。後方の高い建物はまったく記憶になく子供の頃は手前の平屋しかありませんでした。




このカーブ手前に「東亀山」バス停がありました。かつては奥に見える青テントのあたりに米屋があって母と一緒に歩いて米穀通帳でお米を買いによく来ました。
この辺はもう野田市ではなく流山市になりますね。



 
「運河駅前」。今ある深夜バスの停留所「運河駅入口」の位置は当時の野田市駅行き停留所時代とほぼ変わりないように思います。道を挟んだ真向かいに個人経営の、運河堂書店?・・・江戸川書店?・・・・そんな名前の書店があって創刊したばかりの「コロコロコミック」を弟と買いに来たのを覚えています。


 一方、流山行きは昭和の頃、この手押し信号のたもと付近にバス停が立っていました。この停留所でバスを待ってる人がいた記憶はあまりありません。ここいらは年がら年中渋滞しててバスがうんともすんとも進まないデッドセクションのような場所で、運転手さんが先々まで車が詰まってるのを見て舌打ちしたり「チキショー」と呟いていた記憶があります。当時はまだ信号機が設置されてなかったと思います。流山ぐりーんバスもこの辺りは敬遠してるようでタクシー待ちの列ができてしまってます。ところで川間の丸川タクシーはいつから運河に進出してきたのでしょうか。



「駒形神社前」。バス停は確か神社門前すぐそばにありましたが昭和の頃はこのような馬の像など記憶になく、鳥居や石碑柱はまるで当時東武野田線の線路柵に使われていたコールタール塗りの廃枕木のように深く黒ずんだ古めかしい色つやをしておりました。



「東深井」交差点。この100メートルほど手前にバス停がありました。スタンドがエネオスですが、かつてはエッソだったり「バナナで釘が打てます」のCMでお馴染みのモービル石油でした。CMでラストに出てくる缶から流れ出るモービルオイルの画像がついた上り旗が通りに面してありました。
 奥には今なお森がよく残ってます。流山の人々の何がすばらしいかというと人口が増えているのに森を大事にしている、という極めて高度な環境美観意識ですね。 
 地名のとおり深い森でしたが夏にはわれわれと同じようにプールへ行く流山の子供たちがよく乗ってきました。小3の夏、ここから「中野久木」間にあるどこかの停留所で、お母さんかお父さんと二人親子連れだったと思いますが小1くらいの地元の男子が乗ってきて、マルコメ味噌の子役みたいに丸刈り頭の子でしたが、乗るや否や車内でおもむろにパンツ脱いで海パンに着替えていたのを目撃しました。さすがに当時でもギョッとしました。



 
バス停「平方」があった辺り。そばのこの黒いお建物は相当昔からありそうです。




「原新田」から「中野久木」間の消防署。この消防署はわたしが小1か小2の頃に突如現れた建物で、車中から消防車を眺めるのが非常な楽しみでした。ツーマン車両に乗っていて何かわたしがへまをして母親に叱られて泣いていると、男の車掌さんが来て「ほれほれ、消防車だ」といってわたしを泣き止ませようとした、しかもたまたまこのとき軽の消防指令車らしきものも横付けで止まっていて「小さいのもあるぞぉ」と言われてもの珍しさにたちまち泣き止んだ、そんな記憶がある場所です。



付近に水原弘と由美かおるのアースのホーロー看板がありました。昭和時代、バス停とホーロー看板はカレーライスと福神漬のような不即不離の関係にありました。



京成バスの江戸川台駅~松戸駅線と合流するこの交差点には今ビバホームがありますが野田出張所廃止時だと、バナナで釘が打てるかどうかわからない三菱マークのガソリンスタンドがあったと思います。



  
 昔からちっとも変わっていない青地に白抜き文字の東葛病院の看板。と、すぐそばのバス停「花輪城跡公園前」。野田に帰るバスはこの三輪野山の登り坂を上るとき必ずギアを落とすので、乗客の靴底から落ちた砂粒が散らかり妙に油ぎってた木製板張り床からガガガガゴゴゴゴとすさまじいギア鳴りが響き渡ったものです。
 少なくとも昭和の御世にはなかったバス停ですが、京成と東武のバス停が大統領選TV討論のクリントンとトランプみたいに睨み合っている様が面白いです。



逆にまるで東武と京成がつがいの夫婦のように寄り添い立つ下花輪バス停。夏になるとプールから帰ってきたと思しき、スクール水着に水泳帽を被った子供を後ろに乗せ二人乗りしている自転車の姿をこのあたりの路側帯でちょろちょろ見かけたものです。


今は京成と東武はこの交差点で生き別れて、京成はご覧のようにまっすぐ江戸川台駅へ向かい、東武は左折して乗務員休憩所の付いたクリーンセンターへ行きます。




「文化会館入口」。流山市民プールの最寄停留所でした。当時は建物の数が少なかったので東葛病院の坂からここまで下ってくる間にすでにプールで遊ぶ子供たちの声がやいのやいの聞こえてきたものです。到着して降りるとさっさとプールまで走って行きたいところですが、「われわれは流山の者ではない」という引け目が子供なりにすでに心の内にあったので、気持ちをぐっと抑えて多少はおとなしくしていました。
 おそらく夏だけだったろうと思いますがバス停付近に「森永乳業」だったか「ホモ牛乳」だったかロゴの入ったショルダー付きの大きなクーラーボックスを肩にかけて飲料を売り歩いてる人がいました。バス待ち客を全く相手にせず、日陰に隠れてタバコを吸って足を伸ばしてごろっとしてラジカセのようなもので競馬中継を聞いていますが、野田からの東武バスや松戸へ行く京成バスが到着するとやおら立ち上がって販促します。当時の夏のバスなどというとどれだけ窓を開けていてもサウナ風呂のような灼熱で、ペットボトルなど影も形もない時代ですから喉が渇いて買って欲しくてしょうがなかったですが、早く行かないと更衣所のロッカーの空きがなくなるのでしぶしぶスルーしておりました。ちなみにお母さんと一緒ですから当然のごとく女性更衣室を利用しておりました。


 わたくしは小5、6年生になってまたバスの乗りつぶしでこの路線に乗るようになりますが、乗りつぶしとなればもちろんこんなところで降りてはいけません。終点まであと2つあります。



ここを右折し京成の白いバス停と道を挟んで真向かいにあった「流山広小路」を過ぎて


ここを左折。


流山駅前交差点目前のこの生活道路の左側は当時背の高い垣根に囲われた広い一棟のお宅で、その垣根に寄りかかるように「東武バス 降車場」とだけ書かれたポールがひょろっと立っていました。それが終点でした。バスは発車時刻がくるまでここで待機していました。




野田市駅行きに乗るときは県道沿いの「中島医院」のまん前に、乗り専用のバス停がありました。「流山駅前 野07 野田市駅行」と書かれたオレンジ色ポールがあり、前述の降車場からバスが動いてくるまでここで待つことになります。
 

東武の「流山駅前」バス停は深夜バスの降車場として復活していますが当時とは全然違う場所に京成のバス停とともに立っています。久方ぶりに訪れたこの日はゲリラ豪雨で円板がスケスケで「南流山四丁目」とばっちり読めます。


 かくいうわたしは乗りつぶしで乗ってきて降車場で降りると復路には乗らず、流山駅の反対側まで駅南側の踏切を越えて歩いていき(当時平和台人道橋は無かったと記憶してますがわたしが存在を知らなかっただけかも)流山駅東口発の豊四季駅経由か柴崎経由のどちらかで柏駅西口へ行き、そして柏駅を出る野田市駅行きか野田車庫行きで帰っていっておりました。

 
2001年、小学生当時を思い出し流山駅東口から柏駅西口行きに乗ろうと訪れた際の一枚と2016年8月現在の同地。
 柏から到着して今まさに転回しようとしている、エアロスターかキュービックにも似た車両は当時すでに一日一便まで減便されていた柏駅西口~豊四季駅~流山駅東口線。同系統の柴崎経由の方は当時結構な本数があったと思います。朝方、野田から流山に到着してあまりに間がありすぎて松戸さらには市川まで京成バスで往復乗りつぶして流山に戻ってきて、この付近に当時ラーメン屋さんがあって昼飯を食べて出てきたらちょうどよい時間なので乗った次第でした。乗客はしばらくわたし一人でしたが「後平井」あたりでご婦人が一名乗ってきて終点柏駅まで乗客計二人を乗せて走りました。


 
15年のときを経てますます本数が減ってますが、ちょこっと坂を下って平和台に至れば当時はなかった南流山だの流山おおたかの森だのへ行く便がうろちょろしてるので決してこのあたりがバス過疎地域というわけではありません。一日一便の12時32分発「セントラルパーク駅経由南柏駅行き」とやらが妙に乗車欲を刺激しますね。


 
 小学生の頃、流鉄を使って馬橋から柏へ、と移動したことが1度ありましたが昭和56,57年の流山駅は自動券売機がなくて窓口の怖いおばさんに口頭申し込みしなければならず、それがどうにも大人馴れしてない小学生には受け入れがたく感じてそれっきりです。もちろん今は気兼ねなく乗れますが。
 現在、天井から掛かっている運賃表板などは今自動券売機があるところに壁面垂直貼りされていたような覚えが。

次回はこの路線に乗って流山とは反対方向の愛宕のヨーカドーへ行った記憶をお話しようか、最近乗りバスしてきたのでそれをお話しようか迷ってます。

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2 コメント

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祖母宅が野田でした。 (懐かしいです)
2018-07-20 16:22:43
1990くらいでしょうか?
当時は野07は朝と夕刻前の2本しかなくて、見れたら運が良いと言われるくらいのバスでした。
祖母の家には過去の野田線時刻表があり、時間に3本と少ないときもあった時代でした。

それが、愛宕のヨーカドーまで行くと、柏高島屋と書かれた柏行きのバスが多数走っていて、今と比べると野田が栄えていた事を昨日のように思います。
たまたまこちらのブログを通り、とても懐かしい気持ちになり、コメントさせて頂きます。
ヨーカドーの裏口のペットショップや二階のゲームコーナーは入り浸っていましたね。
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ありがとうございます。 (surrender90)
2018-07-21 18:25:59
コメントありがとうございます。2本ですかぁ。90年だと川間七光台付近に転居してて野07の減便ぶりがわかりませんでしたがそうでしたか。昔のヨーカドーは夢想花のヒットが落ち着いた頃の円ひろしとか結構名の知れた歌手が営業にも来てて駐車場にテント櫓作って歌ってたものです。懐かしいコメントをありがとうございます。
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