特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

運河のほとりのバス停「水堰橋」

2017-07-13 00:13:52 | 旅行

 千葉県野田市というところは利根川・江戸川そこへ利根運河も加わり市域をすっかり水に取り囲まれております。
やたら水くさい土地なので塩っ気が欲しくて野田の人々は醤油を愛好しているのかは分かりません。
どこへ行こうにも水の上を渡らなければならないので水上交通は異常発達を示し
それと引き換えに陸上交通については利根運河開通の昔と相違ない壊死状態を続けています。

 壊死なのに死亡宣告されていないのは医者に来てもらう金がないのと、いくつかの橋が水面上に架けられているからです。
今回はそのうちの一つ水堰橋にかつてあった今は亡きバス停について語りたいと思います。



 水堰橋は千葉県道関宿・我孫子線上にあり利根運河をまたいで柏市と野田市を結ぶ自動車対面通行が可能な橋梁です。


水堰橋の水堰とは水堰橋から利根川方面へ2、300メートル行った所にそそり立つこの運河水門を表していて、青い堰止めブレードを上げ下げして運河への逃げ水の水量をコントロールし利根川江戸川の流量調節を図るのだそうです。この日のように快晴の青空の下ではダム汁ならぬ水堰汁は期待できそうもありません。


現在この橋の上を走るバスは1日2回だけ往復する柏13・野田梅郷住宅循環柏たなか駅線きりですが、本数の多い柏03はこの橋の手前100Mほどのところで左折して柏市立柏高校の敷地内へ行ってしまい水堰橋を渡ることはありません。


 
 前回以前お話した野田07系統 野田市駅~流山駅前線も利根運河を渡る路線でしたが運河橋がごみごみしていてお世辞にもよい眺めと言えなかったのとは対照的にこちらは人の気配よりも自然がまさっており車窓に飛び込んでくる風景は非常に目に優しく癒し系な橋梁でした。

 わたくしの小学生時分は柏03だろうがなんだろうがここまで来たバスは橋を渡り野田市内までひたすら北上を続けていました。
それは平成17年つくばエキスプレスが出来て梅郷電建住宅までしか行かなくなるまで続きました。
橋を渡らないとなると今思い出しても朝と夕に1本づつ程度しなかなった柏12・国道16号経由柏駅西口~柏市立高校線のみでしたでしょう。



この特別急行バスとやらが柏12です(『広報かしわ』)。高校生が怖かったので乗ったことありません。

 

 野田市駅~柏駅西口線の東武バスが橋上をびゅんびゅん行き来していた私の小学生当時、否、その遥か昔からこの橋の南詰に「水堰橋」(すいせきばし)という停留所がありました。
どれほど昔からあったかというと東武野田線が総武鉄道と言っていた頃からあり、走っていたバスも東武ではなく野田醤油社が経営する総武自動車株式会社のバスでした。

 総武自動車時代は木炭バスの時代で走続距離が長く取れず野田から南下してきた車両も柏から北上してきた車両も水堰橋止まりでした。
総武鉄道の本社は野田町にありましたが、柏方面にもなんらかの車庫があり、柏は柏、野田は野田ときっちり双方折り返していたそうです。
 

「戦中は運河で何か工事をしていてその人夫がよく乗ってきた。車体は光を反射して上空から見えやすいので、
機銃掃射を避けるように橋南詰めと北詰めの森影に袋小路を作ってそれぞれ柏折り返し、野田折り返しの乗り場としていたのではなか
ったろうか」と地元の方は語っております。

 戦後も野田~水堰橋線、柏~水堰橋線ともに水堰橋折り返しとしていて、野田の渡し船を使って茨城のヤミ米を運ぶ乗客を捕らえようと警察が橋を見張っていた、とのことです。

 昭和28年になると野田~柏直通となったことが次の新聞記事から分かります。
「野田、柏間バスも野田、我孫子間県道の東葛飾郡福田村三ツ堀、瀬戸地内が破損のため野田、水堰橋間を運休し、柏、水堰橋間だけ折返し運転している。」(昭和28年10月6日 読売新聞)
 

さらに、

 昭和31年『常磐線柏駅前発野田行東武バス』と記された車掌の怪我を伝える記事。(昭和31年6月7日 朝日新聞)


 さて、私が野田市内の全路線乗りつぶしに注力していた昭和56、7年でも水堰橋は健在でした。昭和61年4月時点でドロンしていたのは前回お話したとおりです。
柏03の殆どはまだ野田車庫止まりよりも下町から愛宕神社まで野田本町通りを貫く野田市駅行きが多い時代でした。
柏の車両は半分程度が大型方向幕でしたが野田の車両は56年段階ではまだ並幅ばかりです。
柏で初めて大型方向幕を見て「大きいのは良いが系統番号を白地に緑文字で書かないのはなぜだろうか」と不思議に思いました。



 「水堰橋」は到底小学生が読める漢字ではありませんが、運賃区界なので運賃表示器(幕式)左端に漢字が書かれており、
テープアナウンスが「スイセキバシ」と言っていますので読み方はすぐ覚えました。
野田から来ると区界は水堰橋の前が「瀬戸」、後が阪東バス転回場でお馴染みの「船戸木戸」でした。
瀬戸の次のバス停が「江川」ですが、漢字ではどう書くのか分からなくて初めて乗ったとき「巨人のエガワと同じ漢字を使うのだろうか?」と思いバス停通過時にポール上部円板をまじまじと観察しました。




 橋のつなぎ目を通過するたびにバスの床板からガツンガツンと衝撃が感じられました。直前の「江川」から水堰橋へは坂を上ってくるのでアクセル吹かせ気味でくるのです。
 車窓から見下ろす運河の水は現在の3倍ほどの高さがあり雨量の多い悪天候のときなど運河ではなくまるで天然河川のように見えました。後部角席に座ったとき水堰橋バス停で客積み中に後ろを振り返ると泥に汚れた水面が見えました。それくらい水面が上にあったのです。
 春秋の晴天であれば、藁紐らしきもので土手に刺さっている細い棒にくくりつけられている古めかしい地色をした木製小船が1、2艘プカプカ浮いていて、やや離れたところにやぶっ蚊にでも刺されたかパチンと腕やら脚やらを叩いてぼりぼり掻く釣り人の姿がありました。 


 停留所は野田行き&柏行きともども橋南詰を過ぎてすぐのところにあり、わけのわからんホテルの看板もなく
今と同じような大木数本を背後に従えてオレンジ色の例のスタイルのバス停ポールがポンッと立っており緑とオレンジの対照色同士なので人のいるいないもよく見えました。
試みに赤矢印のところが私の記憶する「水堰橋」停留所のポジションでオレンジ色でぐにぐにと描いてみました。
当時すでに朝方5時台の早い時間に1本、野田車庫発北柏駅入口止まりがありましたが円板には停留所名が青ペンキの毛筆書きで「【柏03】 柏駅西口 ゆき」とのみ書かれていました。
この便は野田市駅発ではないので駅前1番のりばを始発としないはずですがなぜか1番乗り場の時刻表にも記載されていて、※印で凡例欄に「※北柏駅入口止 4番のりばから発車します」と書かれていました。野田市駅の4番のりばというのは実は野田車庫そのものことで、野田市駅と野田車庫の異同は秋葉原と岩本町みたいなものだと思ってください。

通過することはほとんど無く必ず一人は乗ってくる人がいたと思います。
水堰橋辺りの至近の鉄道駅というと当時は運河駅でしょうが大人の足でも30分以上かかりそうに思われます。
夏休みならばなにやら賑やかな子供3人連れとか親子連れ、あるいはご夫婦で大人2人連れなどなど種々な人々でした。
 

 橋というシンボリックな経路を通り過ぎての到着なので「お、いよいよ柏に入ったな」とワクワクしてきたと同時に
「やっぱり柏だとこんなところでも人がよく乗ってくるのだなあ」と思ったものです。



結局このバス停があった時代に途中下車したことは一度もなかったので今改めて現地を歩いて見て回ったところ、
大利根温泉、現在はナントカビューと名前が変わった利根川堤防下のゴルフコースの向こうに筑波山が見えました。
次回はこの大利根温泉と野田市駅を結んでいた廃止路線についてお話したいとも思いますが、私的に今非常に気になっている野田線の貨物列車の懐古話になるかも、です。

ところで東武バス様に「柏03の水堰橋バス停はいつなくなりました?」とお尋ねしましたが未だに返信いただけてないので恐らく記録がなくなってしまっているかも知れません。

 
ジャンル:
バス
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68の車輪 (通りすがりの北前橋止まり)
2017-07-19 01:16:48
初めて書き込みさせていただきます。
かつて昭和40年に柏駅から東電東東京変電所(現新野田変電所)への変圧器輸送を記録した映画が残されています。
ちょうどこの水堰橋を渡る際に地盤改良工事を行うまでして輸送しています。
この際に東武の縞々塗装の川重(川崎航空機)車体を持ついすゞBA741が登場します。
フルカラーでこの年代の車両が出てくる、しかも貸切車として映画などで他にも映っている日野RB系ではなく
数こそ多いもののローカル主体のいすゞBAが残っているというのは非常に貴重かと思います。

貴ブログタイトルで思い出しましたが、柏近辺に日野RB10が現れるとなると貸切車を除くとどこから来たものなのでしょうか?
その後試験的に僅かな期間だけRB120が柏に配属されたことがあるようですが・・・。

また時々寄らせていただきます。
突然の書き込み失礼いたしました。
68の車輪(補足) (通りすがりの北前橋止まり)
2017-07-19 01:18:48
動画はYOUTUBEへのリンクが先の書き込みの自分の名前の部分に貼られています。
是非ご覧いただければと思います。
Unknown (Unknown)
2017-07-19 09:19:16
 コメントをいただきましてありがとうございます。ただちに映像を拝見し、昭和49年水堰橋の架け替え以前、県道46号線とのみ通じていた時代の美しい映像を目の当たりにして深い感嘆を禁じえないところでございます。
 さて、RB10とあるのは野田~松戸間を走っていたバスを昭和47~50年頃、自宅の2階から母に抱かれて眺めていた記憶からでございます。見ていた車両は東武か京成かわかりませんが後年RB10の画像を見て「これだ!」と直感したからでこざいます。幼子の記憶ですので誤りがあるかも知れません。
昭和45~52年頃まで東武鉄道に勤務していた叔母は猿ヶ京温泉に到着したばかりの方向幕に「貸切」とあるRB10『らしき』車両を背後にした人物集合写真を持っておりました。観光シーズンになると車両が足りないので野田から群馬の各営業所へ『野田で持っていた』一般車両を用いて応援に行ったそうです。叔母はそのバスガイドをしておりました。その写真を見せてもらったのは東武バス野田出張所が無くなる平成13年のことで、現在は叔母と疎遠になってしまい軽々に写真を見せにもらいに行く関係ではなくなりましたが、何か機会を得て当該写真を広くご紹介できれば我が意はここに叶えられるであろう、と久しく渇望しておるところでございます。
 廃絶した路線バスの情報というのは私を含め後代の者が語ろうとすると乗車体験を伴わない当て推量のまま終わってしまうことがあり大いに正しさを損ね、ひいては後代による交通史研究をミスリーディングする過ちを招かんとするものであります。
 このブログタイトルの歴史確実性を欠いたこと謹んでお詫び申し上げるとともに、拙文ご一見賜りましたことについては深厚なる欣快堪えがたいところでございます。
Unknown (北前橋)
2017-07-20 00:16:42
早速のご返信をいただき恐縮です。

タイトルの件につきましては批判や追及の意図ではなく、誤解を招きました事非常に申し訳なく思います。

実はかつて草加から八条橋、流山と経由し柏まで路線があり、草加営業所には日野RB10の前期型らしい車両が配属された可能性があります。

当時は近年と違う方法でいすゞと日野の配属を分けており、貸切車は長尺デラックス車をいすゞと日野、いろは坂対策に短尺としたスタンダート車を日野、
乗合は平地をいすゞ、山岳地を日野という原則で分けており、近年は日野が主体である大宮・川越地区等も昭和40年代初頭まではいすゞ車が配属され、柏には日野の貸切車が存在していました。

しかし古い写真を調べてみると千住大橋や竹ノ塚近辺に丸い三分割窓を持つRB10初期型が現れており、草加あるいは足立の管内にRB10初期型が配属されていたのは間違いないようです。
草加に配属されていたと仮定した場合、上記系統で流山から柏にまで遠征してきた可能性も充分に考えられます。

http://www.eris.ais.ne.jp/~kunyu/toubu/kasiwabus03.htm
こちらの情報では昭和46年の統計で草加行が消えており、昭和40年代後半からの整理券式ワンマン化に当たり長距離系統の分割改廃に真っ先に対象にされたことがわかります。
尚、46年には水堰橋の名前が見られますが、47年7月4日の統計では消えています。

例外的な配属となると古い写真を色々見ている内に非常に興味深いものもあり、
前橋にいすゞのボンネットがあり赤城山を登っていたり、先の書き込みでも紹介させていただきましたが柏にはRB120後期型のツーマン車が存在した画像を確認しています。
山は日野、平地はいすゞ、ではいつの間に近年のような配属状況になったのかを色々な資料で探してはいるのですが、
資料に乏しい上に昭和50年代後半の境営業所、平成初期の新座営業所、その後の熊谷営業所本庄出張所と川越営業所森林公園出張所(東松山出張所)の車両交換等のように明確な目的を持った一斉置き換えではない為、難儀しているところです。

暑さ厳しい折、充分お気を付けください。

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