教学資料室

自学自習用リファレンスの意味も兼ねたブログであり、内容の誤り等一切の責任は筆者に帰します。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

2月度 日如猊下御指南

2012年03月07日 13時25分24秒 | 猊下御指南
()内は
 ・難読漢字等に対し、当用漢字への修正や読みの付加をした部分です。
 ・難解熟語には”注”として末尾に注約を付けてあります。
 ・正確を期してはいますが、これらは筆者独自に付加したものであり、正誤の責は筆者に帰します。



-------------------------------------------------------



平成24年2月度 広布唱題会の砌 (於 総本山客殿)


皆さん、おはようございます。

本日は、二月度の広布唱題会にあたり、皆様には多数の御参加、まことに御苦労さまでございます。 
昨年、宗門は僧俗一致・異体同心の団結と、身軽法重・死身弘法の大活躍によって、全国五百八十四支部中、99パーセントにあたる五百七十八支部が折伏誓願を達成し、今までにない大きな成果を挙げることができました。

 残念ながら、全支部達成とはいきませんでしたが、しかし、全国の達成数を合計すると誓願数を上回っており、大勝利であったと思います。

 これもひとえに、各支部の方々が僧俗一致・異体同心の団結と、誓願達成の強い思いを込めて、最後の最後まで全力を出しきって戦ってきた結果であり、心からお喜び申し上げます。まことにおめでとうございました。
 是非、この勝利を起爆剤としてさらに前進を重ね、本年度は必ず全支部が誓願を達成されますようお祈りいたします。


 さて、今月は宗祖日蓮大聖人様の御誕生の月であります。

 御承知のとおり、大聖人様は貞応元(一二二二)年二月十六日、安房国に御誕生あそばされました。
 大聖人様の末法御出現は、既に三千年の昔、釈尊が法華経において予証されており、如来神力品には「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅す」(法華経P516)と仰せられているのであります。

 この神力品の御文は、末法の初めの五百年に上行菩薩、すなわち内証久遠元初自受用身の御本仏宗祖日蓮大聖人が御出現あそばされ、妙法蓮華経の五字をもって無明煩悩の闇を照らし、末法の一切衆生を救済あそばされることを明かされているのであります。

 その末法御出現の御本仏大聖人様が御所持あそばされるところの妙法とは、久遠の本法たる妙法五字であり、人即法、法即人の妙法蓮華経にして、人に約せば久遠元初自受用報身如来(注1)の再誕、末法御出現の御本仏宗祖日蓮大聖人様であり、法に約せば久遠元初の妙法であります。

この人法一箇の妙法こそが、末法の一切衆生救済の根源の法であります。


 故に大聖人様は「御義口伝」に、

「今日蓮が唱ふる処の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり(中略)妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の人病を治せん事疑ひ無きなり」(御書P1732)

と仰せられているのであります。

 しかるに、世の多くの人達は一生成仏の正しい法を知らず、邪義邪宗の害毒によって正邪に迷い、その結果、謗法を犯し、苦悩にあえいでいるのが現状であります。

 されば「立正安国論」には、

「世皆正に背き人悉く悪に帰す。
故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず。
是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる。
言はずんばあるべからず。恐れずんばあるべからず」(御書P234)

と仰せられ、今日の如き世の中の不幸と混乱と苦悩の原因は、すべて邪義邪宗の謗法の害毒にあることを明かされているのであります。よって、この不幸と混乱と苦悩の根源たる謗法を断たなければ、己れ自身の幸せも、世の中の平和も実現することはできないのであります。

 故に「立正安国論」には、

「早く天下の静謐を思はゞ須く国中の謗法を断つべし」(御書P247)

と仰せられているのであります。

 さらに「南条兵衛七郎殿御書」には、

「いかなる大善をつくり、法華経を千万部書写し、
一念三千の観道(注2)を得たる人なりとも、
法華経のかたきをだにもせめざれば得道ありがたし」(御書P322)

と仰せられ、

「曽谷殿御返事」には、

「謗法を責めずして成仏を願はゞ、火の中に水を求め、
水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなしはかなし」(御書P1040)

と仰せられ、

さらに「妙法比丘尼御返事」には、

「仏法の中には仏いましめて云はく、
法華経のかたきを見て世をはぶかり恐れて申さずば
釈迦仏の御敵、いかなる智人善人なりとも必ず
無間地獄に堕つべし」(御書P1262)

と仰せであります。

 これらの御文は、いずれも折伏についてたいへん厳しい御教示でありますが、しかし、それだけ私どもの成仏にとって、いかに折伏を行ずることが大事であるかを示されたもので、私どもはこの御金言をしっかりと受け止め、御金言のままに折伏を行じていくことが肝要であります。(注3)

 「如説修行抄」には、

「権実雑乱の時、法華経の御敵を責めずして
山林に閉ぢ篭りて摂受の修行をせんは、
豈法華経修行の時を失ふべき物怪(もっけ。注4)
にあらずや。
されば末法今の時、法華経の折伏の修行をば誰か
経文の如く行じ給へる。
誰人にても坐せ、諸経は無得道堕地獄の根源、
法華経独り成仏の法なりと音も惜しまずよばはり給ひて、
諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ」(御書P673)

と仰せであります。

「誰人にても坐せ、諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なりと音も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ」(注5)との御金言を、私どもはよくよく心腑に染むべきであります。

 今、宗門は真の僧俗一致・異体同心の団結をもって、来たるべき平成ニ十七年・三十三年へ向けて前進しております。

 この時にあたり、一人ひとりが本年「実行前進の年」にふさわしく、一歩一歩、力強く折伏を実行し、折伏をもって来たるべきニ十七年・三十三年の目標へ向かって前進していただきたいと思います。

 広宣流布の戦いには、後退はもちろん、とどまることも、躊躇も無用であります。ただ「実行前進」あるのみであります。

 そのためには、まず唱題が大事であります。何年も連続して折伏誓願を達成している支部は、皆、講中挙げて唱題を行い、その唱題の功徳と歓喜をもって一丸となって折伏を行じ、大きな成果を挙げております。

 唱題と折伏との関係は、まさしく不即不離(注6)の関係にあります。 どうぞ、皆様にはこれからも唱題に励み、折伏を行じ、必ず本年度の誓願を達成されますよう心から念じ、本日の挨拶といたします。



-------------------------------------------------------------------------


注1:久遠元初自受用報身如来

久遠(くおん)には、時間の長短を元にした3つの定義と、状態(物事の意味)を元にした一つの定義がある。

時間においては法華経迹門(しゃくもん)・本門・文底それぞれにおいて異なる。

一つは迹門の定義。
「化城喩品(けじょうゆほん)第七」では三千塵点劫をいう。
三千塵点劫の久遠に大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)が法華経を説き、その滅後に十六人の王子たちが法華経を説き(大通覆講(だいつうふっこう))、その結果として衆生と結縁したと定義される。

二つは本門の定義。
「如来寿量品第十六」では五百塵点劫(五百千万億那由他阿僧祇)をいう。
意味としては「五百億塵点劫」であり、迹門に期された三千塵点劫を遥かに超越した長遠の過去という定義。

三つには大聖人様が法華経文底の法門から明かされた定義。
これは本門文上の久遠五百(億)塵点劫を遙かにさかのぼった当初を指すもので、大聖人様は
 「釈迦如来五百(億)塵点劫の当初(そのかみ)
  凡夫にて御坐(おわ)せし時、我が身は地水火風空
  なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき」
  (総勘文抄 P1419)
と仰せられており、この「五百塵点劫の当初」こそ久遠元初のこと。

この3つに対するのが、時間軸を離れた「物事の状態(意味)」に従った定義。

御義口伝巻下に「久遠とははたらかさず、つくろわず、もとの儘と云う義なり」とあるように、時間的長遠を超越した、生命の究極の真理に回帰した”状態”、すなわち、生命に本来そなわる無作常住の仏性を覚知した姿を久遠元初とする定義。

衆生の生命は、過去・現在の行為、外界からの影響によってさまざまな業をまとっているが、その業の奥には生命本来の清浄な本体がある。この本来の生命の姿を久遠元初といい、また南無妙法蓮華経といい(御義口伝 P759)本指導ではこの意で用いられているかと思われる。


自受用報身如来とは。

仏という場合
(1)法界の一切の真理としての法身(ほっしん)如来
(2)その真理を照らす智慧身たる報身(ほうしん)如来、
(3)大慈悲によって一切衆生を救済する応身如来

の三つの側面があるが、三身の中でも、特に悟りの智慧を中心として、そこに法身・応身の二身を兼ね備えた仏を報身如来といい、この報身仏が自ら悟られたそのままの境界を「自受用」という。

すなわち、久遠元初と合わせて「久遠元初自受用報身如来」と号する時は、我々も含めたこの世界(次元)が発生したその瞬間から存在する「絶対的な究極の仏」を意味する。

蛇足であるが。
無神論者と、特に科学(物理)を持ちだして否定する者には、この文書を物理学が証明しつつあることが論拠になるか。


注2:
一念三千の観心の道のこと。

分けて考えれば本門の題目であるが、師弟子の血脈が通っていない題目は空虚であり魔にも通じかねないことから、本義としては三宝に帰依している状態の事を顕すか。


注3:1月度の日如上人様御指導も参照。

1月度は「曽谷殿御返事」を引かれ
 「涅槃経に云はく『若し善比丘あって法を壊る者を見て、
置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし、
是の人は仏法の中の怨なり。
若し能く駈遣し呵責し挙処せば、是我が弟子、
真の声聞なり』云云。此の文の中に見壊法者の見と、
置不呵責の置とを、能く能く心腑に染むべきなり。
法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀ともに
無間地獄は疑ひなかるべし。南岳大師の云はく
『諸の悪人と倶に地獄に堕ちん』云云」(御書P1039 注3)

と、折伏にうってでることの大切さと、懈怠することの危うさを御指導であり、ゆえに、日如上人様は冒頭において「身軽法重・死身弘法」の言を出されているとも解釈できる。


注4:物怪(もっけ)
化け物の事。
以下は御法主日如上人猊下御講義集「平成18年度第4回法華講夏期講習会」より。

[如説修行抄]
  然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば、
  冬種子を下して益を求むる者にあらずや。鶏の暁に
  鳴くは用なり、よいに鳴くは物怪なり。権実雑乱の
  時、法華経の御敵を責めずして山林に閉ぢ籠りて摂
  受の修行をせんは、豈法華経修行の時を失ふべき物
  怪にあらずや。されば末法今の時、法華経の折伏の
  修行をば誰か経文の如く行じ給へる。誰人にても坐
  せ、諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の
  法なりと音も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法
  共に折伏して御覧ぜよ。三類の強敵来たらん事は疑
  ひ無し(御書673㌻1行目)

(中略)

 「権実雑乱(ぞうらん)の時、法華経の御敵を責めずして山林
  に閉(と)ぢ籠(こも)りて摂受の修行をせんは、豈(あに)法華経修行
  の時を失ふべき物怪にあらずや」。

 これは厳しい御指南ですね。末法の折伏の時に、折伏を忘れて何か取り澄(す)ましたような信心をしている者は、それは化け物であるとおっしゃっているのです。皆さん方も化け物などと言われないような信心をしなければだめですね。

 やはり、末法という時代をよく考えて精進すべきなのです。
 先ほどの日寛上人の御指南にもあった通り、教・機・時・国・教法流布の前後の上からも、末法の時は折伏をしなければ功徳がないわけです。折伏をしなければ、 自らの過去遠々劫(おんのんごう)以来の罪障を消滅していけないのです。

 折伏をしなければ、他の人を教うこともできず、慈悲行、報恩行を果たすことができないのです。本当の仏道修行をすることができなくなってしまうということてあります。

 「されば末法今(いま)の時、法華経の折伏の修行をば
  誰か経文の如く行じ給(たま)へる。誰人にても坐(おわ)せ、
  諸経は無得道堕(だ)地獄の根源、法華経独(ひと)り成仏の
  法なりと音(こえ)も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の
  人法共(とも)に折伏して御覧ぜよ」。


と仰せであります。

 つまり、末法においては「大聖人様の仏法以外に幸せになる道はありませんよ」、
「あなたのなさっている間違っている教えでは、本当の幸せ掴(つか)めませんよ」と言わなければだめなのです。

 この御文をよくよく拝したならば、私たちは直ちに立ち上がって、一人ひとりが折伏を行じていかなければだめなんです。 折伏をしなければ本当の信心をしたことにはならないとおっしゃっているのです。

 自行だけの信心てはなく、自行化他にわたる信心をしていくことが大聖人様の仏法であり、それが法華経の精神であるということです。

 つまり、折伏というのは大聖人様の御命(ぎょめい)であると、このようにおっしゃっているわけてあります。

(後略)


注5:
(通釈)
法華経以外の一切の諸経には唯一人の得脱者もなく、かえって無間地獄へ堕ちる根源であり、法華経独り真の成仏の教法であると声も惜しまず呼号して諸宗の人々並びにその法門を、「念仏は無間地獄の業」「禅は天魔の所為」「真言は亡国の悪法」「律は国賊の妄説」であると折伏をしてごらんなさい。

(解説)
 一切衆生の成仏、一切の女人の即身成仏、二乗の成仏を始め十界の衆生の成仏は法華経にのみ解き明かされており、諸宗の如何なる教義、法門に於いて唯一人にも許されていない。
よって、諸宗、諸経に執われている人は全て無間地獄行きを覚悟しなければならない。
同時に私達日蓮正宗の僧俗も自行の勤行唱題を重ねると共に、折伏の大願を起こし諸宗は無得道という事を確信を持って破折し、諸宗の誤りを正して正法の功徳に浴させ、人々を幸福に導き、謗法の人々を救って行く事を怠っては、師檀ともに堕地獄となる。


注6:不即不離(ふそくふり)

○本来の意味として。
この世に存在する事象で、見た目としては二つであるが、その本義として二つを分別することは出来ないということ。
例えば紙の裏と表。
観測すれば「表と裏」という二つの側面を持つが、存在としては”表裏で分割”出来るわけも無く、同一の(一つの)存在である物質(状態)を顕す言葉で、「而二不二(ふにふに)」とも、「不一不異(ふいつふい)」とも。

本指導ではこちらの意味で使われていると解すべき。

○現代熟語の意味として。
二つのものの関係が深すぎもせず、離れすぎもしないこと。
つかず離れず、ちょうどよい関係にあること。
『社会』 ジャンルのランキング
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 1月度 日如猊下御指南 その2 | トップ | 日如上人書写御本尊誹謗を破す »

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。