教学資料室

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3月度 日如猊下御指南2

2012年04月07日 02時50分10秒 | 猊下御指南
総会より (於総本山 3月25日)


 本日は、法華講連合会第四十九回総会が、ここ総本山において、御隠尊日顕上人猊下の御臨席を賜り、このように盛大に開催され、まことにおめでとうございます。

 本年「実行前進の年」は、来たるべき平成二十七年・三十三年の目標に向かって三年目当たり、すべての法華講員が「実行前進」の意義をしっかりと心肝に染めて立ち上がり、総力を結集して折伏を実行し、折伏をもって前進すべき、まことに大事な年であります。

 昨年は、全国的に折伏の気運が高まり、99パーセントの支部が折伏誓願目標を達成することができました。
 残念ながら100パーセントの達成とはいきませんでしたが、しかし、全国の折伏達成数を合計すると誓願数を上回っており、その意味におきましては、大勝利であったと言えます。

 これもひとえに、各支部の指導教師をはじめ御信徒御一同が真剣に折伏に取り組み、異体同心の団結をもってあらゆる障魔を乗り越え、止暇(しか)断眠、死身弘法(注1)の御聖訓を胸に、勇猛果敢に戦ってきた結果であり、皆様の御検討を心からたたえるものであります。本当に御苦労さまでございました。
 本年は、なお一層の団結と精進をもって、必ずすべての支部が折伏誓願を達成されますよう、心から願うものであります。

 さて、法華経提婆達多品を拝しますと、「悪人成仏」と、娑竭羅竜王(しゃからりゅうおう)の娘の「竜女成仏」の二つが説かれております。
 提婆達多は、阿難尊者(あなんそんじゃ)の兄、斛飯王(こくばんのう)の嫡子、釈尊のいとこに当たりますが、幼いころから釈尊に敵対し、釈尊に与えられた白象を打ち殺したり、耶輸陀羅(やしゅだら)姫を争って敗れたりしました。

 のちに出家して釈尊の弟子となりましたが、高慢な性格で名聞名利の念が強く、五逆罪を犯した極悪人であります。
 提婆達多が犯した五逆罪とは、まず五百人の比丘(びく)を誘惑して和合僧を破ったこと。二に、大石を落として仏様の身体から血を出したこと。三に、阿闍世王(あじゃせおう)をそそのかして酔象を放ち、仏様を踏み殺させようとしたこと。四に、こぶしをもって蓮華比丘(れんげびく)を殺したこと。五に、毒を手の爪に置き、仏足を礼するふりをして仏様を傷つけようとしたこと、この五つであります。その結果、提婆達多は当然の如く、大地が裂け、生きながら阿鼻大城(あびたいじょう、注2)に堕ちたと言われております。

 しかし、釈尊が過去世に修行中、提婆達多は阿私(あし)仙人として因位の修行の師であったことが明かされて、無量劫ののちに、天王如来として未来成仏の記別が与えられたのであります。

 竜女成仏とは、八歳の竜女が蛇身(だしん)のまま即身成仏したことをいいます。竜女とは娑竭羅竜王の八歳の娘で、蛇身の畜生ながら、文殊師利菩薩(もんじゅしりぼさつ)の説法を聞いて即座に菩提心を発(おこ)し、 霊鷲山の会座
(えざ)に列して仏様に宝珠を奉り、成仏を現じたことが明かされております。

 これは、爾前の諸経では許されなかった女人の成仏が、法華経において初めて明かされ、さらに歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう、注4)することなしに、速やかに得道する即身成仏の義が明かされたのであります。

 この提婆達多と竜女の成仏は、滅後の衆生に対して法華経の功徳の深重(じんじゅう)なることを証し、妙法弘通を諌暁(かんぎょう)したことから「二箇の諌暁」と言い、前の宝塔品の「三箇の勅宣(ちょくせん)」と合わせて「五箇の鳳詔(ほうしょう)」と言われております。

 諌暁とは、諌(いさ)め諭(さと)すことでありまして、相手の誤りを指摘して迷妄を開き、正しい道に導くことでありますが、まさしく提婆達多品は、爾前諸経ではかなえられなかった悪人ならびに女人の成仏を示されて、法華経の広大深遠(じんのん)なる功力(くりき)を示し、滅後末法における正法流通を勧められているのであります。

 つまり、提婆達多と竜女の成仏は、二人だけの成仏にとどまるものではなく、「挙一例諸(こいちれいしょ)」と申して、末代の一切衆生の成仏相を明かし、もって滅後妙法弘通を奨励されているのであります。

 故に「主師親御書」には、提婆達多の成仏を挙げて、

  「この経を信じまひらせて聴聞するならば、
   提婆達多程の悪人だにも仏になる。
   まして末代の人はたとひ重罪なりとも多分は
   十悪をすぎず。
   まして深く持ち奉る人、仏にならざるべきや」
   (御書 P51)


 と仰せられ、また『開目抄』には、竜女の成仏を挙げて、

  「竜女が成仏、此(これ)一人にはあらず、
   一切の女人の成仏をあらわす」
   (同 P563)

 と仰せられております。

 また、弘安二年の『上野殿御返事』には

  「夫(それ)第五の巻は一経第一の肝心なり。
   竜女が即身成仏あき(明)らかなり。
   提婆はこゝろの成仏をあらはし、竜女は
   身の成仏をあらはす。
   一代に分(ぶん)絶(たえ)えたる法門なり」
   (同 P1359)

 と仰せられています。

 すなわち、提婆達多は極悪非道の心の代表であり、その提婆達多が、阿鼻大城に堕ちた悪逆の身のまま天王如来の記別を受けたことは「こころの成仏」を表し、竜女は畜生の身そのまま、現に成仏の相を現じたことから「身の成仏をあらわす」とされ、提婆達多と竜女の成仏をもって、色心二法にわたる成仏を表されているのであります。

 しかして、これらの成仏相は『一代聖教大意』に、

  「問ふ、諸経の如きは或は菩薩の為、
   或は人天の為、或は声聞縁覚の為、
   機に随(したが)って法門もかわり益(やく)も
   かわる。
   此の経は何(いか)なる人の為ぞや。
   答ふ、此の経は相伝に有らざれば知り難し。
   悪人善人・有智無智・有戒無戒・男子女人、
   四趣八部、総じて十界の衆生の為なり。
   所謂(いわゆる)悪人は提婆達多・
   妙荘(みょうしょう)厳王(ごんのう)・阿闍世王、
   善人は韋提希(いだいけ)等の人天の人。
   有智は舎利弗、無智は須利槃特(すりはんどく)、
   有戒は声聞・菩薩、無戒は竜・畜なり。
   女人は竜女なり。
   総じて十界の衆生、円の一法を覚(さと)るなり」
   (同 P92)

 と仰せのように、提婆達多ならびに竜女の成仏は、あらゆる悪人善人・有智無智・有戒無戒・男子女子を問わず竜畜に至るまで、すべての衆生は十界皆成(じゅっかいかいじょう、注5)を説く法華経の広大無辺なる功力によって、成仏がかなえられることを証されているのであります。

 その法華経とは、今時(こんじ)末法に約して申せば文上の法華経ではなく、文底の法華経、すなわち本門寿量の肝心、文底秘沈の大法にして、久遠元初自受用身の御当体、無作本有(むさほんぬorむさほんゆ、注6)の南無妙法蓮華経のことであります。

 しかれば、我ら一同、たとえ悪業の猛火に苦しむ者であったとしても、ひとたび本門戒壇の大御本尊に対し奉り、至心に題目を唱え、自行化他の行業に励むとき、即身成仏、決定(けつじょう)として疑いないのであります。

 ただし『日厳尼御前御返事』には、

  「叶(かな)ひ叶はぬは御信心により候べし。
   全く日蓮がとが(咎)にあらず」
   (同 P1519)

 と御教示あそばされています。

 持ち奉るところの御本尊は無二の尊体にして絶対であっても、成仏・不成仏を決定するのは、まさしく私どもの信心の厚薄(こうはく)によるべきであり、信心弱くしては何事もかなわないのであります。

 したがって、提婆達多品にも、「浄心信敬(じょうしんしんぎょう)」(法華経 P362)と説き、疑惑を断じて、清浄な心で御本尊様を信じ敬い、「無疑曰信(むぎわっしん、注8)」の信心を貫きとおすところ、必ず成仏を遂げることができると示されてるのであります。

 では「叶ひ叶はぬは御信心により候べし」と仰せられた信心とは、いかなる信心を言うのか。

 大聖人は『三大秘法抄』に、

  「末法に入って今(いま)日蓮が唱ふる所の題目は
   前代に異なり、自行化他に亘(わた)りて
   南無妙法蓮華経なり」(御書 P1594)

 と仰せであります。

 すなわち、末法今時の仏道修行は自行化他の信心こそが肝要であり、自行化他の信心に励むところに、我らの所願も、また我々の成仏得道もかなえられるのであります。

 角度を変えて言えば、自行のみの信心にとどまって、化他行すなわち、折伏を行じないということは、大聖人様の御正意にもとることになるのであります。

 故に『南条兵衛七郎殿御書』には、

  「いかなる大善をつくり、法華経を千万部書写し、
   一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経の
   かた(敵)きをだにもせめざれば得道ありがたし」
   (同 P322)

 と仰せられています。

 また『聖愚問答抄』には、

  「今の世は濁世(じょくせ)なり、人の情もひがみ
   ゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。
   此の時は読誦・書写の修行も観念・工夫・修練も
   無用なり。
   只折伏を行じて力あらば威勢を以(もっ)て謗法を
   くだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり。
   取捨其(そ)の旨(むね)を得て一向(いっこう)に
   執(しゅう)する事なかれと書けり。
   今の世を見るに正法一純に弘まる国か、邪法の
   興盛(こうじょう)する国か勘(かんが)ふべし」
   (同 P403)

 と仰せられております。また『阿仏尼御前御返事』には、

  「いふといはざる(不言)との重罪免(まぬか)れ難し、
   云ひて罪のまぬかるべきを、見ながら聞きながら
   置いていま(禁)しめざる事、眼耳の二徳
   忽(たちま)ちに破れて大無慈悲なり。
   章安の云はく『慈無くして詐(いつわ)り親しむは
   即ち是(これ)彼が怨なり』等云云。重罪消滅し
   がたし」(同 P906)

 と仰せられ、さらに『曽谷殿御返事』には、

  「謗法(ほうぼう)を責めずして成仏を願はゞ、
   火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが
   如くなるべし。はかなしはかなし」
   (同 P1040)

 と仰せであります。

 私どもは、今一度これらの御金言をよくよく拝し奉り、本年「実行前進の年」にふさわしく、一人ひとりが決意と勇気を持って折伏に立ち上がり、誓願達成へ向けて前進をしていかなくてはなりません。

 特に、昨今の混沌(こんとん)とした世情を見るとき、今、我々が急務とすべきことは『立正安国論』の御正意に照らして、折伏であることを、よくよく知るべきであります。

 大聖人は『立正安国論』に、

  「倩(つらつら)微(び)管(かん)を傾け聊(いささか)
   経文を披(ひら)きたるに、世皆(みな)正に背き
   人悉(ことごと)く悪に帰す。故に善神国(くに)を
   捨てゝ相(あい)去り、聖人所(ところ)を辞して
   還(かえ)らず。是(ここ)を以て魔来たり鬼(き)
   来たり、災(さい)起こり難(なん)起こる。
   言(い)はずんばあるべからず。恐れずんば
   あるべからず」(同 P234)

 と仰せであります。

 世の中の不幸と混乱と苦悩の原因は、ひとえに謗法の害毒にあり、池田創価学会をはじめ邪義邪宗の謗法の退治なくして、国土世間の安穏も、世の中の平和も、一人ひとりの幸せも実現できないのであります。

 されば私どもは、僧俗一致・異体同心して、一意専心、破邪顕正の折伏を行じ、遠くは一天四海本因妙広宣流布を目指し、近くは平成二十七年・三十三年の目標達成ならびに本年度の全支部折伏誓願達成を目指し、いよいよ御精進くださるよう心からお願いを申し上げ、本日の挨拶といたします。

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注1:止暇(しか)断眠、死身弘法

止暇断眠とは、無駄な人生の暇を止め、無駄な眠りを断つことを言う。
日蓮大聖人様は『富木殿御書』に、

 「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて
  之を案ぜよ。一生空しく過ごして万歳
  悔ゆること勿れ。」(御書P1169)

と、人生を無駄に過ごすことなく、有意義な、後悔しない状態で過ごすようにと御指導である。

 死身弘法は涅槃経疏巻十二の『菩薩品第十六』に説かれる文。
 「身を死(ころ)して法を弘む」と読み、「衆生の身は軽く、弘むべき法は重いゆえに、身命を賭(と)して仏法を弘めなければならない」という意味を持つ。

『乙御前御消息』には、

 「身軽法重(しんきょうほうじゅう)、
  死身弘法とのべて候へば、
  身は軽ければ人は打ちはり悪む(にくむ)
  とも、法は重ければ必ず弘まるべし。
  法華経弘まるならば死かばね(しかばね=屍)
  還つて(かえって)重くなるべし。
  かばね重くなるならば此のかばねは利生あるべし」
  (御書P898)

 とあり、『松野殿御返事』には

 「迹門には『我身命を愛せず但無上道を惜しむ』
  ととき、本門には『自ら身命を惜しまず』ととき、
  涅槃経には『身は軽く法は重し、身を死(ころ)して
  法を弘む』と見えたり。
  本迹両門・涅槃経共に身命を捨てて法を弘むべしと
  見えたり。
  此等の禁めを背く重罪は目には見えざれども、
  積もりて地獄に堕つ」(御書P1051)

 と説かれている。

 御住職様御指導によれば「魔は弱い部分(人)に出る」とのことである。
 となれば(私見ではあるが)、自身の肉体で言えば弱い部位に病が出ることでもあるが、魔は我々でなく更に弱い老人子供等を好んで襲うということであろうか。
 ならば、我々自身が「今日の自分は健康だから」として必死の折伏を行わないならば、その陰で弱い存在の人々が魔にとり殺されていること(加えて我々が見過ごしているということ)に繋がりうるのではないだろうか?


注2:阿鼻大城

「阿鼻地獄」のこと。
八大地獄の一つで欲界の最低、大焦熱地獄の下にあるとされ、五逆罪をつくる人、正法誹謗の者がこの地獄に堕ちると経には説かれている。


注3:未来成仏

三劫成仏、すなわち「三劫という長い期間の修行をしたのちに、来世で生まれ変わり成仏する。」という意味か?


注4:歴劫修行

劫は時間の長さを、歴とは経過することを良い、合わせて「劫(非常に長い時間)の期間修行する。」ことを顕す。
菩薩が長い間、過去現在未来の三世において転生を繰り返して修行すること。


注5:十界皆成

「生前の悪業の報いで地獄界、餓鬼界、畜生界(三途または三悪道)に堕して苦しんでいる者たちも、子孫、縁者の題目による回向で、題目の功徳が三途に通じ、たちまち堕獄の境遇から逃れて成仏できる」ということ、またはその論の事。

これに対する十界久遠論では「三途(三悪道)の畜類(畜生)はそのまま成仏するのではなく、縁者の手向ける題目の法力で、人界に回生し、題目口唱の信心の功徳によって成仏できる。無信無行の畜生が、そのまま成仏できるなら、何も滅罪生善の修行などする必要がない。」と考える。


注6:無作本有

無作とはは、作為がないことであり、ありのままの姿という意味。
本有とは、あとから修行等によって生じるのではなく、本来(本から、ありのままの状態として)存在していること。


注7:浄心信敬

清浄な心で仏を信じ敬うこと。
釈尊に害をなした提婆達多であっても、法華経の会座において成仏が叶ったのは、浄心信敬の修行があったからであるとされる。


注8:無疑曰信

「疑い泣きを信と曰(い)う」と読む。
「御義口伝巻上」に

 『一念三千も、信の一字より起り
  三世の諸仏の成道も信の一字より
  起こるなり
  この、信の字元品の無明を切る利剣なり、
  その故は信は無疑曰信とて疑惑を断破する
  利剣なり』
  (御書 P1737)

とある通り、教えを心に深く受け持って疑わないことが無明(迷い、苦しみ)を断つ方法であるとの意味。
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