教学資料室

自学自習用リファレンスの意味も兼ねたブログであり、内容の誤り等一切の責任は筆者に帰します。

1月度 日如猊下御指南 その2

2012年03月07日 13時23分56秒 | 猊下御指南
()内は
 ・難読漢字等に対し、当用漢字への修正や読みの付加をした部分です。
 ・難解熟語には”注”として末尾に注約を付けてあります。
 ・正確を期してはいますが、これらは筆者独自に付加したものであり、正誤の責は筆者に帰します。



今回の御指導は総量としては短いですが、それだけに熟読しやすく、ピンポイントで
「今

何をやるべきか、どういう心構えで踏み出すべきか」がより鮮明に理解出来ます。

特に

○身軽法重・死身弘法の心構えで
○今この時に実行前進すべき(折伏を推し進める)

という点は繰り返し御引用・御指導で、ひいては創価学会が唱えるところの「仏法は
民衆が
主役」としていることが如何に間違っているか、法理の面から明らかにしておられま
す。



--------------------------------------------------------------------------

新年之辞 (平成24年1月 大日蓮・第七九一号)
 
 立宗七百六十年の新春を迎え、御隠尊日顕上人猊下には御機嫌麗(うるわ)しく新年
をお迎えの御事と存じ上げます。
 また、宗内僧俗御一同には、清々(すがすが)しく新春を迎えられ、慶賀の至りに存
じます。
 本年「実行前進の年」は、平成二十七年・平成三十三年の目標達成へ向けて、三年
目に当たる誠に大事な年であります。

 昨年、宗門は僧俗の固い団結と師子奮迅の活躍により、八七.一六%、五百九の支
部が折伏誓願を達威し、就(なかん)中(ずく)、北海道第二布教区・北海道第三布教
区・山形布教区・宮城布教区・茨城布教区・甲信布教区・静岡北布教区・三重布教
区・京都布教区・南近畿布教区・兵庫布教区・山口布教区・香川布教区・福岡西布教
区・熊本布教区・南九州布教区では、管内全支部が折伏誓願を達成し(十二月十五日
現在)、完全勝利を収めることができました。
 これも偏(ひとえ)に、布教区内僧俗一人ひとりが、強盛な一念をもって折伏に取り
組んで来た結果であり、弛(たゆ)まぬ努力の賜(たまもの)でありますが、同時に、宗
務院布教部の指導のもと、適時行われた折伏推進指導会、並びに全国的には折伏推進
委員の昼夜を別(わか)たぬ献身的、精力的な指導激励によるものであり、布教部をは
じめ折伏推進委員各位の為宗為法の御奉公に感謝の意を表するものであります。

 さて、本年「実行前進の年」は、文字通り全支部が足並みを揃えて前進し、折伏誓
願を必ず達成すべき大事な年であります。
 前進とは、目標に向かって精魂込めて、ひたすら進むことであります。
 当然、それには行く手を阻む様々な障魔が惹起(じゃっき)しますが、身軽法重・死
身弘法(注1)の信心に徹し、目的達成に向かって勇敢に努め励むことが肝要でありま
す。

日蓮大聖人は『教行証御書』に、

「日蓮が弟子等は臆病(おくびょう)にては叶(かな)ふべからず。
彼々の経々と法華経と勝劣・浅深・成仏不成仏を判ぜん時
爾前迹門の釈尊なりとも物の数ならず。何(いか)に況(いわ)んや
其の以下の等覚の菩薩(注2)をや。
まして権宗(ごんしゅう、注3)の者どもをや」(御書 P1109)

と仰せであります。
 一閻浮提第一の大御本尊に対する絶対的確信と勇気をもって、邪義邪宗の謗法を打
ち破り、折伏逆化(しゃくぶくぎゃっけ)の戦いに参加し前進していくところ、必ず御
本尊の御照覧を給わり、願いは達成成就されるのであります。 則(すなわ)ちこの確
信こそ、誓願達成の要諦と言えるのであります。 宗内僧俗各位には猶(なお)一層の
御精進をもって、来たるべき平成二十七年・三十三年の目標を達成すべく、先ず本年
「実行前進の年」を必ず勝利するよう衷心よりお祈りして、新年の挨拶といたしま
す。


----------------------------------------------------------------------


○注1:身軽法重・死身弘法

しんきょうほうじゅう・ししんぐほう。

「身軽法重・死身弘法」の語は、涅槃経疏巻十二の『菩薩品第十六』に説かれる文
で、「身は軽く法は重し、身を死(ころ)して法を弘む」と読みくだす。

 身軽:衆生の身は軽く
 法重:弘むべき法は重い
 死身:身命を賭して
 弘法:仏法を弘める。

という意味である。


「乙御前御消息」には、
 「身軽法重、死身弘法とのべて候へば、身は軽ければ人は打ちはり悪(にく)むと
も、法は重ければ必ず弘まるべし。法華経弘まるならば死かばね(屍)還つて(かえっ
て)重くなるべし。かばね重くなるならば此のかばねは利生あるべし」(御書 
P898)

と説かれており、身軽法重・死身弘法の覚悟で正法を弘通していくことが、自らの懺
悔滅罪の行法であること、その功徳によって軽いはずの凡夫の屍も(法と同じく)重
く尊いものになることを御指南されている。

また「松野殿御返事」に、

 「迹門には『我(われ)身命を愛せず但(ただ)無上道を惜しむ』ととき、本門には
『自ら身命を惜しまず』ととき、涅槃経には『身は軽く法は重し、身を死(ころ)して
法を弘む』と見えたり。本迹両門・涅槃経共に身命を捨てゝ法を弘むべしと見えた
り。此等の禁(いまし)めを背く重罪は目には見えざれども、積もりて地獄に堕つ」
(御書 P1051)

と仰せられているように
①身命を捨てて法を弘めなければならないこと
②この戒めにそむく場合の罪(罰)は「堕地獄である。」こと。

すなわち「やらなければならないこと。やらないことは謗法と同意であること。」を
示されている。


「身軽法重・死身弘法」の具体例は前掲の「松野殿御返事」で

 「雪山童子の古(いにしえ)を思へば、半偈の為に猶(なお)命を捨て給ふ。何に況ん
や此の経の一品・一巻を聴聞せん恩徳をや。何を以てか此を報ぜん。尤(もっと)も後
世(ごせ)を願はんには、彼の雪山童子の如くこそあらまほしくは候へ(中略)我が身
命を捨て仏法を得べき便りあらば、身命を捨てゝ仏法を学すべし」(御書 P1050)

と説かれているということを拝察しても、法華経を理解し、信じ、学び、行じる(そ
の中の重要な柱が折伏)ことが非常に重要であるという事が理解できる。



○注2:等覚の菩薩
    等覚は、52段階ある菩薩の位のうち、上から2番目の位。
    最上位の妙覚は一切の煩悩を断じ尽くした位で、仏・如来と同一視
    され、等覚は、その智徳が妙覚と等しくなったという意味で等覚と
    いう。
    つまり、意としては「仏と同一視される妙覚に比肩しうる等覚で
    あっても、法華経のありがたさとは比べ物にならない。」

    

○注3:権宗
  権とは「仮」の意味で、法華経以外の経典を表わす。

「権実相対」において法華経以前の四十二年の諸経と法華経とを比較し、勝劣が明ら
かになっている。
 
権大乗教の経典とは、五時教判(ごじきょうはん)の中の第一の華厳(けごん)時、第三
の方等(ほうどう)時、第四の般若(はんにゃ)時に説かれた経典をいう。(第二の何含
時は小乗教に分類される。)

華厳時では法を仮りに説き与えて衆生がその法を受け入れることができるかどうかを
試した華厳経が説かれた。

方等時では、様々な権大乗教が説かれ、前の阿含時で説いた小乗の教えに執着してい
る二乗を呵責(かしゃく)し、大乗教を慕(した)わせるように仕向けた。

般若時では、一切は皆空(みなくう)であると明かし、仏の教えは大乗の法のみである
と教え、大乗・小乗を融合させた。

以上のように、権大乗教(および小乗教)は真実の教えである法華経に導き入れるた
めの方便の
教えであり、故に釈尊も

「四十余年には未だ真実を顕さず。」(無量義経)
「正直に方便を捨てて、但無上道(ただむじょうどう)を説く。」(法華経方便品)

等々と述べている。



○注4:折伏逆化

謗法の者に(敢えて)対置して法華経の縁を結ぶこと。

末法は五濁悪世(ごじょくあくせ)の時代であり、貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)の三毒
強盛(ごうじょう)の衆生が充満する時代であり、このような時代では熟益や脱益の釈
尊の仏法では成仏は出来ず、ただ下種仏法である大聖人の三大秘法の教えのみが衆生
を救える。

つまり、末法の衆生は久遠元初の御本仏の下種の妙法をもって折伏逆化すべきであ
り、その機縁であると知ることが「機を知る」ということにも繋がる。

これの対極にあるのが、学会が唱えるところの「随機(ずいき)説法」。
創価学会は「仏法は民衆が主役」としている。
確かに、信仰を持つのは個々の人(=民衆)であり、現代日本は民主主義であること
を合わせ思えば、この考えは浅見すると正しいように思える。
しかしこれは「教えを説く立場(正しい仏法に帰依する僧俗)と、説かれる立場(機
縁を持たない衆生)を取り違えた考え。」である。

大聖人は「撰時抄」で

「機に随(したが)って法を説くと申すは大(だい)なる僻見(びゃっけん)なり」(御書
 P846)

と仰せであり、ここから「法を信じ守る原動力は民衆であるが、末法の衆生を救う立
場としての僧俗は折伏逆化を忘れてはならないし、これを(意識的であると無意識で
あるとを問わず)忘れることは懈怠に留まらず、法を破る謗法と同義である。」とい
える。

大聖人御在世中も、諸宗が衆生の機根を主とし、法を従として、それぞれ勝手適当に
法を説いていた。
もちろん彼らにも一切衆生救済のために仏法を説いたという一分の想い(言いわけ)
はあろうが、末法という時と、衆生の機縁と、何より「南無妙法蓮華経の大法の存在
を知りながら、三宝を無視して」邪法を説くことは本未有善の衆生を地獄に堕す所業
であったともいえ、現代においては創価学会や顕正会の行為もこれと同義となる。


コメントを投稿