教学資料室

自学自習用リファレンスの意味も兼ねたブログであり、内容の誤り等一切の責任は筆者に帰します。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

4月度 日如猊下御指南1

2012年04月16日 21時48分54秒 | 猊下御指南
平成24年4月度 広布唱題会の砌 (総本山客殿)

 本日は、四月度の広布唱題会に当たり、皆様には多数の御参加、まことに御苦労さまでございます。
 本年も既に四月に入り、四分の一が過ぎましたが、皆様には僧俗一致・異体同心して日夜、折伏誓願達成へ向けて御精進のことと思います。
 最近の混沌とした国内外の世情を見るに、我々は「立正安国論」の御正意に照らし、平成二十七年・三十三年の目標は、宗門の僧俗が一致団結し、総力を挙げてなんとしても達成しなければならないと思います。
 そのためにも、本年は是非、全支部が折伏誓願を達成されますようお祈りをする次第であります。


 さて、法華経法師品(注1)を拝しますと、

  「若し是の善男子、善女人、我が滅度の後、
   能(よ)く竊(ひそか)に一人の為にも、法華経の、
   乃至一句を説かん。
   当(まさ)に知るべし、是の人は則ち如来の使なり。
   如来の所遣として、如来の事を行ずるなり。
   何に況んや、大衆の中に於て、広く人の為に
   説かんをや」(法華経321)
aa
とあります。


 「善男子」とは、仏法を信ずる在家の男性。「善女人」とは、仏法を信ずる在家の女性であります。つまり、善法を信じていることから「善男子」「善女人」というのであります。
 ただし、現時に約して言えば、末法の御本仏宗祖日蓮大聖人御出世の御本懐である本門戒壇の大御本尊様を信奉し、自行化他の行業に励む僧俗を言うのであります。


 故に『椎地四郎殿御書』には、

  「法師品には『若是善男子善女人乃至則如来使』と
   説かせ給ひて、僧も俗も尼も女も一句をも人に
   かたらん人は如来の使ひと見えたり」
   (御書P1555)

と仰せられ、さらに『諸法実相抄』には、

  「若し日蓮池涌の菩薩の数に入らば、豈(あに)日蓮が
   弟子檀那地涌の流類(るるい。注2)に非ずや。
   経に云はく『能く竊かに一人の為に法華経の乃至一句を
   説かば、当に知るべし是の人は則ち如来の使ひ、如来の
   所遣として如来の事を行ずるなり』と、豈別人の事を
   説き給ふならんや」(御書P666)

と仰せであります。

 これらの御文からも拝せられますように、今日、宗祖日蓮大聖人様の弟子檀那として、題目を唱え、折伏を行ずる者が如来の使いであり、如来から遣わされてきた者であり、如来の事を実行する者であります。

 そもそも、御本仏大聖人様の末法御出現の目的は、本因下種の妙法をもって、一切衆生をしてことごとく成仏せしめるためであります。
 大聖人亡きあと、その実現を目指し、身軽法重・死身弘法の御聖訓を奉戴し、御遺命達成へ向けて挺身していくのが、我ら本宗僧俗の大事な使命であります。

 今、宗門は来たるべき平成二十七年・三十三年の目標達成へ向けて、僧俗一致・異体同心して前進しております。特に、本年は「実行前進の年」であります。

 されば、この時に当たり、我々は一人ひとりが「如来の使」としての自覚と誇りと使命を持って、あらゆる困難と障害を乗り越え、誓願達成へ向けて断固たる決意と勇気を持って折伏を実行していかなければなりません。
 折伏は、たとえ相手が直ちに納得し、入信するに至らなくても、下種折伏することによって、それが縁となり、のちに必ず成仏に至るのであります。

 故に『一念三千法門』には、

  「妙法蓮華経と唱ふる時心性(しんしょう、注3)の
   如来顕はる。
   耳にふれし類は無量阿僧祇劫(むりょうあそうぎこう)
   の罪を滅す。
   一念も随喜する時即身成仏す。
   縦ひ(たとひ、たとえ)信ぜずとも種と成り熟と成り
   必ず之に依って成仏す」
   (御書P109)

と仰せられています。また『唱法華題目抄』には、

  「末代には善無き者は多く善有る者は少なし。
   故に悪道に堕せん事疑ひ無し。
   同じくは法華経を強ひて説き聞かせて毒鼓の
   縁と成すべきか。
   然れば法華経を説いて謗縁を結ぶべき時節
   なる事諍ひ無き者をや」(御書P231)

と仰せられています。

 すなわち、折伏は順縁、逆縁、共に救われるのでありますから、相手のいかんにかかわらず、慈悲の心をもって折伏を実行することが大事であって、そこにおのずと折伏を行ずる大きな功徳が存するのであります。

 されば『如説修行抄(注4)』には、

  「権実雑乱の時、法華経の御敵を責めずして
   山林に閉ぢ籠りて摂受の修行をせんは、
   豈法華経修行の時を失ふべき物怪(もっけ)
   にあらずや。
   されば末法今の時、法華経の折伏の修行をば
   誰か経文の如く行じ給へる。
   誰人にても坐せ、諸経は無得道堕地獄の根源、
   法華経独り成仏の法なりと音(こえ)も惜しまず
   よばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して
   御覧ぜよ。三類の強敵来たらん事は疑ひ無し」
   (御書P673)

と仰せられているのであります。

 まさしく「誰人にても坐せ、諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なりと音も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ」とのお言葉を、我々は今一度しっかりと心肝に染め、広布への尊い使命を持った「如来の使」として、勇躍奮起して折伏を実行し、遠くは一天四海本因妙広布流布を目指し、近くは平成二十七年・三十三年の目標達成ならびに本年度の誓願達成へ向けて、いよいよ御精進くださることを心からお願い申し上げ、本日の挨拶といたします。

-----------------------------------------------------------

注1:妙法蓮華経法師品第十

この品より安楽行品までの五品は、前の方便品より人記品までの八品に説かれた内容を流通せしめる部分。特に法師品は釈尊自らが経を広めることの功徳の深重なことを説いて世間に宣布することを勧める章。(岩波版法華経より)

ちなみに、猊下御引用の文の後ろには「薬王よ、若し悪人ありて、不善の心をもって、一劫の中において、現に仏の前において、常に仏を毀罵(そしりののし)るとも、その罪は尚、軽し。若し人、一の悪言をもって、在家にもあれ、出家にもあれ、法華経を読誦する者を毀(そ)しらば、その罪は甚だ重し。」と続き、法華経を誹謗することの罪深さが語られていることに注意。


注2:地涌の流類

流類は眷属と言う意味であり、合わせて「地涌の菩薩の眷属である」となる。

「地涌の菩薩」とは、法華経『涌出品』において、釈尊の久遠の開顕を助けるために大地より涌出した六万恒河沙(ごうがしゃ)の大菩薩のことで、釈尊の久遠以来の弟子(本化(ほんげ)の菩薩)で三十二相の大威徳を具(そな)え、その上首として上行(じょうぎょうぎょう)・無辺行(むへんぎょう)・浄行(じょうぎょう)・安立行(あんりゅうぎょうぎょう)の四大菩薩がいるが、末法にはそれらのすべての徳を具えた上行菩薩ただお一人が出現される。

 すなわち『寿量品』で久遠本果を開顕した釈尊は、『神力品』に至って上行菩薩に結要(けっちょう)付嘱し、末法における法華弘通を託されたのであり、末法弘通を託された上行菩薩の本地は、実は久遠元初自受用報身如来となる。

 末法の一切衆生は、客観的な機から見ると、日蓮大聖人によって初めて妙法を下種される本未有善の荒凡夫なので、地涌の菩薩ではない。

しかし『御義口伝』の

 「今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と
  唱へ奉る者は皆地涌の流類なり」
  (御書P1764)

の文に明らかなごとく、大聖人の御当体たる御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える功徳により、私たちにも地涌の菩薩の命が涌現するのです。

 ただし『諸法実相抄』に、

 「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」
  (同 P666)

と仰せのように、末法の衆生は御本尊を信ずる日蓮大聖人の眷属だけが、より正確には日興上人以来の血脈法水に連(つら)なる僧俗、すなわち総じての血脈だけでなく、別しての血脈相承が成されている当宗と、その三大秘法を報じる当宗僧俗のみが地涌の菩薩の境界を開くことができることとなり、偏狭な血脈論を報じる創価学会は明確に否定される。


注3:しんしょう(orしんせい)

心のあり方、心の特質、心根のこと。


注4:如説修行抄

○御述作の由来
 本抄は、文永十(一二七三)年五月、大聖人様が五十二歳のときに佐渡一谷(いちのさわ)において認(したた)められた御消息。
 大聖人様が数々の難に遭(あ)われていく中、佐渡に配流(はいる)されたことにより、ますます動揺し退転していく者が後を絶ちませんでした。そのような状況において、門下一同に対し、不退転の信心を促(うなが)されるために与えられた御消息が本抄で、如説修行についての御教示が主であることから『如説修行抄』と題されるが、本抄の追伸に「此の書御身(おんみ)を離さず常に御覧有るべく候」とあることから、『随身不離抄』とも称される。
なお、御真蹟は現存しないが大夫阿闍梨日尊の写本が残る。

○本抄の大意
(1)三類の敵人出現の予言
 まずはじめに、真実の法華経の行者である大聖人様の弟子檀那となるならば、三類の敵人が現れることは必定(ひつじょう)であると述べるとともに、いざ大小の難が競い起こったときに退転していく者がいることを述べられ、平素の教訓に違背せぬよう門下一同を誡められています。
(2)三類の敵人が出現する理由
  次に、如説修行の行者は現世安穏であるはずなのに、なぜ三類の強敵が興盛するのかとの問いを構えられ、その縁由(えんゆ)と現世安穏について述べられています。
(3)諸宗の誤りの指摘
  如説修行の正意に迷い法華経以外の諸経にとらわれている諸宗の誤りを指摘されています。
(4)摂受と折伏の解説と採用すべき時の教え
 仏法を修行するには摂受と折伏があることを知らなければならないとされ、末法今時は折伏を行ずる時であることを教示されています。そして、折伏を行じていくところには、必ず三類の強敵が現れることをお示しです。
(5)どのような難にも負けぬことの激励
 末法においては、大聖人様並びに弟子檀那こそ如説修行の行人であること、それゆえどのような迫害を受けようとも、命が尽きるまで唱題をするよう勧奨されている。


○拝読のポイント
(1)不惜身命の精神を貫く覚悟を持とう
 本抄は、全編を通じて大切な御教示が数多く拝せられるが、特に大切と思われる点が二つある。
 まず一つ目は、末法は折伏の時であるということ。
 大聖人様は本抄において、
 
 「凡(およ)そ仏法を修行せん者は摂折
  (しょうしゃく)二門を知るべきなり。
  一切の経論此の二を出でざるなり。
  されば国中の諸学者等、仏法をあらあら
  まな(学)ぶと云へども、時刻相応の道理
  を知らず」

と仰せになり、仏道修行には摂受と折伏の二門があって、時に応じて仏道修行の在り方も異なることをお示しである。
 摂受とは、相手の誤りを容認しつつ、次第に誘引して正法に導く化導法であり、折伏とは、相手の邪義・邪法を破折して正法に伏させる化導法です。

本抄および

 「仏法は摂受(しょうじゅ)・折伏時に
  よるべし」(御書P578)

との御教示をあわせ、「仏法においては時ということが重要であり、末法の今に行うべき仏道修行は、勤行・唱題はもとより、折伏行であること。」の重要性が解き明かされる。

 したがって、日蓮正宗に籍を置きながらも折伏を行わないとすれば、時を見失い仏道修行を怠(おこた)っている身であり、そこには功徳としての実証が生活の上に顕れる道理はなく、御本尊様の御威光を実感することはできないことが明かされる。


(2)折伏を行ずるところには必ず三類の強敵が現れるということです。

 本抄に、

 「真実の法華経の如説修行の行者の弟子檀那とならんには三類の敵人決定せり」

とあり、また、

 「諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なりと音(こえ)も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ。三類の強敵(ごうてき)来たらん事は疑ひ無し」

とあるように、大聖人様の仏法を信受し、折伏を行っていくならば、言い換えるなら「正しい信心を貫き通しているなら」必ず三類の強敵が現れると御指南である。

 三類の強敵とは、釈尊滅後、法華経の行者を様々な形で迫害する三種の敵人のことで、俗衆増上慢(ぞくしゅうぞうじょうまん)・道門(どうもん)増上慢・僭聖(せんしょう)増上慢の三つをいい、この三類の強敵が、釈尊滅後のなかでも特に末法において現れると大聖人様は御指南あそばされている。

 このことは、大聖人様が弟子檀那に対して常々仰せになられていたが、いざ三類の強敵に迫害されると、弟子檀那の中には退転してしまう者が後を絶たなかったようで、その様子を本抄には、

 「此の経を聴聞し始めん日より思ひ定むべし、況滅度後の大難の三類甚だしかるべしと。然るに我が弟子等の中にも兼ねて聴聞せしかども、大小の難来たる時は今始めて驚き肝をけして信心を破りぬ」

と仰せになっている。

 また、大聖人様は当時の弟子檀那に対する迫害の様子を本抄において次のように述べられている。

  「弟子等を流罪せられ、籠に入れられ、檀那の所領を取られ、御内を出だされし」

このことから、当時の弟子檀那が過酷な迫害を受けていたことをうかがい知ることができる。


 では、現在の私たちが同じ状況に立たされたとして、果たしてどれだけの人が退転せずに正法を受持できるか。
 大聖人様の御指南は不変なので、折伏を行ずるところには、たとえ時代は変わり世の中が変わろうとも三類の強敵が必ず現れる。
 ゆえに私たちは、本抄に、

  「一期過ぎなむ事は程(ほど)無ければ、いかに強敵重なるとも、ゆめゆめ退する心なかれ、恐るゝ心なかれ」

と仰せのごとく、いかなる強敵が押し寄せようとも、不惜身命を貫く覚悟を持たねばならず、本抄の結びにおいて、大聖人様が弟子檀那に対し壮絶な覚悟をする御指南されていることを肝に銘じるべき。

 すなわち、たとえ首を鋸(のこぎり)で切られ、胴体を鋭い鉾(ほこ)で突かれ、足には釘を打って錐(きり)で揉(も)むようなことがあっても、命のある限り唱題を続けなさい。そうするならば、必ず釈迦・多宝・十方の諸仏が守護し、寂光の宝刹(ほうせつ)に送り届けてくださるとの指南。


コメント (1)
この記事をはてなブックマークに追加

3月度 日如猊下御指南2

2012年04月07日 02時50分10秒 | 猊下御指南
総会より (於総本山 3月25日)


 本日は、法華講連合会第四十九回総会が、ここ総本山において、御隠尊日顕上人猊下の御臨席を賜り、このように盛大に開催され、まことにおめでとうございます。

 本年「実行前進の年」は、来たるべき平成二十七年・三十三年の目標に向かって三年目当たり、すべての法華講員が「実行前進」の意義をしっかりと心肝に染めて立ち上がり、総力を結集して折伏を実行し、折伏をもって前進すべき、まことに大事な年であります。

 昨年は、全国的に折伏の気運が高まり、99パーセントの支部が折伏誓願目標を達成することができました。
 残念ながら100パーセントの達成とはいきませんでしたが、しかし、全国の折伏達成数を合計すると誓願数を上回っており、その意味におきましては、大勝利であったと言えます。

 これもひとえに、各支部の指導教師をはじめ御信徒御一同が真剣に折伏に取り組み、異体同心の団結をもってあらゆる障魔を乗り越え、止暇(しか)断眠、死身弘法(注1)の御聖訓を胸に、勇猛果敢に戦ってきた結果であり、皆様の御検討を心からたたえるものであります。本当に御苦労さまでございました。
 本年は、なお一層の団結と精進をもって、必ずすべての支部が折伏誓願を達成されますよう、心から願うものであります。

 さて、法華経提婆達多品を拝しますと、「悪人成仏」と、娑竭羅竜王(しゃからりゅうおう)の娘の「竜女成仏」の二つが説かれております。
 提婆達多は、阿難尊者(あなんそんじゃ)の兄、斛飯王(こくばんのう)の嫡子、釈尊のいとこに当たりますが、幼いころから釈尊に敵対し、釈尊に与えられた白象を打ち殺したり、耶輸陀羅(やしゅだら)姫を争って敗れたりしました。

 のちに出家して釈尊の弟子となりましたが、高慢な性格で名聞名利の念が強く、五逆罪を犯した極悪人であります。
 提婆達多が犯した五逆罪とは、まず五百人の比丘(びく)を誘惑して和合僧を破ったこと。二に、大石を落として仏様の身体から血を出したこと。三に、阿闍世王(あじゃせおう)をそそのかして酔象を放ち、仏様を踏み殺させようとしたこと。四に、こぶしをもって蓮華比丘(れんげびく)を殺したこと。五に、毒を手の爪に置き、仏足を礼するふりをして仏様を傷つけようとしたこと、この五つであります。その結果、提婆達多は当然の如く、大地が裂け、生きながら阿鼻大城(あびたいじょう、注2)に堕ちたと言われております。

 しかし、釈尊が過去世に修行中、提婆達多は阿私(あし)仙人として因位の修行の師であったことが明かされて、無量劫ののちに、天王如来として未来成仏の記別が与えられたのであります。

 竜女成仏とは、八歳の竜女が蛇身(だしん)のまま即身成仏したことをいいます。竜女とは娑竭羅竜王の八歳の娘で、蛇身の畜生ながら、文殊師利菩薩(もんじゅしりぼさつ)の説法を聞いて即座に菩提心を発(おこ)し、 霊鷲山の会座
(えざ)に列して仏様に宝珠を奉り、成仏を現じたことが明かされております。

 これは、爾前の諸経では許されなかった女人の成仏が、法華経において初めて明かされ、さらに歴劫修行(りゃっこうしゅぎょう、注4)することなしに、速やかに得道する即身成仏の義が明かされたのであります。

 この提婆達多と竜女の成仏は、滅後の衆生に対して法華経の功徳の深重(じんじゅう)なることを証し、妙法弘通を諌暁(かんぎょう)したことから「二箇の諌暁」と言い、前の宝塔品の「三箇の勅宣(ちょくせん)」と合わせて「五箇の鳳詔(ほうしょう)」と言われております。

 諌暁とは、諌(いさ)め諭(さと)すことでありまして、相手の誤りを指摘して迷妄を開き、正しい道に導くことでありますが、まさしく提婆達多品は、爾前諸経ではかなえられなかった悪人ならびに女人の成仏を示されて、法華経の広大深遠(じんのん)なる功力(くりき)を示し、滅後末法における正法流通を勧められているのであります。

 つまり、提婆達多と竜女の成仏は、二人だけの成仏にとどまるものではなく、「挙一例諸(こいちれいしょ)」と申して、末代の一切衆生の成仏相を明かし、もって滅後妙法弘通を奨励されているのであります。

 故に「主師親御書」には、提婆達多の成仏を挙げて、

  「この経を信じまひらせて聴聞するならば、
   提婆達多程の悪人だにも仏になる。
   まして末代の人はたとひ重罪なりとも多分は
   十悪をすぎず。
   まして深く持ち奉る人、仏にならざるべきや」
   (御書 P51)


 と仰せられ、また『開目抄』には、竜女の成仏を挙げて、

  「竜女が成仏、此(これ)一人にはあらず、
   一切の女人の成仏をあらわす」
   (同 P563)

 と仰せられております。

 また、弘安二年の『上野殿御返事』には

  「夫(それ)第五の巻は一経第一の肝心なり。
   竜女が即身成仏あき(明)らかなり。
   提婆はこゝろの成仏をあらはし、竜女は
   身の成仏をあらはす。
   一代に分(ぶん)絶(たえ)えたる法門なり」
   (同 P1359)

 と仰せられています。

 すなわち、提婆達多は極悪非道の心の代表であり、その提婆達多が、阿鼻大城に堕ちた悪逆の身のまま天王如来の記別を受けたことは「こころの成仏」を表し、竜女は畜生の身そのまま、現に成仏の相を現じたことから「身の成仏をあらわす」とされ、提婆達多と竜女の成仏をもって、色心二法にわたる成仏を表されているのであります。

 しかして、これらの成仏相は『一代聖教大意』に、

  「問ふ、諸経の如きは或は菩薩の為、
   或は人天の為、或は声聞縁覚の為、
   機に随(したが)って法門もかわり益(やく)も
   かわる。
   此の経は何(いか)なる人の為ぞや。
   答ふ、此の経は相伝に有らざれば知り難し。
   悪人善人・有智無智・有戒無戒・男子女人、
   四趣八部、総じて十界の衆生の為なり。
   所謂(いわゆる)悪人は提婆達多・
   妙荘(みょうしょう)厳王(ごんのう)・阿闍世王、
   善人は韋提希(いだいけ)等の人天の人。
   有智は舎利弗、無智は須利槃特(すりはんどく)、
   有戒は声聞・菩薩、無戒は竜・畜なり。
   女人は竜女なり。
   総じて十界の衆生、円の一法を覚(さと)るなり」
   (同 P92)

 と仰せのように、提婆達多ならびに竜女の成仏は、あらゆる悪人善人・有智無智・有戒無戒・男子女子を問わず竜畜に至るまで、すべての衆生は十界皆成(じゅっかいかいじょう、注5)を説く法華経の広大無辺なる功力によって、成仏がかなえられることを証されているのであります。

 その法華経とは、今時(こんじ)末法に約して申せば文上の法華経ではなく、文底の法華経、すなわち本門寿量の肝心、文底秘沈の大法にして、久遠元初自受用身の御当体、無作本有(むさほんぬorむさほんゆ、注6)の南無妙法蓮華経のことであります。

 しかれば、我ら一同、たとえ悪業の猛火に苦しむ者であったとしても、ひとたび本門戒壇の大御本尊に対し奉り、至心に題目を唱え、自行化他の行業に励むとき、即身成仏、決定(けつじょう)として疑いないのであります。

 ただし『日厳尼御前御返事』には、

  「叶(かな)ひ叶はぬは御信心により候べし。
   全く日蓮がとが(咎)にあらず」
   (同 P1519)

 と御教示あそばされています。

 持ち奉るところの御本尊は無二の尊体にして絶対であっても、成仏・不成仏を決定するのは、まさしく私どもの信心の厚薄(こうはく)によるべきであり、信心弱くしては何事もかなわないのであります。

 したがって、提婆達多品にも、「浄心信敬(じょうしんしんぎょう)」(法華経 P362)と説き、疑惑を断じて、清浄な心で御本尊様を信じ敬い、「無疑曰信(むぎわっしん、注8)」の信心を貫きとおすところ、必ず成仏を遂げることができると示されてるのであります。

 では「叶ひ叶はぬは御信心により候べし」と仰せられた信心とは、いかなる信心を言うのか。

 大聖人は『三大秘法抄』に、

  「末法に入って今(いま)日蓮が唱ふる所の題目は
   前代に異なり、自行化他に亘(わた)りて
   南無妙法蓮華経なり」(御書 P1594)

 と仰せであります。

 すなわち、末法今時の仏道修行は自行化他の信心こそが肝要であり、自行化他の信心に励むところに、我らの所願も、また我々の成仏得道もかなえられるのであります。

 角度を変えて言えば、自行のみの信心にとどまって、化他行すなわち、折伏を行じないということは、大聖人様の御正意にもとることになるのであります。

 故に『南条兵衛七郎殿御書』には、

  「いかなる大善をつくり、法華経を千万部書写し、
   一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経の
   かた(敵)きをだにもせめざれば得道ありがたし」
   (同 P322)

 と仰せられています。

 また『聖愚問答抄』には、

  「今の世は濁世(じょくせ)なり、人の情もひがみ
   ゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。
   此の時は読誦・書写の修行も観念・工夫・修練も
   無用なり。
   只折伏を行じて力あらば威勢を以(もっ)て謗法を
   くだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり。
   取捨其(そ)の旨(むね)を得て一向(いっこう)に
   執(しゅう)する事なかれと書けり。
   今の世を見るに正法一純に弘まる国か、邪法の
   興盛(こうじょう)する国か勘(かんが)ふべし」
   (同 P403)

 と仰せられております。また『阿仏尼御前御返事』には、

  「いふといはざる(不言)との重罪免(まぬか)れ難し、
   云ひて罪のまぬかるべきを、見ながら聞きながら
   置いていま(禁)しめざる事、眼耳の二徳
   忽(たちま)ちに破れて大無慈悲なり。
   章安の云はく『慈無くして詐(いつわ)り親しむは
   即ち是(これ)彼が怨なり』等云云。重罪消滅し
   がたし」(同 P906)

 と仰せられ、さらに『曽谷殿御返事』には、

  「謗法(ほうぼう)を責めずして成仏を願はゞ、
   火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが
   如くなるべし。はかなしはかなし」
   (同 P1040)

 と仰せであります。

 私どもは、今一度これらの御金言をよくよく拝し奉り、本年「実行前進の年」にふさわしく、一人ひとりが決意と勇気を持って折伏に立ち上がり、誓願達成へ向けて前進をしていかなくてはなりません。

 特に、昨今の混沌(こんとん)とした世情を見るとき、今、我々が急務とすべきことは『立正安国論』の御正意に照らして、折伏であることを、よくよく知るべきであります。

 大聖人は『立正安国論』に、

  「倩(つらつら)微(び)管(かん)を傾け聊(いささか)
   経文を披(ひら)きたるに、世皆(みな)正に背き
   人悉(ことごと)く悪に帰す。故に善神国(くに)を
   捨てゝ相(あい)去り、聖人所(ところ)を辞して
   還(かえ)らず。是(ここ)を以て魔来たり鬼(き)
   来たり、災(さい)起こり難(なん)起こる。
   言(い)はずんばあるべからず。恐れずんば
   あるべからず」(同 P234)

 と仰せであります。

 世の中の不幸と混乱と苦悩の原因は、ひとえに謗法の害毒にあり、池田創価学会をはじめ邪義邪宗の謗法の退治なくして、国土世間の安穏も、世の中の平和も、一人ひとりの幸せも実現できないのであります。

 されば私どもは、僧俗一致・異体同心して、一意専心、破邪顕正の折伏を行じ、遠くは一天四海本因妙広宣流布を目指し、近くは平成二十七年・三十三年の目標達成ならびに本年度の全支部折伏誓願達成を目指し、いよいよ御精進くださるよう心からお願いを申し上げ、本日の挨拶といたします。

---------------------------------------------------------------

注1:止暇(しか)断眠、死身弘法

止暇断眠とは、無駄な人生の暇を止め、無駄な眠りを断つことを言う。
日蓮大聖人様は『富木殿御書』に、

 「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて
  之を案ぜよ。一生空しく過ごして万歳
  悔ゆること勿れ。」(御書P1169)

と、人生を無駄に過ごすことなく、有意義な、後悔しない状態で過ごすようにと御指導である。

 死身弘法は涅槃経疏巻十二の『菩薩品第十六』に説かれる文。
 「身を死(ころ)して法を弘む」と読み、「衆生の身は軽く、弘むべき法は重いゆえに、身命を賭(と)して仏法を弘めなければならない」という意味を持つ。

『乙御前御消息』には、

 「身軽法重(しんきょうほうじゅう)、
  死身弘法とのべて候へば、
  身は軽ければ人は打ちはり悪む(にくむ)
  とも、法は重ければ必ず弘まるべし。
  法華経弘まるならば死かばね(しかばね=屍)
  還つて(かえって)重くなるべし。
  かばね重くなるならば此のかばねは利生あるべし」
  (御書P898)

 とあり、『松野殿御返事』には

 「迹門には『我身命を愛せず但無上道を惜しむ』
  ととき、本門には『自ら身命を惜しまず』ととき、
  涅槃経には『身は軽く法は重し、身を死(ころ)して
  法を弘む』と見えたり。
  本迹両門・涅槃経共に身命を捨てて法を弘むべしと
  見えたり。
  此等の禁めを背く重罪は目には見えざれども、
  積もりて地獄に堕つ」(御書P1051)

 と説かれている。

 御住職様御指導によれば「魔は弱い部分(人)に出る」とのことである。
 となれば(私見ではあるが)、自身の肉体で言えば弱い部位に病が出ることでもあるが、魔は我々でなく更に弱い老人子供等を好んで襲うということであろうか。
 ならば、我々自身が「今日の自分は健康だから」として必死の折伏を行わないならば、その陰で弱い存在の人々が魔にとり殺されていること(加えて我々が見過ごしているということ)に繋がりうるのではないだろうか?


注2:阿鼻大城

「阿鼻地獄」のこと。
八大地獄の一つで欲界の最低、大焦熱地獄の下にあるとされ、五逆罪をつくる人、正法誹謗の者がこの地獄に堕ちると経には説かれている。


注3:未来成仏

三劫成仏、すなわち「三劫という長い期間の修行をしたのちに、来世で生まれ変わり成仏する。」という意味か?


注4:歴劫修行

劫は時間の長さを、歴とは経過することを良い、合わせて「劫(非常に長い時間)の期間修行する。」ことを顕す。
菩薩が長い間、過去現在未来の三世において転生を繰り返して修行すること。


注5:十界皆成

「生前の悪業の報いで地獄界、餓鬼界、畜生界(三途または三悪道)に堕して苦しんでいる者たちも、子孫、縁者の題目による回向で、題目の功徳が三途に通じ、たちまち堕獄の境遇から逃れて成仏できる」ということ、またはその論の事。

これに対する十界久遠論では「三途(三悪道)の畜類(畜生)はそのまま成仏するのではなく、縁者の手向ける題目の法力で、人界に回生し、題目口唱の信心の功徳によって成仏できる。無信無行の畜生が、そのまま成仏できるなら、何も滅罪生善の修行などする必要がない。」と考える。


注6:無作本有

無作とはは、作為がないことであり、ありのままの姿という意味。
本有とは、あとから修行等によって生じるのではなく、本来(本から、ありのままの状態として)存在していること。


注7:浄心信敬

清浄な心で仏を信じ敬うこと。
釈尊に害をなした提婆達多であっても、法華経の会座において成仏が叶ったのは、浄心信敬の修行があったからであるとされる。


注8:無疑曰信

「疑い泣きを信と曰(い)う」と読む。
「御義口伝巻上」に

 『一念三千も、信の一字より起り
  三世の諸仏の成道も信の一字より
  起こるなり
  この、信の字元品の無明を切る利剣なり、
  その故は信は無疑曰信とて疑惑を断破する
  利剣なり』
  (御書 P1737)

とある通り、教えを心に深く受け持って疑わないことが無明(迷い、苦しみ)を断つ方法であるとの意味。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

3月度 日如猊下御指南1

2012年03月27日 14時06分10秒 | 猊下御指南
()内は
 ・難読漢字等に対し、筆者が読みを付した部分です。
 ・難解熟語等には”注”として、末尾に注釈を付けてあります。

正確を期してはいますが、これらは筆者独自に付加したものですので、正誤の責は筆者に帰します。

今回の御指導は現状の日本を如何にすべきか、立正安国論を元に御指導ですが我々レベルでは「読んだよ!知っているよ!」と思っていても、その本意までしっかりと踏まえていないんではないかな?とも思います。
この機会に、大聖人様が命を掛けて顕された立正安国論、もう一度学んで、しっかりと折伏に励んでみましょう。

----------------------------------------------------------------

平成24年3月度 広布唱題会の砌 (於 総本山客殿)


 本日は、三月度の広布唱題会に当たりまして、皆様には多数の御参加、まことに御苦労さまでございます。

 本年も既に三月に入りましたが、ちょうど今から一年前、昨年三月十一日、東日本大震災が発生し、予想をはるかに超えた大津波によって東北地方は壊滅的打撃を受け、多くの方々が家を失い、家族を失い、悲惨な目に遭われましたが、これらの方々に心からお見舞い申し上げるとともに、今、振り返ってこうした惨状を見るとき、私どもは改めて「立正安国論」の御正意を拝し、我々が何をなすべきかを考えていかなければなりません。

 大聖人様は「立正安国論」(注1)に、

「倩微管を傾け聊経文を披きたるに、
世皆正に背き人悉く悪に帰す。
故に善神国を捨てゝ相去り、
聖人所を辞して還らず。
是を以て魔来たり鬼来たり、
災起こり難起こる。
言はずんばあるべからず。
恐れずんばあるべからず」(御書P234)

と仰せであります。


 すなわち、天変地夭等の災難興起の原因は、ひとえに「世皆正に背き人悉く悪に帰す」ことにあり、正邪をわきまえない邪義邪宗の謗法こそ、災難の根源であります。
 
されば、同じく「立正安国論」には、

「若し先づ国土を安んじて現当を祈らんと
欲せば、速やかに情慮を廻らし怱いで
対治を加へよ」(御書P248)

と仰せられ、さらに、

「早く天下の静謐を思はゞ須く国中の
謗法を断つべし」(御書P247)

と仰せられています。

 すなわち、天変地夭等の災難を防止するためには、根本的な原因を抜き取って、弊害を大本からなくすことが肝要であり、そのための具体的な実践方途こそ、破邪顕正の折伏なのであります。特に、末法の衆生は本未有善(注2)にして、本已有善(注2)の衆生と異なり、摂受ではなく折伏をもってすることが肝要なのであります。

 故に「唱法華題目抄」には、

「末代には善無き者は多く善有る者は少なし。
故に悪道に堕せん事疑ひ無し。
同じくは法華経を強ひて説き聞かせて毒鼓の
縁と成すべきか。
然れば法華経を説いて謗縁を結ぶべき時節なる
事諍ひ無き者をや」(御書P231)

と仰せであります。

 すなわち末法今時では、順縁の衆生はもとより、たとえ逆縁の衆生であっても、三大秘法の南無妙法蓮華経を聞かせることによって正法と縁を結ばせ、将来必ず済度することができるからであります。

 したがって「顕謗法抄」には、

「されば逆縁順縁のために、先づ法華経を
説くべしと仏ゆるし給へり」(御書P283)

と仰せられているのであります。


 今、宗門は平成二十七年・三十三年の目標達成へ向けて、各支部ともに僧俗一致の戦いを展開しております。なかには、既に本年度の折伏誓願を早々に達成したところもあります。
 宗門が平成ニ十七年・三十三年を迎えるに当たり、また併せて今日の混沌とした世情を見るとき、我々は一歩も退くことなく、すべての人々の幸せと安穏なる国土世間の実現へ向けて、今こそ折伏を行じていかなければならないと痛感いたします。

 大聖人様は「神国王御書」に、

「我が面を見る事は明鏡によるべし。
国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず
(中略)
仏法に付きて国も盛へ人の寿も長く、又仏法に
付きて国もほろび、人の寿も短かかるべしと
みヘて候」(御書P1301)

と仰せであります。

 また「瑞相御書」には、

「夫十方は依報なり、衆生は正報なり。
依報は影のごとし、正報は体のごとし。
身なくば影なし、正報なくば依報なし。
又正報をば依報をもて此をつくる」
  (御書P918)

と依正不二(注3)の原理を明かされています。

さらに、

 「衆生の五根やぶれんとせば、四方中央
  をどろうべし。
  されば国土やぶれんとするしるしには、
  まづ山くづれ、草木かれ、江河つくる
  しるしあり。
  人の眼耳等驚そうすれば天変あり。
  人の心をうごかせば地動す」(御書P919)

と仰せられ、さらに、
 
 「人の悦び多々なれば、天に吉瑞をあらはし、
  地に帝釈の動あり。
  人の悪心盛んなれば、天に凶変、地に凶夭
  出来す。
  瞋恚の大小に随ひて天変の大小あり。
  地夭も又かくのごとし」(御書P920)

と仰せであります。

 まさしく、正報たる我ら衆生の身心の動きが、依報たる国土世間に大きく影響を及ぼし、国土の盛衰を決定しているのであります。
 されば、我々はこの依正不二の原理に照らし、仏国土実現のため、本因下種の妙法を一人でも多くの人々に下種し、折伏を行じていくことの大事を知らなければなりません。
 どうぞ皆様には、なお一層の精進をもって、本年度は一人ひとりが固い決意を持って折伏を行じ、誓願達成へ向けて「実行前進」くださることを心からお祈り申し上げ、本日の挨拶といたします。


----------------------------------------------------------------

注1:
(ルビ文)
 倩(つらつら)微管(びかん)を傾け 
 聊(いささか)経文を披(ひら)きたるに 
 世皆(みな)正に背(そむ)き人悉(ことごと)く悪に帰す  
 故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず 
 是(ここ)を以て魔来たり鬼(き)来たり 
 災(さい)起こり難(なん)起こる
 言(い)はずんばあるべからず、恐れずんばあるべからず


注2:本未有善(ほんみうぜん)と本已有善(ほんいうぜん)
   大白法・平成8年3月16日号より

衆生の機根には、「本已有善」「本未有善」の二種がある。

○本已有善とは?
「本已(もとすで)に善有り」と読む通り、すでに善根を有する機根をいう。
○本未有善とは?
「本未(もといま)だ善有らず」で、いまだ善根を有さない機根をいう。

「善」とは、久遠元初本因下種の妙法という根本の仏乗種を意味するので、両者は文底本因妙の聞法下種を受けているか否かによって立て分けられる。

 すなわち、久遠元初において名字凡夫の本仏釈尊は、文底本因妙の妙法をもって一切衆生に下種されたが、この時衆生に順縁と逆縁があらわれた。

 このうち、下種の教法を信受した順縁不退の衆生は、凡夫即極の即身成仏の本懐を遂げたが、他方、下種の妙法に背いた逆縁の衆生や一旦順縁となっても退転した衆生などは、妙法誹謗の悪業により無量劫という永い間、悪道に堕ちて様々な苦しみを受けることになったのであるが、一度植えられた妙法の仏乗種は、必ず生命の奥底に宿るので、この順逆二縁の下種の宿善が本となり、彼らは本已有善の機根として、やがて熟脱の仏法により化導を受け正像二千年までの間にことごとく得脱し終わった。

ここで日寛上人は、「依義判文抄」に

 「末法の衆生は皆是れ本未有善にして最初下種の直機なり」(同)

としめされているが、これは「我々末法の衆生は、本仏釈尊による文底本因下種の妙法を植えられていない(塾脱仏法で得脱しえなかった)本未有善の機根である」ことを御教示されており、必然として我々は本已有善の人々を導く熟脱の教法を行じても何の利益もないことを示しておられる。

 すなわち「久遠元初と同様に、名字凡夫の本仏によって、本因下種の妙法が植えられなければ」即身成仏の本懐を得ることはできないのであるが、その我々を救わんがために御本仏日蓮大聖人が末法に御出現あそばされ、末法の本未有善の一切衆生に妙法下種の折伏を行ぜられた所以がある。


注3:依正不二(えしょうふに)
   大白法・平成7年8月16日号より抜粋

依報(えほう)と正報(しょうぼう)が一体不二の関係にあることをいう。

○正報とは
過去の業の報いとして受けた心身をいう。
○依報とは
正報の拠り所である環境・国土をいう。
○不二とは
二にして一体である、仏の不可思議な悟りをいう。

 仏の依正不二は、仏の一念に具わる無始の一念三千を顕発(けんぱつ)して得た極果(ごっか)であり、そしてまた、凡夫初心の行者の己心にも、本より三千世間が具するゆえ、依正不二の徳が具わることを説いている。

 すなわち、依正不二とは、爾前で説かれた一切の依正のことごとくを円仏寂光の依正に相即・帰入して、本来、依正の隔てのないことを明かしたものであり、依正三千世間が行者の己心に具わることを明かした法門をいう。

 日蓮大聖人が「諸法実相抄」に、

 「十界の依正の当体、悉く一法ものこさず
  妙法蓮華経のすがた(相)なり
  (乃至)妙法蓮華経こそ本仏にては
  御坐(おわ)し候へ」(御書P664)

と仰せのように、末法の衆生は、十界の依正の当体を悉く具えられた寿量文底下種・人法一箇の御本尊を受持して、はじめて仏果を成ずることができる。

 そして、「当体義抄」に、
 
 「正直に方便を捨て但法華経を信じ、
  南無妙法蓮華経と唱ふる人は、
  煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦の三道、
  法身・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の
  三徳と転じて、三観(さんがん)三諦(さんたい)
  即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土
  なり。
  能居(のうご)・所居(しょご)、身土(しんど)・
  色心、倶体(くたい)倶用(くゆう)の無作三身、
  本門寿量の当体蓮華の仏とは、
  日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(御書 P694)

と仰せのように、正直な心で題目を唱えることによって、凡夫の当体は直ちに妙法の当体と顕われ、その人の住する所は常寂光の仏国土と開かれる。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

日如上人書写御本尊誹謗を破す

2012年03月09日 07時38分11秒 | 妙相寺勉強会自習解説
日如上人書写御本尊誹謗を破す


1.元資料
   日如上人書写御本尊誹謗を破す
   http://toyoda.tv/nichinyosyonin.gohonzon.htm 

2.破折対象
   匿名誹謗者:フェイク


3.誹謗内容
 (1)論証
     ○御法主日如上人猊下が御認(したた)めの御本尊に『誤字』がある。
     ・「南無」の「南」の9画の縦棒が上に突き抜けている。
     ・「奉書写之」の「写」の3画が上に突き抜け、「ワ冠」が
      「ウ冠」になっており、「写」が「字」に見える
     ○書写において誤字を出すとは何たることか
    
 (2)論拠
    a.論拠1
      書写するのは戒壇の御本尊であり、書写に置いて誤字が許される
      物ではない。

    b.論拠2
      戒壇様の南の字は第9画が突きぬけていない。
    c.論拠3
      草書大字典等字典類、及び俗字、略字なども調べたが、日如
      (上人)が書いているような「写」は全く見当たらない 
     
      著名な書道家(B展審査員?)や中堅僧の発言。
      「御本尊のこんな首題は見たことがない」


4.破折
 (1)論拠1に対して
   a.結論
     ・「戒壇の御本尊を書写し奉る」という意味が間違っている。
     ○歴代の御法主上人が唯授一人の相伝の御法門によって本門戒壇の
      大御本尊の御内証を拝し、御本尊を御認めになるのが『書写』
     ○文字を単に写し取ることは「模写」
     ○邪難は模写を書写と取り違えている。
     ○書写の定義がこの通りなのであるから、筆勢によって文字が突き
      抜けるというのは「誤字」でも何でもない。
     ○日蓮大聖人御筆の御本尊においても同様の形が拝される。
     ◎重要なのは「御内証を写し奉ること」であり、そこに置いては
      文字がどうであるかは重要ではない。

   b.証明
    ○日達上人は以下の通り「御本尊書写とは、いわゆる写経のようにただ
     本門戒壇の大御本尊の御文字(相貌)を書き写す、ということではない」
     旨を示されている。

      相承を受けて、御本尊をお認(したた)めするのは、けっして面には
      「書写」と書いてあるけれども、(※経文をそのまま書き写す、と
      いうような)書写の行ではなくして、御本尊造立なのである。

     ただただ、その姿を、戒壇の大御本尊にちなんでお書きし奉るから
     「書写」と書くだけ。
                (『日達上人全集』第2輯第1巻545頁)


    ○67世日顕上人は「本門戒壇の大御本尊の内証を拝して御認めになる
     ことが、御本尊書写である」旨、明かされている。

      根本は申すまでもなく、本門戒壇の大御本尊でこざいます。
      その御本尊の内証を拝して御書写申し上げました御本尊が本日ここ
      に入仏いたしました。
           (第67世日顕上人 S56.4.18 教光寺落慶入仏法要の砌)


    ○さらには56世日応上人『本門戒壇本尊縁由』にて御教示。

      当宗に於て授与する処の御本尊は、一切衆生に下し置れたる此の
      御本尊(※本門戒壇の大御本尊)の御内証を、代々の貫首職、一器
      の水を一器に写すが如く直授相伝の旨を以て之を写し奉り、授与
      せしむる
             (日應上人全集』第1巻9頁)


(2)論拠2に対して
   a.結論
     ・突きぬけている事例は大聖人様直筆に置いても確認できる。
     ・出典は「立正安国会発行御本尊集」
   b.証明
     元資料中の「樋田氏加筆部分」を参照のこと。
     10幅の御直筆御本尊様について画像が提示されている。

(3)論拠3に対して
   a.結論
     ・『草露貫珠 草書大字典』の「寫(=写の旧字体)」の項および
      普及版『書体字典』の「写」の項に、線が冠の上から突き抜けた
      書体が掲載されている。
     ・一般誌に掲載された書家の文字も同じ。
   b.証明
     元資料中の写真①②③


5.まとめ
   ◎論拠が否定されるので邪難は正当でないと結論づけられる。


6.呵責 
  
   ○本邪難者は、驕慢謗法の輩の悪口と結論づけられる。
    
     「日蓮の蓮字に点を一つ打ち給う事は、天目が点が一つ過ぎ候なりと
      申しつる間、亦一点を打ち給いて後の玉いけるは、予が法門に墨子
      (ふすべ)を一つ申し出だす可き者なり」
                            (聖典380頁)


   すなわち、大聖人御筆の御本尊を拝した弟子の天目が、「蓮の字の点が
   一つ余分です」と批判めいた発言をしたところ、大聖人はこれを退
   (しりぞ)けられさらに点をもう一つ加えられた、と仰せである。

   御文字を認めるのは凡身(凡夫即極の凡身)に握った御筆であっても、
   御筆をもって顕わされた御本尊は絶対無二の仏の御当体であって、これ
   に対し、たとえ弟子であっても、衆生が差し出口をすることを大聖人は
   断じてお許しになっておられない。

   実際、この天目は後に迹門不読の邪義を構えて異流義の徒となっている。

   されば、その批判が「点が一つ過ぎ候なり」であっても、「棒が突き抜け
   ている」であっても、いずれも大聖人の御意に適(かな)わぬ驕慢謗法たる
   ことは明らかである。

   しかして、日蓮大聖人が謗法の輩の過去世を明かして、

     「法然(ほうねん)が一類、大日(だいにち)が一類、念仏宗・禅宗と
      号して法華経に捨閉閣抛(しゃへいかくほう)の四字を副(そ)へて
      制止を加へて権経の弥陀(みだ)称名(しょうみょう)計(ばか)りを
      取り立て、教外別伝(きょうげべつでん)と号して法華経を月を
      さす指、只文字をかぞ(数)ふるなんど笑ふ者は、六師が末流の
      仏教の中に出来せるなるべし」
                           (御書581頁)


   と仰せられている理に照らすならば、驕慢から異流義化した天目の末流
   の者共が今日、池田創価学会の中に出来して、またも御本尊の御文字に
   口を差し挟んでいるのではないか?と思われるのである。
   まさに過去世からの謗法のなせる業というべきであろう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

2月度 日如猊下御指南

2012年03月07日 13時25分24秒 | 猊下御指南
()内は
 ・難読漢字等に対し、当用漢字への修正や読みの付加をした部分です。
 ・難解熟語には”注”として末尾に注約を付けてあります。
 ・正確を期してはいますが、これらは筆者独自に付加したものであり、正誤の責は筆者に帰します。



-------------------------------------------------------



平成24年2月度 広布唱題会の砌 (於 総本山客殿)


皆さん、おはようございます。

本日は、二月度の広布唱題会にあたり、皆様には多数の御参加、まことに御苦労さまでございます。 
昨年、宗門は僧俗一致・異体同心の団結と、身軽法重・死身弘法の大活躍によって、全国五百八十四支部中、99パーセントにあたる五百七十八支部が折伏誓願を達成し、今までにない大きな成果を挙げることができました。

 残念ながら、全支部達成とはいきませんでしたが、しかし、全国の達成数を合計すると誓願数を上回っており、大勝利であったと思います。

 これもひとえに、各支部の方々が僧俗一致・異体同心の団結と、誓願達成の強い思いを込めて、最後の最後まで全力を出しきって戦ってきた結果であり、心からお喜び申し上げます。まことにおめでとうございました。
 是非、この勝利を起爆剤としてさらに前進を重ね、本年度は必ず全支部が誓願を達成されますようお祈りいたします。


 さて、今月は宗祖日蓮大聖人様の御誕生の月であります。

 御承知のとおり、大聖人様は貞応元(一二二二)年二月十六日、安房国に御誕生あそばされました。
 大聖人様の末法御出現は、既に三千年の昔、釈尊が法華経において予証されており、如来神力品には「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅す」(法華経P516)と仰せられているのであります。

 この神力品の御文は、末法の初めの五百年に上行菩薩、すなわち内証久遠元初自受用身の御本仏宗祖日蓮大聖人が御出現あそばされ、妙法蓮華経の五字をもって無明煩悩の闇を照らし、末法の一切衆生を救済あそばされることを明かされているのであります。

 その末法御出現の御本仏大聖人様が御所持あそばされるところの妙法とは、久遠の本法たる妙法五字であり、人即法、法即人の妙法蓮華経にして、人に約せば久遠元初自受用報身如来(注1)の再誕、末法御出現の御本仏宗祖日蓮大聖人様であり、法に約せば久遠元初の妙法であります。

この人法一箇の妙法こそが、末法の一切衆生救済の根源の法であります。


 故に大聖人様は「御義口伝」に、

「今日蓮が唱ふる処の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり(中略)妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の人病を治せん事疑ひ無きなり」(御書P1732)

と仰せられているのであります。

 しかるに、世の多くの人達は一生成仏の正しい法を知らず、邪義邪宗の害毒によって正邪に迷い、その結果、謗法を犯し、苦悩にあえいでいるのが現状であります。

 されば「立正安国論」には、

「世皆正に背き人悉く悪に帰す。
故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず。
是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる。
言はずんばあるべからず。恐れずんばあるべからず」(御書P234)

と仰せられ、今日の如き世の中の不幸と混乱と苦悩の原因は、すべて邪義邪宗の謗法の害毒にあることを明かされているのであります。よって、この不幸と混乱と苦悩の根源たる謗法を断たなければ、己れ自身の幸せも、世の中の平和も実現することはできないのであります。

 故に「立正安国論」には、

「早く天下の静謐を思はゞ須く国中の謗法を断つべし」(御書P247)

と仰せられているのであります。

 さらに「南条兵衛七郎殿御書」には、

「いかなる大善をつくり、法華経を千万部書写し、
一念三千の観道(注2)を得たる人なりとも、
法華経のかたきをだにもせめざれば得道ありがたし」(御書P322)

と仰せられ、

「曽谷殿御返事」には、

「謗法を責めずして成仏を願はゞ、火の中に水を求め、
水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなしはかなし」(御書P1040)

と仰せられ、

さらに「妙法比丘尼御返事」には、

「仏法の中には仏いましめて云はく、
法華経のかたきを見て世をはぶかり恐れて申さずば
釈迦仏の御敵、いかなる智人善人なりとも必ず
無間地獄に堕つべし」(御書P1262)

と仰せであります。

 これらの御文は、いずれも折伏についてたいへん厳しい御教示でありますが、しかし、それだけ私どもの成仏にとって、いかに折伏を行ずることが大事であるかを示されたもので、私どもはこの御金言をしっかりと受け止め、御金言のままに折伏を行じていくことが肝要であります。(注3)

 「如説修行抄」には、

「権実雑乱の時、法華経の御敵を責めずして
山林に閉ぢ篭りて摂受の修行をせんは、
豈法華経修行の時を失ふべき物怪(もっけ。注4)
にあらずや。
されば末法今の時、法華経の折伏の修行をば誰か
経文の如く行じ給へる。
誰人にても坐せ、諸経は無得道堕地獄の根源、
法華経独り成仏の法なりと音も惜しまずよばはり給ひて、
諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ」(御書P673)

と仰せであります。

「誰人にても坐せ、諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なりと音も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ」(注5)との御金言を、私どもはよくよく心腑に染むべきであります。

 今、宗門は真の僧俗一致・異体同心の団結をもって、来たるべき平成ニ十七年・三十三年へ向けて前進しております。

 この時にあたり、一人ひとりが本年「実行前進の年」にふさわしく、一歩一歩、力強く折伏を実行し、折伏をもって来たるべきニ十七年・三十三年の目標へ向かって前進していただきたいと思います。

 広宣流布の戦いには、後退はもちろん、とどまることも、躊躇も無用であります。ただ「実行前進」あるのみであります。

 そのためには、まず唱題が大事であります。何年も連続して折伏誓願を達成している支部は、皆、講中挙げて唱題を行い、その唱題の功徳と歓喜をもって一丸となって折伏を行じ、大きな成果を挙げております。

 唱題と折伏との関係は、まさしく不即不離(注6)の関係にあります。 どうぞ、皆様にはこれからも唱題に励み、折伏を行じ、必ず本年度の誓願を達成されますよう心から念じ、本日の挨拶といたします。



-------------------------------------------------------------------------


注1:久遠元初自受用報身如来

久遠(くおん)には、時間の長短を元にした3つの定義と、状態(物事の意味)を元にした一つの定義がある。

時間においては法華経迹門(しゃくもん)・本門・文底それぞれにおいて異なる。

一つは迹門の定義。
「化城喩品(けじょうゆほん)第七」では三千塵点劫をいう。
三千塵点劫の久遠に大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)が法華経を説き、その滅後に十六人の王子たちが法華経を説き(大通覆講(だいつうふっこう))、その結果として衆生と結縁したと定義される。

二つは本門の定義。
「如来寿量品第十六」では五百塵点劫(五百千万億那由他阿僧祇)をいう。
意味としては「五百億塵点劫」であり、迹門に期された三千塵点劫を遥かに超越した長遠の過去という定義。

三つには大聖人様が法華経文底の法門から明かされた定義。
これは本門文上の久遠五百(億)塵点劫を遙かにさかのぼった当初を指すもので、大聖人様は
 「釈迦如来五百(億)塵点劫の当初(そのかみ)
  凡夫にて御坐(おわ)せし時、我が身は地水火風空
  なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき」
  (総勘文抄 P1419)
と仰せられており、この「五百塵点劫の当初」こそ久遠元初のこと。

この3つに対するのが、時間軸を離れた「物事の状態(意味)」に従った定義。

御義口伝巻下に「久遠とははたらかさず、つくろわず、もとの儘と云う義なり」とあるように、時間的長遠を超越した、生命の究極の真理に回帰した”状態”、すなわち、生命に本来そなわる無作常住の仏性を覚知した姿を久遠元初とする定義。

衆生の生命は、過去・現在の行為、外界からの影響によってさまざまな業をまとっているが、その業の奥には生命本来の清浄な本体がある。この本来の生命の姿を久遠元初といい、また南無妙法蓮華経といい(御義口伝 P759)本指導ではこの意で用いられているかと思われる。


自受用報身如来とは。

仏という場合
(1)法界の一切の真理としての法身(ほっしん)如来
(2)その真理を照らす智慧身たる報身(ほうしん)如来、
(3)大慈悲によって一切衆生を救済する応身如来

の三つの側面があるが、三身の中でも、特に悟りの智慧を中心として、そこに法身・応身の二身を兼ね備えた仏を報身如来といい、この報身仏が自ら悟られたそのままの境界を「自受用」という。

すなわち、久遠元初と合わせて「久遠元初自受用報身如来」と号する時は、我々も含めたこの世界(次元)が発生したその瞬間から存在する「絶対的な究極の仏」を意味する。

蛇足であるが。
無神論者と、特に科学(物理)を持ちだして否定する者には、この文書を物理学が証明しつつあることが論拠になるか。


注2:
一念三千の観心の道のこと。

分けて考えれば本門の題目であるが、師弟子の血脈が通っていない題目は空虚であり魔にも通じかねないことから、本義としては三宝に帰依している状態の事を顕すか。


注3:1月度の日如上人様御指導も参照。

1月度は「曽谷殿御返事」を引かれ
 「涅槃経に云はく『若し善比丘あって法を壊る者を見て、
置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし、
是の人は仏法の中の怨なり。
若し能く駈遣し呵責し挙処せば、是我が弟子、
真の声聞なり』云云。此の文の中に見壊法者の見と、
置不呵責の置とを、能く能く心腑に染むべきなり。
法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀ともに
無間地獄は疑ひなかるべし。南岳大師の云はく
『諸の悪人と倶に地獄に堕ちん』云云」(御書P1039 注3)

と、折伏にうってでることの大切さと、懈怠することの危うさを御指導であり、ゆえに、日如上人様は冒頭において「身軽法重・死身弘法」の言を出されているとも解釈できる。


注4:物怪(もっけ)
化け物の事。
以下は御法主日如上人猊下御講義集「平成18年度第4回法華講夏期講習会」より。

[如説修行抄]
  然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば、
  冬種子を下して益を求むる者にあらずや。鶏の暁に
  鳴くは用なり、よいに鳴くは物怪なり。権実雑乱の
  時、法華経の御敵を責めずして山林に閉ぢ籠りて摂
  受の修行をせんは、豈法華経修行の時を失ふべき物
  怪にあらずや。されば末法今の時、法華経の折伏の
  修行をば誰か経文の如く行じ給へる。誰人にても坐
  せ、諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の
  法なりと音も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法
  共に折伏して御覧ぜよ。三類の強敵来たらん事は疑
  ひ無し(御書673㌻1行目)

(中略)

 「権実雑乱(ぞうらん)の時、法華経の御敵を責めずして山林
  に閉(と)ぢ籠(こも)りて摂受の修行をせんは、豈(あに)法華経修行
  の時を失ふべき物怪にあらずや」。

 これは厳しい御指南ですね。末法の折伏の時に、折伏を忘れて何か取り澄(す)ましたような信心をしている者は、それは化け物であるとおっしゃっているのです。皆さん方も化け物などと言われないような信心をしなければだめですね。

 やはり、末法という時代をよく考えて精進すべきなのです。
 先ほどの日寛上人の御指南にもあった通り、教・機・時・国・教法流布の前後の上からも、末法の時は折伏をしなければ功徳がないわけです。折伏をしなければ、 自らの過去遠々劫(おんのんごう)以来の罪障を消滅していけないのです。

 折伏をしなければ、他の人を教うこともできず、慈悲行、報恩行を果たすことができないのです。本当の仏道修行をすることができなくなってしまうということてあります。

 「されば末法今(いま)の時、法華経の折伏の修行をば
  誰か経文の如く行じ給(たま)へる。誰人にても坐(おわ)せ、
  諸経は無得道堕(だ)地獄の根源、法華経独(ひと)り成仏の
  法なりと音(こえ)も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の
  人法共(とも)に折伏して御覧ぜよ」。


と仰せであります。

 つまり、末法においては「大聖人様の仏法以外に幸せになる道はありませんよ」、
「あなたのなさっている間違っている教えでは、本当の幸せ掴(つか)めませんよ」と言わなければだめなのです。

 この御文をよくよく拝したならば、私たちは直ちに立ち上がって、一人ひとりが折伏を行じていかなければだめなんです。 折伏をしなければ本当の信心をしたことにはならないとおっしゃっているのです。

 自行だけの信心てはなく、自行化他にわたる信心をしていくことが大聖人様の仏法であり、それが法華経の精神であるということです。

 つまり、折伏というのは大聖人様の御命(ぎょめい)であると、このようにおっしゃっているわけてあります。

(後略)


注5:
(通釈)
法華経以外の一切の諸経には唯一人の得脱者もなく、かえって無間地獄へ堕ちる根源であり、法華経独り真の成仏の教法であると声も惜しまず呼号して諸宗の人々並びにその法門を、「念仏は無間地獄の業」「禅は天魔の所為」「真言は亡国の悪法」「律は国賊の妄説」であると折伏をしてごらんなさい。

(解説)
 一切衆生の成仏、一切の女人の即身成仏、二乗の成仏を始め十界の衆生の成仏は法華経にのみ解き明かされており、諸宗の如何なる教義、法門に於いて唯一人にも許されていない。
よって、諸宗、諸経に執われている人は全て無間地獄行きを覚悟しなければならない。
同時に私達日蓮正宗の僧俗も自行の勤行唱題を重ねると共に、折伏の大願を起こし諸宗は無得道という事を確信を持って破折し、諸宗の誤りを正して正法の功徳に浴させ、人々を幸福に導き、謗法の人々を救って行く事を怠っては、師檀ともに堕地獄となる。


注6:不即不離(ふそくふり)

○本来の意味として。
この世に存在する事象で、見た目としては二つであるが、その本義として二つを分別することは出来ないということ。
例えば紙の裏と表。
観測すれば「表と裏」という二つの側面を持つが、存在としては”表裏で分割”出来るわけも無く、同一の(一つの)存在である物質(状態)を顕す言葉で、「而二不二(ふにふに)」とも、「不一不異(ふいつふい)」とも。

本指導ではこちらの意味で使われていると解すべき。

○現代熟語の意味として。
二つのものの関係が深すぎもせず、離れすぎもしないこと。
つかず離れず、ちょうどよい関係にあること。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加