村上文緒はアマデウス先生の嫁(仮)

いい風が吹いていますよ~ 村上文緒

11月14日(金)のつぶやき

2014-11-15 06:13:23 | 日記

@ryosuke_the_3rd 「ピンクが最高」加賀美茉莉ちゃんに最近は注目の吾輩ニャ!
ピンク色が好きニャ!
girlfriend-kari-anime.jp pic.twitter.com/BePO0eHnCP


@ryosuke_the_3rd 10連キュピチケをくれたら回したからくれたニャ!最近、ガールフレンド (仮)の運営はサービスいいニャ!


@ryosuke_the_3rd @kinro_ntv クールで、冗談が好きで人生を謳歌するルパン三世は、りょすけの心の師匠ニャ!


@ryosuke_the_3rd @kinro_ntv @彼はいわゆる時の人だ(目下注目の的となっている人。)ルパン三世なら当ー然ですニャ!
英語では<what they [you,people] call><what is called>といった表現も使われるニャ!


@ryosuke_the_3rd @kinro_ntv また、仏語では<ce qu'ils appellent>といった言い方もできる。


@ryosuke_the_3rd @kinro_ntv 次はスペイン語だニャ!
"幸運、健康そして幸運を、あなたとご家族の皆さんにお祈りいたします。"
りょすけはルパン三世になりたくて何ヵ国語も使えるように勉強しているニャ!


バロック後期ともなると、舞曲には一定の調性の図式ができあがった。まず前半部では主調から出発して、属調に行き着くというものである。「主調」とは、トニック(T)ともいい、たとえばハ長調の曲なら、ホームとなるハ長調である。「属調」とは、ドミナント(D)ともいい、


主調の五度上の調、ハ長調ならト長調となる。後半は別の調を経由したりして、最終的に主調へ帰還する。こうして舞曲では、T-D-Tの大きな「プロセスそのもの」が音楽となるのである。つまり出発点と到達点、そして終点の調を設定したわけだが、


ソナタ形式はその影響を受けながらも、発想は異なる。ソナタ形式の最初からリピート記号まで(いわゆる「提示部」)を、見てみよう。主調Tから出発するのは舞曲と同じだが、ソナタ形式ではまず明確な「主調の領域」が形成される。(これを「第一主題」)という。


次に主調領域から属調Dへ向かう部分に入る(これを「推移部」という)。そして属調の領域が形成される(これを「第二主題」という)。つまりソナタ形式では、TからDへのプロセスではなく、いくつかの領域、あるいは部分の「組み合わせ」で音楽が構成されるのである。


「部分の構成」という発想はソナタ形式全体についてもいえる。提示部は少なくとも三部分から成っていたが、ソナタ形式全体も「提示部」「展開部」「再現部」で構成されるのである(さらに最後に「コーダ」がつく場合もある)。「展開部」は激しく転調する部分であり、一方「再現部」は提示部の再現だが


調性がすべて主調になる部分である。ここで重要なのは、調性の変化がもつ意味である。主調から属調への転調(T→D)は緊張と高揚感をもたらす。それに対して、主調への帰還す(D→T)は弛緩と解決感をもたらす。「緊張と弛緩」というこの基本的な図式の中で、展開部は緊迫の度を高め、


そこから解放される効果を最大限に引き出す役割を担う。つまり、調性の移動が惹き起こす葛藤とその解消の構図を強めたのが、ソナタ形式だったのである。これは劇の構図である。主題とはある性格をもつ楽節であるが、第一主題は劇の主人公にも喩えられるだろう。


第二主題は新たな登場人物であり、二人の間の秘められた対立が主調と属調で暗示される。そしてそれが展開部で表面化し、再現部で和解に至る。あらゆる劇の根底にあるものを「紛糾と決着」に見たアリストテレスの「詩学」を引き合いに出すまでもなく、ソナタ形式の根底にあるものは劇的なものである。


《プラハ》について多くの情報を提供してくれるザスローの著作が、「メヌエットなし」という曲の最大の謎に関して何の仮説も提示していないのは残念である(ちなみに彼は楽想の案出よりも「繋ぎ」の部分でモーツァルトが苦労しているのに意外感を述べているが、


これはむしろ作曲では常識ではないだろうか)。またタイソンの仮説によると、この曲が三楽章になったのは、《プラハ》のために《パリ》交響曲を再利用しようとした時、フィナーレだけ書き換えようとしたのだが、あとになって先立つ二つの楽章も書き上げてしまったからだ、という。


その理由はフィナーレだけ早い時期の紙が使われており、《パリ》交響曲も三楽章でニ長調だからである。《パリ》の三楽章構成を形だけ《プラハ》が受け継いだのだというのである。しかし、そもそもどうして「フィナーレ」だけ書き換えようとしたのか、という根本的な理由はわからない。


第一楽章のポリフォニックな部分はフィナーレの第三楽章でいっそう徹底され、ホモフォニックな第二主題の世界は続く第二楽章で展開されるようだ。しかしここではひとつの仕掛けを紹介しておこう。第一楽章の展開部はまさに「戦闘的な」様相を呈する。対位法的な展開が火花を散らすのである。


そのあと(第190小節)、主題が還ってくる。しかしニ短調で、である。これはハイドン好みの「偽の再現」ではないか。その証拠に、主題に含まれていたはずのファンファーレは鳴り響かない。音楽は、潮が引くように、しぼんでいき、真の再現がやってくるのである(第209小節)。


もちろんファンファーレが華やかにそれを告げる(第214小節)。以上の図式を頭に入れて、今度は第三楽章を聴いてみよう。これもソナタ形式であるが、再現は何の問題もないようだ(第216小節)。調性は主調のニ長調である。ところが同じ主題が木管で再提示される時、展開部のトゥッティが舞い戻る


「これは、まだ展開部だったのか」と疑心暗鬼に陥っていると、第二主題が現れる。やはり、あれは本当の再現だったのだ。第一楽章では展開部の中に再現を置いて幻惑し、第三楽章では再現の後に展開部を呼び戻してあわてさせる。第一楽章の仕掛けは第三楽章への伏線だったに違いない。


モーツァルトの「遊び」の精神をそこに見ることができるだろう。


アマデウス先生「クラヴィーア協奏曲 (第26番) ニ長調 K.537 「1782年から86年にかけて集中的に作曲されたクラヴィーア協奏曲は、K.503以降ふっつりと途切れ、ほぼ1年3ヶ月ぶりにK.537が誕生した…」 simplog.jp/pub/17889454/46
#モーツァルト

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