以下は前章の続きである。
ルーズベルトの陰険な仕打ち
中西 また同様に、左派の進歩史観の歴史家が述べるように「ルーズベルト政権はニューディール政策のような社会主義的な政策に親和的であったから、ある種の社会主義へのシンパシーがスターリンに対する対応の甘さにつながった」という見方も誤りです。
そもそもルーズベルトの言動には、アメリカの覇権以外に一つの主義や理念に沿って政策を遂行しようとする、道徳的な誠実さは全然ありませんでした。
1941年8月9日、チャーチルと大西洋上で秘密会談をしたルーズベルトは、すでにはっきりと第二次大戦に参戦する構えで「(英米)両国は(この戦争において)領土の拡大を求めない」「関係国民が自由に表明する希望と一致しない領土的変更を欲しない(民族自決)」という、それ自体が戦争目的の宣言のようなプロパガンダである「大西洋憲章」を発表しました。
同じころ、日本の近衛文麿首相は日米戦争を回避するため、駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーを通じてルーズベルトとの日米首脳会談を申し入れていました。
しかし、アメリカはその気がありそうな素振りで回答をずるずる引き延ばしたうえ、近衛の申し入れを蹴飛ばしてしまった。
じつはそのあいだにチャーチルと、先の大西洋会談をしていたわけです。
この一件を含め、1941年の日米交渉全体においてアメリカは日本に対してたいへん不誠実な、ほとんど欺瞞的といえるような外交対応を繰り返しました。
そして挙げ句の果てに突き付けたのが、あの高圧的な最後通牒の「ハル・ノート」です。
ルーズベルトの日本に対する陰険な仕打ちを戦後日本の歴史家はなぜ指摘しないのか、私には不思議でなりません。
渡辺 現在、私はジョージタウン大学歴史学部のチャールズ・タンシル教授の『Back Door to War』Jの翻訳を進めています(『裏口からの参戦‥ルーズベルト外交の正体1933-1941』今秋、草思社より上梓予定)。
本書によれば、近衛首相はルーズベルトに会談を申し入れた際、「メディアに口外しない」という条件を付けたにもかかわらず、ルーズベルト政権が会談要請をリーグしてしまった。
近衛は国内の対米強硬派に悟られないように慎重に交渉を進めたかった。
彼の動きが「バレたら」自身の失脚は間違いない。これをリークしたのは日米首脳会談を潰す意図があったとしか思えません。
中西 アメリカにしてみれば、昭和十六年春から「ハルノート」までの一連の日米交渉の過程そのものが「フェイク」、つまり対日開戦の準備時間を稼ぐための欺瞞作戦だったわけです。
最初から日本と折り合って戦争を回避しようという考えはルーズベルトにはまったくなかった。
この稿続く。