常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

3.3 従軍慰安婦への補償

2012年09月01日 | 戦後補償

『日本の戦後補償問題』、1996年執筆


 日韓条約の締結交渉過程において、従軍慰安婦に関する件についての議論は一切されなかった。韓国側が日韓会談期間中、日本側に提議したいわゆる「8項目請求権要綱」には、1945年8月9日現在の日本政府の対朝鮮総督府債権の返還、韓国から振替または送金された金品の返還、韓国に本社・本店または主たる事務所があった法人の在日財産の返還、韓国人(自然人、法人)の日本政府または日本人に対する個別的権利行使に関する項目などが盛り込まれていたが、そのいずれも従軍慰安婦問題まで視野に入れたものではなかった。条約締結後に制定された請求権に関する韓国内の諸法律のなかにも、従軍慰安婦問題の請求権についての規定はなかった。
 それが今日になって「戦時中の従軍慰安婦に関する状況は、当時よく知られておらず、この問題についての請求権が主体として認められるようになったのは、戦争が終了した後の時期であるため、日韓間の「請求権協定」で解決された請求権とはいえない」といういような主張がなされる(79)ようになってきた。1991年12月6日には、従軍慰安婦問題に関する訴訟が日本政府に対して初めてなされ、それ以降、様々な集会や出版物を通して、数々の元従軍慰安婦の証言が飛び出すようになった。こうした動きにともない、日本政府は本問題に対する具体的な対応を求められるようになったのである。
 だが本稿ではこれまで繰り返し述べてきたとおり、日韓両国の請求権問題は「財産及び請求権・経済協力に関する協定」によって「完全かつ最終的に解決された」のであり、従軍慰安婦問題に関する請求権を協定で定めた請求権とは別個にして認めることは、この協定の規定に違反することになる。したがって日本政府は、この問題に臨む際にまず、両国間の「請求権協定」締結の事実を十分に踏まえる必要がある。
 韓国政府が補償を求めない理由として「本問題は金銭だけで解決するものではない」、「(韓国政府は)真実が証明されないままに補償がなされれば、犠牲者が職業的売春婦とみなされることを恐れている」などの指摘(80)もあるが、韓国政府からの実質的な補償請求がないのは、韓国政府側もこの協定締結の事実を十分に認識しているからであるとみるべきだろう。
 ところで、当時日本が加入していた国際条約は、日本軍の従軍慰安所制度にある一定の制約条件を与えていた。
 1910年5月4日にパリで締結された「醜業を行はしむる為の婦女売買取締に関する国際条約」第1条は、いかなる事情があっても未成年に売春をさせてはならない旨を規定している。ここでの未成年とは満20歳未満を指しており、また第2条ではたとえ成年であっても強制連行(強制手段による勧誘・誘引・拐去)をした場合は犯罪になると規定されている(81)。1921年9月30日、ジュネーブで締結された「婦人及児童の売買禁止に関する国際条約」の規定でも、日本は婦人及び児童の売買に従事した者を捜査し、その処罰をするために必要なすべての措置をとるよう義務付けられていた(82)。これらの国際条約は、戦時中の従軍慰安婦の強制的な動員を到底許すものではなく、日本の当時の政策決定に対する少なからぬ制約要因となりえた。
 しかしながら、両条約は植民地に対して適用されるものではなかった。前者では第11条で植民地などに実施される際は文書をもって通告するとあり、後者では第14条において植民地などを除外する場合は、それを宣言することができることになっていた。日本は調印時に、朝鮮・台湾・関東租借地をその除外地域とすることを宣言している。つまり日本は国際条約の制限を受けることなく、朝鮮・台湾などから慰安婦を徴集することができたのである(83)。
 また本問題について、これをニュルンベルク国際軍事裁判所規約第6条C項に規定されている「人道に対する罪」を根拠に違法化しようという立場があるが、それはドイツ・ナチズムと日本の従軍慰安婦問題との比較・検討のうえで主張されなければならない議論であるといえる。この点については前に論じているので、重複する説明を避けるが、従軍慰安婦問題に関連してひとこと触れておくならば、ドイツ・ナチスのユダヤ人虐殺が「政治的、人種的もしくは宗教的理由に基づく迫害行為」であることは明白だが、日本人女性も含まれていた本問題を果たしてそのようなかたちで違法化することが可能かどうかは甚だ疑問である。
 ただし元従軍慰安婦の請求権については、日本の国内法上の国家責任という観点からひとつの問題提起がされうる。
 1991年8月の参議院予算委員会における、外務省条約局長の答弁については先に紹介した。それは「(「財産及び請求権・経済協力に関する協定」については)日韓両国が国家として外交保護権を相互に放棄したということで、個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではない」というものだった。すなわち国内法的な日本政府に対する請求権は、協定のいう「完全かつ最終的に解決された」ものではなく、国内法にもとづく国家責任を論じる余地はいまだに残されているというのである。
 金明基氏は、国内法上の国家責任と従軍慰安婦問題について「『国内法上の国家責任』とは、日本の国家機関が日本の国内法に依拠し、挺身隊を設置・運営した行為により被害を被った個人が、国家である日本を被告として日本法院に損害賠償を請求する場合、日本がこれに対し、日本の国家法により負わなければならない賠償責任をいう」としてる。また金氏は、国内法上の国家責任の成立条件として、国家機関すなわち「公務員」の行為があること、公務員の「職務上の行為」があること、職務上の行為が「違法」であることなどをあげている(84)。そこで以下、当時の日本の国家機関の従軍慰安婦問題への関与とその違法性について考えてみたい。
 陸軍省兵務局兵務課によって立案された「軍慰安所従業婦など募集に関する件」なるものがある。これは1938年3月4日、陸軍省副官通牒とし北支那方面軍・中支那派遣軍宛に出されたものであり、その要旨は「従業婦などを募集するにあたり、軍部の威信を傷つけ且つ一般民の誤解を招く虞のあるものや、誘拐に類し警察当局に取り調べを受けうるものなどがある。今後の募集には派遣軍が統制し、人物(業者)を選び適切に実施させる。関係地方の憲兵及び警察と連絡を密にする」というものである(85)。この文書は陸軍省が強制徴集の事実をつかんでおり、それを防止しようとしていたことを示す資料だが、このような指示は朝鮮・台湾になされていなかった。それを陸軍省の重大な義務違反であるとみる立場もある(86)が、当時の朝鮮・台湾においてそうした指示をすることが、陸軍省の義務であるというには根拠が乏しい。したがって、そこに重大な義務違反が存在するとは到底いえないだろう。またたとえその行為が義務違反だとしても、上記の国内法上の国家責任の成立要件としての「職務上の行為が「違法」であること」には該当せず、これを国家機関の国内法上の責任としてとりあげることはできない。
 さらに内務省警保局長が1938年2月23日に、各都道府県長官宛に通達した「支那渡航婦女の取扱に関する件」というのがある。その内容は「最近、支那の料理店、飲食店の営業に従事することを目的に支那に渡航する婦女が少なくなく、軍当局の了解を得たというような言辞を弄するものが各地に頻出している。婦女の渡航は現地の実情に鑑み、やむを得ずという特殊な考慮を要することが認められるが、婦女売買に関する国際条約や、その他軍の威信に影響を及ぼすようなことがあってはならない」といものである。さらに同文書には、「華北・華中方面に向かう者に限っては当分の間黙認する」一方、渡航婦女に対する一定の制限、取締を指示する内容が含まれている(87)。この資料についても「軍慰安婦などの「醜業ヲ目的トスル婦女」の渡航は、華北・華中に渡航する場合に限って、これを「黙認」するとの指示を出し、(内務省は)軍慰安婦送出に加担している」のであり、また「この文書は強制徴集を防止しようとしたものとみることができるが、同様の通牒が台湾・朝鮮で出されなかった」ということを問題視する立場(88)がある。しかしこの資料によって、日本の国家機関としての国内法上の責任論を展開することは到底できない。その理由は陸軍省の資料についてと同様、それを成立させる要件がそろっていないからである。
 千田夏光氏は『従軍慰安婦・正篇』のなかで、関東軍の後方担当参謀原善四郎少佐という人物との対話によって、1941年の北満における従軍慰安婦二万人動員計画についてあきらかにしようとしている。記述によれば「慰安婦募集は軍は総督府に依頼され実施された」、「七十万人の兵隊に二万人の慰安婦という数字は、日中戦争時の経験によって算出されたであろうものであり、しかし実際には八千人程度しか集まらなかった」など(89)、そこには慰安婦の募集過程での軍の関与が見え隠れする。しかしこの記述の信憑性には、大きな問題があることを指摘しないわけにはいかない。たとえばここに登場する原という人物が、自らを「関東軍司令部第三課所属」と紹介しているが、彼の経歴のなかにはそのようなものはなく、彼の任務からも総督府にまで慰安婦募集の依頼に出向くなどとても考えられない(90)。また慰安婦二万人(実際には八千人程度であっても)動員となれば、それなりの慰安所設備とそのための予算が必要となるが、当時の予算担当者は「当時の満州には慰安婦関係のことは業者がやっており、軍は関係しなかった」と述べているという(91)。
 ところで1993年8月4日、政府は慰安婦関係調査報告書とともに、次のような官房長官談話を発表した。

 「慰安婦の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧によるなど、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、さらに、官憲などが直接これに加担したこともあったことが明らかになった」(92)

 政府は慰安婦の募集について、主として軍の依頼を受けた業者がおこなっていたとしながらも、公務員である官憲の直接的な関与を認めている。またその募集は「甘言、強圧によるなど、本人たちの意思に反して」なされたケースが数多く存在していたという。
 1910年の「醜業を行はしむる為の婦女売買取締に関する国際条約」第二条では「他人の情欲を満足せしむる為醜業を目的として詐欺により又は暴行、脅迫、権力濫用其の他一切の強制手段を以て成年の婦女を勧誘し又は誘引し又は拐去したる者は(後略)」となっている。これは婦女の強制連行を暴力、脅迫などによるものにのみ限定するのではなく、詐欺その他の強制手段によるすべてのケースが強制連行にあたると規定しているのである(93)。当然これに照らし合わせれば、政府のいうところの「甘言、強圧による」募集は強制連行であったことになる。日本は同条約に加入していたわけではないので、これを日本政府の責任を立証する根拠として扱うことはできない。
 しかし、こうした行為の存在を日本政府が認めるというのは、契約を一方的に強要し成立させたこと、つまり日本の国家機関の国内法上の責任を認めることにほかならない。すなわち日本は、この点について元従軍慰安婦側の請求権を否定することができないのである。
 しかし現実には、これにもとづく元従軍慰安婦側の勝訴は困難であると思われる。なぜなら、過去に従軍慰安婦が存在したことは事実であっても、原告をその従軍慰安婦であったかどうかの判断は、原告自身の証言によるしかなく、それを裁判所に認定させるのは至難であろうからである(94)。元従軍慰安婦たちの証言は、それぞれに悲痛な叫びであり、どれも真剣に耳を傾ける必要があるが、なかには誇張・偽証と思われるような部分もみられ(95)、これを法廷において、彼女たちを従軍慰安婦として規定する唯一の証拠とすることには、相当の困難がともなうであろうと考えられる。
 1995年7月、「女性のためのアジア平和友好基金」が発足した。この機関は、元従軍慰安婦への償いを行うための資金を民間から募金する目的で設立されたものであり、日本政府は事業費などについて一部を負担している。
 戦時中の軍隊の慰安所設置によって、悲劇を強要された人々がおり、その人々がいまだに過去を引きずってい生きているという事実を我々日本人は真摯に受けとめる必要がある。しかし上述のとおり、そのための政府の補償もしくは賠償という問題解決の手段は、いまや残されておらず、、ここにこのような機関が発足した意味は非常に大きい。この機関の設立について、日本政府が補償の責任を一方的に回避しようとするものであるとの非難の声もあるが、そうした見方ではなく、日本国民が民間で発足させた同基金の積極的な意味についてもう少し論じられるべきであろう。1995年6月14日、この基金の設立構想を受けた韓国外務部は「この間の当事者たちの要求が、ある程度反映された誠意ある措置」と評価する声明を発表した(96)。今後日本側としては、本問題に対する韓国側のさらなる理解を得るべく、真相の究明と、それを歴史の教訓として残すための一層の努力を払っていかなければならない。

 3.2 旧軍人・軍属への補償 << >> 3.4 原爆被爆者への補償 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3.4 原爆被爆者への補償

2012年09月01日 | 戦後補償

『日本の戦後補償問題』、1996年執筆


 原爆被爆者に対する援護法としては、1957年3月に制定公布された「原子爆弾被爆者の医療などに関する法律」と1968年5月の「原子爆弾被害者に対する特別措置に関する法律」があった。これがいわゆる原爆二法と呼ばれるものであり、この原爆二法は日本人と外国人の区別なく、つまり内外人平等の扱いによって「被爆者健康手帳」を交付させるという点で、前述の恩給法や戦傷病者戦没者遺族等援護法とは性格を異にしている。 「被爆者健康手帳」とは、その所持者が原爆による被害者であることを証明する、一種の身分証明書である。「原爆被害者に対する特別措置に関する法律」第三条では、「被爆者健康手帳の交付を受けようとする者は、その居住地の都道府県知事(その居住地が広島市又は長崎市であるときは、当該市の長とする。以下同じ)に申請しなければならない」としたうえで「被爆者健康手長に関し、必要な事項は、政令で定める」と規定している。1957年5月の厚生省衛生局長通知によると、手帳交付申請にあたっては当時の罹災証明書などを持参するか、もしそれがない場合は2人以上の証明書を、それもない場合には本人の申述書および誓約書を提出すべき(97)とされており、基本的には外国人被爆者も日本人被爆者と同様、手帳を取得できるようになっている。それでも現実には行政上の手続きの問題により、外国人被爆者への手帳交付はきわめて厳しい条件のもとおこなわれざるをえず(98)、内外人平等といっても「その居住地の都道府県知事」への申請であり、日本国外に出ていった人々への配慮はされていなかった。もちろん日本側のそのような配慮欠如は許されるべきものではない。
 先般から繰り返し述べているとおり、日韓両国は1965年の協定の締結により請求権問題を「完全かつ最終的に解決」した。このことは両国政府が認めているところでもあり、法的にも条文を読んで字のごとくである。ゆえに原爆被害者問題についても、日本政府は「日韓協定によってすでに解決済み」という立場をとってきている(99)。
 しかし原爆被害者への援護法の適用範囲に関しては、他の問題と同様に同協定の効力を主張することはできないだろう思われる。在韓被爆者については1968年10月、「韓国被爆者救援日韓会議」が在被爆者が治療のため来日した際の被爆者手帳の交付運動を展開することなどを決議しており(100)、1978年には不法入国して原爆被爆者健康手帳の交付を要求した在韓被爆者に対し、最高裁判所は「外国人でも日本国内にいる限り救済すべきであり、それが現行の原爆関係二法の精神である」との判決を言い渡した(101)。この最高裁の判断は、日韓協定による請求権問題の解決をそれはそれとして認めたうえで、原爆に二法に関しては在韓被爆者への救済措置の妥当性をある程度認めるべきであるというものであった。
 1995年7月1日、新しく「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(被爆者援護法)」が施行された。同法は従来の原爆二法を一本化し、国の責任において総合的な援護対策を講じることをその目的として制定されたものである。もちろん被爆者手帳の手続きについては、これまで通り「都道府県知事は、申請に基づき、被爆者健康手帳を交付するものとすること」と規定しており、その適用対象から外国人を特別に除外するといった措置はなされていない。ゆえに1978年の在韓被爆者に対する最高裁の判断は、そのままこの法律にも適用できるのであり、日韓協定の有効性は主張されえない。
 ところで同法にもとづく一連の措置は、日本の戦争責任に根拠をおく国家補償ではないという議論がある。法案調整当時の野党や被爆者を中心とする勢力が、援護法の前文に「国家補償」の表現を盛り込むことを強く求めていたところに、その主張は端的にあらわれているといってよい。
 1980年12月に原爆被爆者対策基本問題懇談会が出した「原爆被爆者対策の基本理念及び基本的在り方について」は、以下のように報告している。

 「国家補償の見地に立って考えるというのは、今次の戦争の開始及び遂行に関して国の不法行為責任を肯認するとか、(中略)アメリカ合衆国に対して有する損害賠償請求権の平和条約による放棄に対する代償請求権を肯認するという意味ではなく、(中略)原爆被爆者が受けた放射線による健康損害すなわち「特別犠牲」について、その原因行為の違法性、故意、過失の有無などにかかわりなく、結果責任(危険責任といってもよい)として、戦争被害に相応する「相当の補償」を認めるべきだという趣旨である。(中略)原爆被爆者に対する対策は、結局は、国民の租税負担によって賄われることになるのであるが、(中略)「特別の犠牲」というべきものであるからといって、他の戦争被害者に対する対策に比し著しい不均衡が生ずるようであっては、その対策は容易に国民的合意を得がたく、かつまた、それは社会的公正を確保するゆえんでもない。(中略)なお、一部に被爆者対策の内容は、旧軍人軍属などに対する援護策との間に均衡のとれたものとすべきであるという声がある。(中略)旧軍人軍属などに対する援護策は国と特殊の法律関係にあった者に対する国の施策として実施されているもので原爆被爆者を直ちにこれと同一視するわけにはいかない」(102)。

 すなわち今日、「原爆放射線による健康上の障害」により、なんらかの救済問題が必要とされているので、国がそのための対策を講じなければならないという責任については認めるが、その原因をつくりだした戦争責任については肯認するものではないというのである(103)。さらに原爆被爆者に対して、恩給法のような国家補償がなされない理由として、原爆被爆者には軍人軍属のような国との法律関係がなかった点をあげている。
 このため被害者援護法の前文においても、給付は国家補償賠償としておこなわれるものではなく、ただ「国の責任」においてなされるものであると記された。このような「国家補償に基づく援護法」が達成されなかった理由としては、原爆被害者には国との身分関係がなかった(身分関係論)、一般戦災者と原爆被害者との補償均衡(均衡論)、法律論として、戦争によって国民が被った「一般の犠牲」についての救済の道はない(受認論)などがあげられる(104)。
 しかし1978年3月30日の最高裁判所の判決は、原爆医療法について以下のように指摘している。

 「原爆医療法は、(中略)いわゆる社会保障法としての他の公的医療給付立法と同様の性格をもつものであるということができる。しかしながら(中略)原爆医療法は、このような特殊の戦争被害について戦争遂行主体であった国が自らの責任によりその救済をはかるという一面を有するものであり、その点では実質的に国家補償的配慮が制度の根底にあることは、これを否定することができないのである」(105)。

 たしかに被爆者援護法の前文に「国家補償」は明記されなかったが、その精神はこの原爆医療法を受け継いでおり、その意味で原爆援護法は「実質的に国家補償的配慮が制度の根底にある」ということができる。
 それゆえに被爆者援護法は、実質的には国家補償的役割を果たしている法律なのであり、日韓関係のなかでの原爆被爆者問題は、今後も日本政府が戦後補償問題として取り扱っていかなければならない重要な課題であるということができる。

 3.3 従軍慰安婦への補償 << >> 4.1 謝罪と補償 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4.1 謝罪と補償

2012年09月01日 | 戦後補償

『日本の戦後補償問題』、1996年執筆


 日本はこれまで、戦争中の行為に対する謝罪や反省の意を、アジア諸国に対し繰り返し表明してきている。
 細川首相は、1993年8月の所信表明演説で「過去の我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらしたことを改めて深い反省とお詫びの気持ちを申し述べる」と述べた(106)。村山首相も、1995年8月に「わが国は(中略)多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。(中略)疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明致します」という戦後50年首相談話を発表した(107)。
 従軍慰安婦という個別的な問題についても、1993年8月4日、従軍慰安婦関係調査報告書の公表とともに、河野官房長官が「政府は、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたりいやしがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持を申し上げる」という談話を発表している(108)。
 しかしこのような謝罪に対し、日本のそれはいまだ不十分であるという声が絶えることはない。朴東鎭外務長官は、ドイツが戦後、被害を及ぼした国々に率直な反省を表明したのに対し、日本は過去の反省を公式化することができず、韓国との関係改善に失敗したという(109)。キム・ヨンス氏は、日本はこの間、いかにして謝罪を回避するかの妙案を探しており、また日本の為政者が今までしてきた謝罪の発言は、遺憾の水準をけっして抜け出ておらず、「誤った歴史をはっきりと認め、きれいに謝罪する」というような心からの謝罪とは距離があると主張する(110)。
 1995年6月9日に、衆議院本会議において「戦後50年国会決議」が採決された。この決議については「不戦」、「謝罪」、「植民地支配」、「侵略行為」、「反省」などの文言をめぐる論争が激しくなされ、結果として「世界の近代史上における」という表現で日本の戦争行為を相対化したり、「わが国が過去に行ったこうした行為」という曖昧な言い回しに終始させるなどの点に非難が集中することとなった。決議採択までの議論をみても、これなどまさに日本の謝罪、反省が不十分であるとの主張に勢いを与えるものになったといえる。
 たしかに戦後50年決議をめぐる議論は過度に「政治化」され、問題の本質を見失っていたという感が拭いきれない(111)。韓国のマスコミは、日本政界でなされた50年決議に関する論争を「日本連立政権の崩壊可能性」と題して韓国国内に報道していた(112)。立法府の決議は、対外関係においてその国を法的に直接拘束するものではなく、また選挙で国民に選ばれた議員たちによる決議であるから、政府の一方的な宣言以上に民意を反映した意思表明として受け取られるであろう(113)。そう考えれば、もっと外に向けたメッセージ的性格を重視すべきであったかもしれない。
 しかしそもそも国際法上、謝罪とはいかなる意味をもつのであろうか。
 国際法上、陳謝(謝罪)とは国際違反行為によって国家責任を生じさせた加害者が、被害国に対する責任解除の手段のひとつとしておこなわれる。このほかにも国家責任を解除する手段としては現状回復、金銭賠償、責任者の処罰、再発防止の保証などがあげられる(114)。しかしこれらには一定した手続きはなく、通常は国家間の交渉によって決定される。そして何よりも重要なことは、一度国家責任の解除について当時国間で合意が形成されれば、その後は当該国家責任について当事者間にはいかなる法的権利義務関係が存在せず、旧被害国がさらなる陳謝や金銭賠償などを求める権利も、旧加害国がこれらの要求に応じる義務もないという点である(115)。
 たとえば1993年の従軍慰安婦問題に関する官房長官の談話のなかには、「お詫びと反省を申し上げる」という謝罪の文言が含まれていた。日韓協定締結当時、両国は「従軍慰安婦」という具体的な問題についての議論をおこなわなかった。この問題が問題として認識されるようになったのは、少なくとも協定締結以降である。しかし協定第2条によれば、両国の問題は「完全かつ最終的に」解決されているのであり、当然この問題を含めた日本の国家責任の解除については、協定締結の時点で両国の合意が形成されているのである。したがって本問題に対する日本の謝罪は、国際法的に義務づけられているものではない。ただし国家責任の解除は、二つ以上の方法が併用されることもあり(116)、その枠内での陳謝にはまだ議論の余地が残されている。今日なされている日本政府の謝罪の基本的な意味は、すでに法的解決は達成されているが、現時点であらためて過去を振り返ったとき、それがきわめて遺憾であり、二度と起こしてはならぬ歴史であることを認め、相手にそれを伝達するという類のものであるとみなければならない。
 従軍慰安婦の徴集の際に被害を被った女性たちをはじめ、民族としての自尊心を傷つけられた人々に対する謝罪について、我々日本人は真剣に考えていく必要がある。今後の日韓関係を考えるうえで、日本の過去に対する反省が不十分であるとの指摘は重要な意味をもつものであり、こうした意見に対しては率直に耳を傾けなければならない。
 しかしあくまでも、それと賠償・補償問題とは別個の問題である。日本政府の謝罪は、日本にあらたな国家義務を生むものではない。したがって今日の日本政府の謝罪の文言をもって、それら日本の戦後補償の根拠として論じることはできないのであり、両者は別次元の問題であると認識されなければならない。

 3.4 原爆被爆者への補償 << >> 4.2 「戦後補償」の原則
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4.2 「戦後補償」の原則

2012年09月01日 | 戦後補償

『日本の戦後補償問題』、1996年執筆


 1993年11月、『朝日新聞』によって戦後補償に関する世論調査が実施された。質問内容は戦後補償の必要性や従軍慰安婦問題、恩給法の国籍条項に関するもので全部で七項目である。このなかの「政府は、戦争に伴う国家間の賠償問題は決着したとしていますが、いま問題になっているのは個人に対する『戦後補償』です。政府は、事柄によっては『戦後補償』の要求に応じるべきであると思いますか」という質問に対し、半数以上の51%が「事柄によって応じるべきだ」と回答している。この数字を受けて荒井氏は「若い世代に積極的な意見が多いのが特徴」であり、「予想以上に高い数字」であるとしたうえで、「政府は慰安婦問題以外のケースも決着済みの姿勢を改め、新たな対応策を探るべきだ」と指摘する(117)。
 一方、自民党の小杉隆外交部会長は、この調査結果に対し「補償に応じるべきだという人が多いのは、この問題の難しさをまだ感じていないからではないか。若い人に補償をという考えが多いのは、経緯をよく知らないまま人道的考えから単純に答えたのあろう」と述べている(118)。事実この世論調査で、「『戦後補償』の問題について、あなたの気持ちに近いものをあげてください」という問いに対して、「非人道的なことをされた人たちは救ってあげたい」という回答が2番目に多かった。
 ドイツの戦後補償には、現ドイツ政府や国民の被害者に対する直接的な「謝罪」や「反省」といった概念を含んでいないが、純粋に人道的見地から被害者に対する補償が必要であるとの認識をもって、着実に実施されている。つまり人道的見地からナチ被害者への救済が、ドイツの戦後補償理念の根幹なのである。しかし、ドイツと日本における非人道的行為の性質が根本的に異なる以上、こうした理念をそのまま日本に移植するわけにはいかない。この点については、すでに述べた通りなので繰り返さない。
 また日本の場合、「アジアでの発言力をねらう」(119)ため、あるいは「アジアで大きなリーダーシップを発揮する」ためといった考え方が、戦後補償に対する意識に少なからぬ影響を与えているようであるが、こうした主張に依拠して実施されるような戦後補償も断じてあってはならない。
 日本政府には、過去に対して負うべき数々の責任があった。しかしそのなかには、すでに解決済みのものもあり、また政府レベルではいまや解決不可能となってしまったものもある。補償をおこなう以上、それを実施するための明確な根拠が必要であるが、それは提起され項目ごとの検証にもとづいていなければならない。結果的にこの作業が、現在提起されている補償対象を制限することになるであろうが、これは今日、日本の戦後補償問題を解決していくにあたり絶対に必要であると考えられる。
 ここで求められるのが、ほかでもないその基準となる戦後補償の原則である。筆者はこれを、「日本の責任によって、かつて与えられるべきだった『補償を受けるための機会』を与えられなかった被害者に対する措置」と定義付ける。条約締結後に新たに問題化したというのは、法的に「日本の責任によって」生じた補償義務の根拠とはなりえない。戦後補償の対象事項として論じられるのは、元来日本側に責任がありながら、条約でその対象から排除されたものに限られる。その他のケースとしては、日本政府の国内法的責任論にもとづく補償論議がある。これに関しては、国内法的責任を成立させる要件がそろえば、「日本の責任によって」の部分が裏付けられるため、それにより日本の補償義務を問うことができる。
 こうした論理は、日本独自の戦後補償の基本原則として、ドイツのケースとはまた異なる「過去の克服」のひとつのパターンを提示することになるであろう。今後日本が、戦後補償問題を処理していくにあたっては、なによりもまず、このような基本原則の確立が必要である。

 4.1 謝罪と補償 << >> 4.3 北朝鮮との関係 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4.3 北朝鮮との関係

2012年09月01日 | 戦後補償

『日本の戦後補償問題』、1996年執筆


 日本はいまだ、北朝鮮人民共和国(北朝鮮)との国交をもっていない。もちろん北朝鮮に対する戦後処理問題も、いまだ未解決で残されたままである。日韓両国政府は、国交正常化と同時に、過去に関する問題をも解決することに成功した。しかし北朝鮮とは、これからの国交正常化交渉の過程のなかで、地道にそれらの問題を解決していかなければならない。ひとつの民族として、日本の植民地支配を同様に受けてきた韓国と北朝鮮であるが、戦後の朝鮮半島の歴史は、朝鮮にある二つの国家に別々の過去の清算をおこなわせることを日本に求めた。そして今後の北朝鮮との国交回復とそのための交渉は、今日の日本にとっての重要な課題となったのである。
 ところで日本と北朝鮮との国交正常化は、1965年に調印された日韓条約・協定の基本的枠組みとの関連で興味深い。日韓協定では、韓国は日本の交戦国でも平和条約の署名国でもなかったとの理由から、平和条約14条にもとづく韓国の対日賠償請求権を認めなかった。同様に1991年の日朝交渉においても、日本政府は両国間の経済問題を「財産・請求権」によって処理するという立場をあきらかにしている。9月1日、北京でおこなわれた第四回日朝交渉のなかで、中平立・日本政府代表は「日朝が交戦状態にあったという認識に基づく賠償の概念や、戦後45年間の補償という概念は受け入れられない」との主旨の発言をおこなった。そのうえで「北の主張する人的被害に関する補償は請求権という形で議論すべきであり、被害の事実関係を裏付ける客観的資料が必要だ」としている(120)。北朝鮮が主張する人物的被害への補償は、あくまで財産・請求権のなかに含まれるものであり、それには客観的資料が必要であるというのが日本政府の立場である。
 これに対し北朝鮮は「客観的資料として日本側は、郵便貯金、年金証書、徴用不払い金などを証拠として出せというが、朝鮮解放から五十年近く経過した現在、(日本から)返してもらえると思ってもっている人がいるか、考えて欲しい」(121)と反論している。北朝鮮の立場は、客観的資料に裏付けられた法的根拠にのみもとづく財産・請求権論議では、契約書が存在しないような強制的な人員動員による人的被害に対する補償などの問題処理が不可能であり、客観的資料のみにもとづく財産・請求権の認定は適当ではないというものである。
 たとえば、日韓交渉過程に登場しなかったテーマに、従軍慰安婦問題がある。今日になって日本政府は、強制的な慰安婦徴収があったことを認めているが、この問題は、日韓政府間レベルではすでに解決しており、個人補償として扱うにしても、それを個別に証明する客観的根拠が不足しているため、韓国の元従軍慰安婦は補償を受けることができなくなっている。
 しかし今後の日朝交渉のなかで、両国がこの問題を人的補償の問題として、扱っていくことは十分可能であろう。日本政府は、少なくとも当時の慰安婦の動員方法に問題があったことを認めている。これについては前述のとおりであり、日本は本問題に対する何らかの措置を講じる義務を認めざるをえない。したがって日朝交渉の場においては、個別的な証拠不足を理由に補償責任を否定するのではなく、調査・研究にもとづき一定額を北朝鮮側に支払い、それによって両国間の請求問題を「完全かつ最終的な解決」させるのが妥当だろう。北朝鮮との財産・請求権問題については、従軍慰安婦問題に限らず、日本政府に責任ありと認められるものすべてについて、そうした措置による解決が可能であると考えられる。
 日韓関係で扱われなかった問題について何らかの措置を講じ、それを今日の北朝鮮に適用することは、けっして日韓協定との整合性を損なうものではない。それは、この間の「完全かつ最終的に解決」すべき問題の変容に適合した措置なのである。日本の戦後補償が「日本の責任によって、かつて与えられるべきだった『補償を受けるための機会』を与えられなかった被害者に対する措置」であり、国交もなく今日に至る北朝鮮の国民に、日本政府の一定の責任があきらかになった以上、それに対する「戦後補償」がなされるのは当然のことである。日本と北朝鮮がなす国交正常化は、日韓協定の基本的枠組みとの共通性を意識する一方で、このような「戦後補償」をめぐる内容に差異があることを認めつつ進めていかなければならない。

4.2 「戦後補償」の原則 <<  >> 終章 おわりに 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

終章 おわりに

2012年09月01日 | 戦後補償

『日本の戦後補償問題』、1996年執筆


 韓国は、日本にとっての隣国でありながら、その関係が微妙であり且つ難しい国である。各種世論調査の結果などをみても、両国関係の特異性は際立っているといってよい。
 その両国にとって、「戦後補償」という問題は、過去に関する問題であるが、厳然たる今日の問題でもある。「戦後の償い」を目的として民間で設立された「女性のためのアジア平和友好基金」の募金額は、当初の目標を大幅に下回っており、まだまだ検討すべき点が多く残されている。在日韓国・朝鮮人に対する補償についても、上述のような請求権の法的根拠があるにもかかわらず、政府の対応は相変わらず鈍い。
 しかし、今後の日韓関係を考えるうえで、また北朝鮮を含めた新しい日本・韓(朝鮮)半島関係を構築していくうえで、この問題に対する瀬いるとしての明確な指針を示し、適切に対応していくことは極めて重要である。本論分で扱った「戦後補償」というテーマは、単純に「過去」に関する処理の問題として捉えるでのはなく、将来の日韓(朝鮮)関係を形成する重要因子として真摯に受け止める必要があるだろう。

 本論文を書き上げるにあたっては、多くの方々の御助力を頂いた。とくに小島朋之慶応大学総合政策学部教授には、公私にわたり広くご指導を頂いた。師にはここであらためて感謝の言葉を申し述べたい。
 また韓国語文献・記事を読むにあたっては、渡辺吉鎔慶応大学総合政策学部教授の多大な御助力を頂いている。筆者がより多くの韓国語を読みこなすことができたのは、偏に師の御助力のおかげである。さらに筆者に韓国人としての立場から、常に新しい問題意識を与え、刺激し続けてくれた崔洙鎭氏との議論は非常に意義深かった。崔氏と交わした数々の議論は、本論文を書き上げるにあたり、欠かすことのできない貴重な経験となった。
 最後になったが小島研究会で様々なアドバイスをして下さった先輩、友人、後輩たち、そしてこのような機会を与えてくれた両親へ、心からの感謝の言葉を述べておきたい。

 4.3 北朝鮮との関係 << >> 注釈及び参考文献 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

注釈及び参考文献

2012年09月01日 | 戦後補償

『日本の戦後補償問題』、1996年執筆


注釈

  1. 『朝日新聞』1993年11月13日。
  2. 荒井信一『戦争責任論』(岩波書店、1995年)、35-36頁。
  3. 同上書、32-33頁。
  4. 同上書、45-46頁。
  5. 佐藤健生「ドイツの戦後補償・日本の模範か」『世界』1991年11月号、297頁。
  6. 同上。
  7. 荒井信一・藤原彰編『現代史における戦争責任』(青木書房、1990年)、95頁。
  8. 同上書、60頁。
  9. 粟谷憲太郎ほか薯『戦争責任・戦後責任』(朝日選書、1994年)、206ー210頁。
  10. 前掲「現代史における戦争責任」60頁。
  11. 佐藤健生「「補償」への視点」『世界』1992年臨時増刊、60頁。
  12. 日本弁護士連合会編『日本の戦後補償』(明石書店、1994年)、225-226頁。
  13. 前掲『戦争責任・戦後責任』5-6頁。
  14. 前掲「「補償」への視点」60-61頁。
  15. 同上書、59-60頁。
  16. 前掲「ドイツの戦後補償・日本の模範か」301-303頁。
  17. 清水正義「戦後補償の国際比較」『世界』1994年2月号、136-139頁。
  18. 前掲『日本の戦後補償』225頁。
  19. 前掲『戦争責任・戦後責任』182頁。
  20. 同上書、183頁。
  21. 同上書、193頁。
  22. 前掲『日本の戦後補償』233頁。
  23. 閔 寛植『在日韓国人の現状と未来』(白帝社、1994年)374頁。
  24. 前掲『戦争責任・戦後責任』116頁。
  25. 前掲『現代史における戦争責任』122頁。
  26. 前掲『戦争責任・戦後責任』117頁。
  27. 前掲『現代史における戦争責任』132-133頁。
  28. 細谷千博・大沼保昭ほか編『東京裁判を問う』(講談社、1989年)、61頁。
  29. 大沼保昭『東京裁判から戦後責任の思想へ』(東信堂、1993年)、26-27頁。
  30. 前掲『東京裁判を問う』61頁。
  31. 同上書、34-35頁。
  32. 前掲『東京裁判から戦後責任の思想へ』32-33頁。
  33. 同上書、34-35頁。
  34. 前掲『現代史における戦争責任』41-45頁。ただ日本側においても終戦前から、国体護持について盛んに議論なされており、ついには「占領協力」のための天皇免責論が成立した。
  35. 同上書、64頁。
  36. 同上書、36-41頁。
  37. 前掲『東京裁判から戦後責任の思想へ』55頁。
  38. 同上書、119-120頁。
  39. 保坂正康「中・韓の「対日批判」が起こるとき」『正論』1995年1月号、88頁。
  40. 竹内好『現代の発見3』春秋社、1960年、13頁。
  41. 油井大三郎「戦争責任の日米ギャップをどう考えるか」『世界』1994年2月号、177-178頁。
  42. 家永三郎『戦争責任』岩波書店、1985年、125頁。
  43. 中西功「日中全面戦争のころ」『時代』1971年11月号。
  44. 小田村四郎「大東亜戦争に”侵略意志”はあったか」『正論』1994年3月号、109頁。
  45. 『朝日新聞』1994年6月17日。
  46. 吉田裕「歴史意識は変化したか」『世界』1994年9月号、26頁。
  47. 『朝日新聞』1994年5月25日。
  48. 前掲『戦争責任論』44頁。
  49. 前掲『戦争責任』66-82頁。
  50. 同上書、102-110頁。
  51. キム・ヨンス『韓日50年は清算されたか』(コリョウォン、1995年)、213-215頁。
  52. 『朝日新聞』1995年10月16日。
  53. ワルター・ホーファー著、救仁鄉繁訳『ナチス・ドキュメント』(ぺりかん社、1969年)、22-23頁。
  54. 同上書、48頁。
  55. 同上書、373頁。
  56. リチャード・H・ミッチェル著、金容権訳『在日朝鮮人の歴史』(彩流社、1981年)96-98頁。
  57. 前掲『ナチス・ドキュメント』40-44頁。
  58. 村瀬 興雄『ナチス統治下の民衆生活』(東京大学出版会、1983年)、331頁。
  59. 李庭植著、小此木政夫・古田博司訳『戦後日韓関係史』(中央公論社、1989年)、81頁。
  60. 中川信夫『日韓問題の歴史と構造』(未来社1975年)、85頁。
  61. キム・ドンジョ著、林建彦訳『韓日の和解』(サイマル出版会、1993年)、309-314頁。
  62. 同上書、305頁。
  63. 『朝日新聞』1995年10月25日。
  64. 佐々木隆爾「いまこそ日韓条約の見直しを」『世界』93年4月号、124-125頁。
  65. 前掲『韓日の和解』53頁。
  66. 金明基「韓・日間の戦後問題はすべて清算されたか」『国際問題』1993年5月号、30頁。
  67. 「解放50年、韓日修好30年の再照明」『東亜日報』1995年6月2日付。
  68. 前掲『戦争責任・戦後責任』23-25頁。
  69. 同上書、26頁。
  70. 同上書、32頁。
  71. 同上書、41頁。
  72. 中嶋忠次『恩給法概説』(帝国地方行政学会、1968年)3-5頁。
  73. 田中宏ほか著『遺族と戦後』(岩波新書、1995年)、121-122頁。
  74. 同上書、127-128頁。
  75. 前掲、『戦争責任・戦後責任』36頁。
  76. 同上書、38頁。
  77. 前掲『日本の戦後補償』181-182頁。
  78. 『朝日新聞』1995年10月12日。
  79. 国際法律家委員会著、自由人権協会・日本の戦争責任資料センター駅『国際法からみた「従軍慰安婦」問題』(明石書店、1995年)、182-184頁、194頁。
  80. 同上書、171頁。
  81. 吉見義明『順軍慰安婦資料集』(大月書店、1992年)34-35頁。
  82. 前掲『国際法からみた「従軍慰安婦」問題』178頁。
  83. 前掲『従軍慰安婦資料集』36頁。
  84. 金明基「挺身隊と日本の国内法上の国家責任」『国際問題』1993年3月号、13-14頁。
  85. 前掲『従軍慰安婦資料集』105-106頁。
  86. 吉見義明・林博史編『共同研究・日本軍慰安婦』(大月書店、1995年)、20-21頁。
  87. 前掲『従軍慰安婦資料集』103-104頁。
  88. 前掲『共同開発・日本軍慰安婦』27頁。
  89. 千田夏光『従軍慰安婦・正篇』(三一新書、1978年)103-105頁。
  90. 加藤正夫「千田夏光著『従軍慰安婦』の重大な誤り」『現代コリア』1993年2・3月号、55-56頁。
  91. 同上書、58頁。
  92. 『朝日新聞』1993年8月5日。
  93. 前掲『従軍慰安婦資料集』34-35頁。
  94. 上杉千年『検証・従軍慰安婦』(全貌社、1993年)、213頁。
  95. 同上書、206-212頁。
  96. 『朝日新聞』1995年6月15日。
  97. 長崎在日朝鮮人の人権を守る会編『朝鮮人被爆者』(社会評論社、1989年)、246頁。
  98. 同上書、246-249頁。
  99. 同上書、53頁。
  100. 一木香告樹「在韓被爆者支援への提言」『現代コリア』1990年8・9月号、31頁。
  101. 前掲『朝鮮人被爆者』253頁。
  102. 石田忠『原爆被爆者援護法』(未来社、1986年)、180-182頁。
  103. 同上書、62頁。
  104. 岩垂弘「援護法案と「国家補償」」『世界』1995年1月号、105-106頁。
  105. 前掲『原爆被爆者援護法』179-180頁。
  106. 『朝日新聞』1993年8月23日。
  107. 『朝日新聞』1995年8月15日。
  108. 『読売新聞』1993年8月5日。
  109. 『朝鮮日報』1995年6月22日。
  110. 前掲『韓日50年は清算されたか』100-101頁。
  111. 「50年後の検証に耐えられるか疑問」『朝日新聞』1995年1月10日。
  112. 『朝鮮日報』1995年5月23日。
  113. 「50年後の検証に耐えられるか疑問」『朝日新聞』1995年1月10日。
  114. 横川新・佐藤文夫編著『国際法講義』(北樹出版、1993年)150-151頁。
  115. 木村将成「国家が「謝罪」するとき」『現代コリア』1995年7月号、15頁。
  116. 前掲『国際法講義』151頁。
  117. 『朝日新聞』1993年11月13日。
  118. 同上。
  119. 『朝日新聞』1993年8月5日。
  120. 『毎日新聞』1991年9月2日。
  121. 同上。

 

参考文献

  1. 日本弁護士連合会編『日本の戦後補償』明石書店、1994年
  2. 粟谷憲太郎ほか著『戦争責任・戦後責任』朝日選書、1994年
  3. 荒井信一・藤原彰編『現代史における戦争責任』青木書房、1990年
  4. 閔寛植『在日韓国人の現状と未来』白帝社、1994年
  5. 荒井信一『戦争責任』岩波書店、1995年
  6. 菊池謙治『日本を衰亡へ導く「東京裁判史観」』全貌社、1991年
  7. 細谷千博・大沼保昭ほか編『東京裁判を問う』講談社、1989年
  8. 大沼保昭『東京裁判から戦後責任の思想へ』東信堂、1993年
  9. 『東京裁判ハンドブック』青木書店、1989年
  10. 家永三郎『戦争責任』岩波書店、1985年
  11. 粟谷憲太郎『未決の戦争責任』柏書房、1994年
  12. キム・ヨンス『韓日50年は清算されたか』コリョウォン、1995年
  13. ワルター・ホーファー著、救仁郷繁訳『ナチス・ドキュメント』べりかん社、1969年
  14. 小俣和一郎『ナチスもう一つの大罪』人文書院、1995年
  15. 村瀬興雄『ナチス統治下の民衆生活』東京大学出版会、1983年
  16. リチャード・H・ミッチェル著、金容権訳『在日朝鮮人の歴史』彩流社、1981年
  17. 中川信夫『日韓問題の歴史と構造』未来社、1975年
  18. 李庭植著、小此木政夫・古田博司訳『戦後日韓関係史』中央公論社、1989年
  19. 『海峡をへだてて・日韓条約20年を検証する』現代書館、1985年
  20. キム・ドンジョ著、林建彦訳『韓日の和解』サイマル出版会、1993年
  21. 中嶋忠次『恩給法概説』帝国地方行政学会、1968年
  22. 田中宏ほか著『遺族と戦後』岩波新書、1995年
  23. 山本敬三『国籍・増補版』三省堂選書、1984年
  24. 上杉千年『検証・従軍慰安婦』全貌社、1993年
  25. 国際法律家委員会著、自由人権協会・日本の戦争責任資料センター訳『国際法からみた「従軍慰安婦」問題』明石書店、1995年
  26. 川田文子『戦争と性』明石書店、1995年
  27. 吉見義明『従軍慰安婦資料集』大月書店、1992年
  28. 千田夏光『従軍慰安婦・正篇』三一新書、1978年
  29. 伊藤孝司『(証言)従軍慰安婦・女子勤労挺身隊』風媒社、1992年
  30. 国際公聴会実行委員会編『世界に問われる日本の戦後処理1』東方出版、1993年
  31. 吉見義明・林博史編『共同研究・日本軍慰安婦』大月書店、1995年
  32. 石田忠『原爆被害者援護法』未来社、1986年
  33. 田沼肇『原爆被爆者問題』新日本新書、1971年
  34. 岩松繁俊『反核と戦争責任』三一書房、1982年
  35. 長崎在日朝鮮人の人権を守る会『朝鮮人被爆者』社会評論社、1989年
  36. 横川新・佐藤文夫編著『国際法講義』北樹出版、1993年
  37. 寺沢一ほか編著『標準国際法』青林書院、1993年
終章 おわりに <<   
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

論戦できぬ不当な主張

2012年08月23日 | 政治

領土問題に関する議論が、ずいぶんと活発になってきています。本ブログでも、これまで領土問題に関しては、いくつか私見を述べてきました。その中で、竹島については、どちらが是というわけではなく、双方言い分がありながらも、自分の言い分が通らないからといって、武力に訴えるやり方はよろしくないというスタンスをとってきました(「常に問われる国家の品格」参照)。

しかし今回、事の成り行きを見守っていく中で、韓国側の主張には説得力がなく、日本側の言い分が是であると考えるべきであろうと思うに至っています。こう結論を出す理由は、ただ一点、日本から提案された国際司法裁判所への付託に対して、韓国側が全く応じようとしないからです。国際司法裁判所への付託提案は、これまでも何度かなされてきましたが、ことごとく韓国側から拒否されてきました。そして今回も、韓国の外相が「一顧の価値もない」と発言してみたり、挙句、日本側からの正式な親書に対して、何の返答もないまま送り返してくるなど、韓国側には議論をしようとする意思を全く感じません。

考え方は、自由でいいと思います。今、私の手元には、韓国の外交通商部が日本語で作成した「独島」というパンフレットがあります。ここには、竹島が韓国領であるとする論拠が、30数ページにわたって書かれています。これはこれで結構なことでしょう。しかし、領土問題という相手がいるテーマについて、自国の論ばかりをもって、ただ武力を使って占拠するという行為には、何の正当性も見出せません。領土問題で、相手の論を無視してよいというならば、武力侵攻こそ正しいということになります。そんなことが通るはずもありません。韓国が竹島の領有権を主張したいのならば、堂々と日本との議論に向き合うべきです。それができない限りは、論を待たずして、韓国の主張は不当であると断じてよいでしょう。

今、私の手元にあるパンフレットには、竹島問題の国際司法裁判所付託について、これを拒否する理由が以下のように書かれています。

=====================
日本政府の提議は司法手続きを装ったもう一つの虚偽の試みに過ぎない。韓国は独島に対する領有権を持っており、韓国が国際裁判所でこの権利を証明しなければならない理由は何一つない。

日本帝国主義による韓国の主権侵奪は、1910年に簡潔するまで段階的に行われ、1904年日本は強制的に締結した「韓日議定書」や「第1次韓日協約」を通じてすでに韓国に対する実質的な統制権を獲得した。

独島は日本による韓国侵略の最初の犠牲である。日本の独島に対する非合理的で執拗な主張は、韓国国民に日本が再び韓国侵略を試みようとしているのではないかという疑義を抱かせる。韓国国民にとって独島は単なる東海上の島ではなく、韓国主権の象徴である。
=====================

日本側の「正当な司法手続きをしようとする行為」が、どのような虚偽にあたるのか全くもって理解に苦しみます。あるいは、韓国という国では、隣の敷地に建物を建てた人間が訴えられても、「お前の訴えは偽モノだ」で済むのでしょうか。

国際司法が、全て正義であるというつもりはありません。人間の作った仕組みには、必ず何らかの限界があると考えてよいでしょう。ただし、そのことが「国際司法を軽んじてよい」ということには繋がりません。仮に国際司法の仕組みがまやかしであるというのなら、それはそれで結構ですが、それならば、現在の仕組みに対する代替案も同時に出すべきでしょう。韓国外交通商省の報道官は、親書返送の理由として、「日本の主張が極めて不当」と言ったとされていますが、その不当である理由を堂々と国際司法の場で述べてもらいたいところです。述べられないのは、韓国の主張こそが「極めて不当」だからでしょう。繰り返しですが、どんなに強固な理論武装をしたとしても、それを堂々と国際司法で語れない以上、それは論を待たずして、「不当な主張である」と断じてよいと考えます。

竹島が、韓国にとって、独立の象徴であることは理解します。しかし、この問題に対する同国の対応は、あまりに稚拙で身勝手です。今はまず、竹島が国際社会における同国の「稚拙さ」、「身勝手さ」の象徴にならないことを祈るばかりです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最後の日本兵の言葉

2012年08月15日 | 日本

67回目の終戦記念日を迎えました。この戦争に関しては、私なりにいろいろと勉強したいと思うことが多くあり、いつかそれらを纏めてみたいという思いもあります。ただ、それらについては、既に多くの方々が論じられているところでもあるので、今、ここで述べることはいたしません。

その代わりというわけではありませんが、ここに最後の日本兵として帰還した小野田寛郎さんの言葉を引用したいと思います。

==================
戦前、人々は「命を惜しむな」と教えられ、死を覚悟して生きた。
戦後、日本人は何かを命がけでやることを否定してしまった。
覚悟をしないで生きられる時代は、いい時代である。
だが死を意識しないことで、 日本人は「生きる」ことをおろそかにしてしまってはいないだろうか。
==================

小野田さんの言葉は、戦後世代の私たちの「命」や「生き方」に対する考え方について、ひとつのきっかけを与えてくれているように思います。

戦後、日本人の意識が大きく変わったのは本当でしょう。日本人の「命」に対する考え方も小野田さんのおっしゃる通り、変化していったことは否めないだろうと思います。

ただ個人的に、私は私を含めた世代より下の人々が、「命がけでやることを否定した」わけでもないのではないかと考えています。もう少し言い方を変えるならば、「何に命をかけるかを慎重に選んでいる」だけではないかと思うのです(「一番難しい「山」」、」「リスクをとるということ」等参照)。

多くの先人たちが命がけで作り上げてきたもの、守ってきたものは、どれもみな重みのあるものばかりです。生きている私たちは、それらを先人たちと同じように、なお命がけで次の世代に引き継いでいくための道を進んでこそ、各々の「命」を輝かせることができるのでしょう。

終戦記念日にあっては、それぞれの立場からいろいろな思いをされている方々がいると思います。そのなかで、一人の戦後世代として育ってきた私は、今日の日にあらためて、この国を守ってくれた多くの日本の先人たち、そして敵味方関係なく歴史の大渦のなかでこの世を去った無数の人々の御魂に感謝したいと思います。

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「金」の可能性

2012年07月08日 | 社会

日本の財政が破綻するか否かについては、さまざまな議論がなされ得るようですが、そのひとつの大きな論点は、日本の借金は、「国内でお金をグルグル回しているだけ」というものです。つまり、国が借金をし、それを負担していくのが国民ならば、国にお金を貸して、その分の債権を得るのも国民なのだから、それが破綻するのはあり得ないというわけです。その考え方に立てば、よく言われる「国の借金を次の世代に背負わせる」というのは、「国に対する債権を次の世代に引き継がせる」ことで、相殺されるということになるのかもしれません。

ところで、そうした「財政は破綻しない論」は、国内でお金をグルグル回しているところに対して言えるのであって、そうでない国々にとっては、事情が大きく異なるとみるべきでしょう。近年では、ギリシア、スペイン、イタリアなど、欧州における財政危機が大きく取り沙汰されています。これらの国々では、国の借金を国内で賄っているのではなく、外国も絡むかたちで、お金が回っているため、日本とは事情が違うわけです。そのことは、欧州に留まりません。基軸通貨とも言われるドルの米国でも、同じようなことが言えます。具体的には、中国や日本といった外国が、米国債を買っており、米国政府に巨額のお金を貸しているわけです。

こうした国々においては、「国内でお金をグルグル回している」わけではないため、財政破綻は現実的なものとして捉える必要があるでしょう。そうした場合、例えば、米国のような超巨大国家の財政が破綻したら、何が起こるのかを考えなければなりません。これに対しては、実に様々な意見があるものと思われます。もしかしたら、世界が米国を破綻させるようなことはさせない、というような意見もあるかもしれません。しかし、上述のような考え方を整理していけば、可能性の問題としてでも、米国が破綻するかもしれないと考えるべきでしょう。

先日、仲間とこうした議論をしているなかで、これからの時代における資産保全の観点から、「金」の重要性を見直すべきという話になりました。

今、市中に出回っているお金というのは、言い方によっては、所詮紙切れです。各国家の枠組みの中で、それらの信用に基づいて、多くの人々に「価値があるモノ」と認められてはいますが、国家の信用が失われてしまったら、何の価値も持たなくなる脆いものでもあります。ある国家の財政が破綻するということは、そうしたお金の価値が崩壊する可能性を指すわけです。

そこで、そのように紙切れ同然になったお金に代わって価値を持ちうるもの、あるいはそうした世情に左右されず、常に「価値があるモノ」として認められるものとして、「金」に注目してみたのです。「金」は、有史以来、人類にとって、価値があるものとされてきました。それは、国家がどのようなかたちに変わっても、さほど大きくは変わりません。今でこそ、金本位制はなくなりましたが、これから国家の信用に基づいた貨幣経済が崩れるとなると、「金」の重要性は、ますます高まってくる可能性があります。

このことが、ただちに金本位制への移行を意味するのかについては、ここでは詳しく論じません。ただし、それに近いものになる可能性は、否定できないと考えます。金本位制の復活はあり得ないとする立場からは、金本位制のいろいろな問題が指摘されます。それらが、分からないわけではありません。

ただそれでも、今の貨幣システムが崩壊し、世界の基軸通貨であるドルが紙切れに化してしまうとしたら、嫌でもそれに代わる何かを生み出していかなければなりません。その際には、誰が何と言おうが、どんなに金本位制の欠点を論おうが、「金」を大量に保有している人々が、紙切れと化したお金を否定し、それに代わる「金」中心の貨幣システム、自分たちのルールを押し通してくることが想定され得ます。現状から、金本位制の欠点や実現性を論じるというのではなく、世界的な通貨危機が起こったときに、何が起こりうるのかという観点から、「金」の価値は見直されるべきではないかと思うのです。

今後、世界経済がどのように動いていくのかは分かりません。また、「金」なる貴金属自体が、私たちを豊かにしてくれたり、幸福にしてくれるとも思いません。ただ、可能性の問題として、世界的な通貨危機を考えないわけにはいかないし、その際の「金」の価値を認めることは重要でしょう。私は、そうした可能性を踏まえた上で、新しい経済システムの構築を進めるというスタンスでいきたいと考えます。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新経済システムの試み

2012年06月13日 | 会社

今の経済システムというのは、本当によくできていると思います。自分たちの仕事の価値が数値として表れ、それらをお互いに交換することで、無数の人々が効率的な役割分担ができるようになりました。

しかし、それを手放しで褒め称えるわけにもいきません。たくさんのお金を持つということは、たくさんのモノを得る、つまり幸せになるという考え方が蔓延り、お金を稼ぐこと自体が、人生にとっての最大目的とするような人々が生まれてしまいました。お金儲けの成否に一喜一憂し、その結果次第では、自分や他人の命を奪うということが、何度となく繰り返されてきています。また、情報化が進んだことで、本来、需要と供給をバランスさせることが目的だった市場が、投機目的の場として使われてしまったり、一部の限られた人々にとって都合のいいツールになってしまうということも起こってきています。

それだけではありません。

現代社会は、高度に情報化が進み、多くの技術革新がなされたことで、これまでの経済システムでは、正当に評価できない(あるいは数値化できない)事象が増えてきました。例えば、インターネットの普及により、多くの著作物に対する著作権や、それらの流通や利用に伴う利用料の類は、ほとんど数値化できていません。インターネットが究極のユーザー参加型メディアであるにもかかわらず、ほとんどのビジネスが「広告モデル」であったり、ユーザー間でのコンテンツ評価が、「いいね」ボタンで済まされているということが、その現状を見事に表していると言えるでしょう。

こうした問題を踏まえたうえで、私なりに、次の時代に向けて、新しい経済システムを立ち上げる試みを始めています。そして最近、それを共に立ち上げようという仲間たちと一緒に、聖神社や和銅遺跡を訪れてみました。そこは、日本最初の通貨の場所です。

和同開珎を祀る聖神社

和同遺跡

日本通貨発祥の地

私にとって、ここへの訪問は、大変感慨深いものでした。

今、私が仲間たちと共に動かし始めた経済システムは、既に動いているそれとは比べようもない、とても微小なものです。それを喩えるならば、「子供と大人」というにも程遠く、「細胞と人間」というくらい、大きな開きがあると言えるでしょう。しかし、無数の細胞の集まりである人間も、最初は一つの細胞から始まっているわけです。そのたった一つの細胞から、2つ、4つ・・・と分裂を繰り返し、ついには一人の人間となっていくというのは、全ての人間に対して、例外なく当てはまる事実です。つまりは、どんなに立派なものでも、最初は一つの細胞から始まるしかないということです。

聖神社や和同遺跡では、あらためてそのことを感じさせてくれました。それまで、中国銭で動いていた経済システムのなかで、日本独自の通貨を使っていくというのは、当初、とても微小な動きだったことでしょう。いや、実際には、そうでもなかったのかもしれませんが、「発祥の地」という言葉の響きのなかに、そういうものを強く感じずにはいられませんでした。

これからの細胞分裂、ますますもって楽しみになってきました。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

破綻しない財政

2012年05月13日 | 社会

日常的にメディアを通して私たちが耳にするのは、日本の借金は900兆円を超えており、このままいけば政府は早晩破綻するというものです。感覚的に、借金が膨張すれば、財政が破綻するというのは理解できます。こうしたテーマについては、このブログでも度々触れてきました(「国家信用と貨幣システム」等参照)。

ただ一方で、日本の財政は絶対に破綻しないという議論もあります。これは、日本の国債は、90%以上が国内で買われているものであり、政府が借金をするというのは、即ち国民の資産が増えるということを意味しており、国債を発行するという行為自体、基本的にお金が日本国内をぐるぐる回っているだけであるという考え方からくるものです。これはこれで分からなくもありません。しかし、それが延々と回り続けてくれるのか、借金が際限なく膨らむということが本当に許されるのか、いま少しはっきりしません。

先日、このテーマについて、仲間内で議論をしました。結果、たしかに日本国内で国債が買われ続け、国民の資産が、政府が発行するだけの国債を引き受けるだけの規模、きちんと残っていれば、すぐに財政が破綻するということはなさそうだという結論に達しました。そういう意味では、メディアが煽り立てるほど、深刻な状況ではないと言えるのかもしれません。ただし、それが永続的な安定を意味するのかというと、けっしてそうでもないように思います。

例えば仮に、「こんな借金だらけで、政府の財政は本当に大丈夫なのだろうか?」と疑念を抱いた人々が、自分たちの持つ資産を海外の口座に移したり、貴金属に替えるような行動を起こしていくようになると、このループは成り立たなくなります。お金をぐるぐる回すゲームから外れる人々が出始めると、それが一気に全体の流れになるようなことも否定できません。

また、外国政府における財政破綻の影響等も気になります。現在、考えられるシナリオとしては、こちらの方が現実味があるのかもしれません。つまり、日本のように国内でぐるぐる回しているだけの国債ではなく、他国に国債を引き受けさせている国は、破綻する可能性が高いということです。

米国では2011年、債務が法定上限である14.3兆ドルを越えるということで、大きなニュースになりました。この時点における米国債の海外保有高は、4.5兆ドルでした。この数字から明らかなとおり、米国の場合、とても日本のように、「お金を国内でぐるぐる回している」ような状況ではないのです。こうした国では、為替相場などによって、大いに運命を左右されてしまうわけです。問題は、そうした世界経済の事象が、日本経済を直撃するであろうことであり、そのことが日本の国家財政においてどのように作用するのかということでしょう。

明確な根拠があるわけではありませんが、私はこうしたことを想定してみるとき、どうしても「金」を意識してしまいます。今の経済システムは、金本位制ではありませんし、金本位制への移行というのは、時代に逆行するものであるという指摘も分かります。私自身、「金」にそれほどの価値があると思っていませんので、むしろ金本位制に対する違和感すらあります。しかしそれでも、ある大国の財政が破綻するような事態が起こった場合、それを立て直す手段として、金本位制への移行を否定しきれるのかどうか、ちょっとした不気味さは感じています。このあたりの問題は、もう少し時間をかけて、注視していきたいところです。

さらにもうひとつ。日本の国債が本当に国内をぐるぐる回るだけだとして、「膨らむ借金」は国家財政の破綻を意味するのではなく、乱発される国債や日本円の価値暴落を招くだけかもしれないということです。借金は国内だけの問題であり、政府が膨大な量の国債を発行したとしても、それを(民間の銀行を通じて)日銀が刷った紙幣で買い取れば、問題ありません。そうなると、「借金によって破綻する」ということはない代わりに、国債や日本円の価値が著しく下がることになるわけです。そのことによって困るのは、多くのお金を銀行に預けている富裕層でしょう。むしろ、ローン等の借金で悩んでいる庶民たちには、ありがたいことになる可能性すらあります。そう考えると、財政が破綻するかもしれないという危機感を煽り、それを避けるために庶民たちからの税収を増やそうとする行為は、ただ富裕層を守るための方便という言い方もできます。

国家の財政が、今の経済システムのなかで、どのような道を辿っていくのか、これから先も一人の国民として、注意深く観察し、検証していきたいと思います。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出雲への国譲り

2012年04月15日 | 日本

国譲り神話と言ったら、まずは「出雲の国譲り」でしょう。国を作った大国主大神が、天照大神に国を譲る神話のことです。これについては、私なりに思うことがあり、本ブログでも別の記事でまとめているところです(「「国譲り」の二面性」、「日本建国史の再考」参照)。この視点からすると、出雲は国譲りをした側ということになります。

しかし最近、少々別の視点を意識するようになりました。それは、神武東征の際、九州からやってきた神武天皇に王権を譲った饒速日命のことです。もし仮に、饒速日命の行動を神武に対する「国譲り」と称するのならば、これはもしかすると、出雲勢力に対する「国譲り」に当たるかもしれないと思えてならないからです。

この話を進める前に、まずは出雲と国譲り神話について、簡単に考察してみたいと思います。

記紀の記述には、当時の権力者に都合よく書かれた側面があり、国譲り神話は、大化の改新以降、政権をもぎ取った天智天皇-持統天皇(さらには中臣鎌足-藤原不比等)親子の正当化に使われているような気がしています(「東国の神々へのご挨拶」参照)。

ただし、出雲の国譲り神話には、持統朝の思惑だけでなく、実際に出雲勢力が政権を追われた歴史を映し出しているとも考えています。それは、初期の大和朝廷において、まだまだ緩やかな連合体でしかなかった政権が内輪もめを起こし、その過程で出雲を追い出したのではないかということです。このあたりについては、別の記事で述べている(「日本建国史の再考」参照)ので、あまり多くは繰り返しませんが、ポイントを整理すると以下の通りとなります。

=========================

(1)建国:出雲朝(大国主大神)による建国
初期の大和政権。ただし、実体は出雲朝と言えるほど、出雲派が政権運営をしていたというものではなく、有力な首長が集まってできた連合政権だったのではないかと考えます。

(2)討伐:出雲朝の九州(邪馬台国)討伐
中国大陸からの文物の流通ルートを抑えることは、大和政権にとって死活問題だったはずです。当時、北九州にあって、中国との関係を深めていく邪馬台国(私は邪馬台国北九州説をとります)は、大和政権にとって大いなる脅威だったことでしょう。私は、これを討伐したのが、主として出雲の人々だったのではないかと推察しています。神功皇后の三韓征伐などは、出雲勢力の北九州(邪馬台国)遠征と関係しているのではないかと考えます。

(3)反乱:大和における出雲朝に対する反乱
邪馬台国征伐は、大和政権にとって、物流ルート確保のための戦いでありながらも、当時、大和政権内で出雲に並ぶ力を持つ瀬戸内勢力からは、新たなる脅威にみえたことでしょう。何故なら、出雲が北九州を抑えてしまったら、中国大陸から大和への物流が、完全に出雲勢力に牛耳られるからです。そこで、これを恐れた瀬戸内勢力が、九州に遠征している出雲勢力に対して反乱を起こしたのではないかと考えます。結果として、出雲勢力は、九州に取り残された可能性があります。

(4)鎮圧:九州からの大和鎮圧(いわゆる「神武東征」)
出雲勢力を追い出した大和政権は、なかなか国をまとめることができず、九州に追いやった出雲勢力を迎え入れるという決断をしたと思われます。神話的に表現するならば、当時、政権の中枢にいた饒速日命が、神武天皇を迎え入れたのでしょう。いわゆる「神武東征」というのは征服戦争ではなく、平和的な出雲王家の復権だったのではないかと思うのです。饒速日命が「天神の御子」ながらも、 神武も同じく「天神の御子」と認めたのはそのためでしょう。

(5)再建:出雲系大和朝の樹立(いわゆる「神武朝」の始まり)
ここから、神武天皇を初代とした歴史が始まります。ただし、これ以降も王権の権力争いは繰り返され、その中で歴史書の焼失・編纂などが行われてました。そのため、古代日本の天皇家の系譜は、実際の歴史と神話の世界が相俟って、時間軸そのものが前後するなどを含めて、複雑怪奇なものに仕上がってしまったと考えられます。

=========================

このように考えてみると、神話の中で国を譲ったとされる出雲は、きちんと国を譲られた側としても存在することになります。歴史の真実を証明するには、タブーを越えた調査も必要であり、すべてを白日の下にさらすというわけにはいかないかもしれません。しかし、こうした視点、あるいは仮説は、大変重要な意味を持っているように思います。

日本は、言わずと知れた「和」の国です。大和も、大いなる「和」の国たらんと欲したことでしょう。その中にあって、争うことなく「国譲り」をするという精神は、それを見事に表しているのではないかと思えてなりません(「全国民のための建国記念日」参照)。出雲はただ国を譲っただけではなく、国を譲られる側でもあったとするならば、そうした平和的譲位を通じた「和」の精神が、循環しつつ、日本の根底に流れていると考えることができると思います。

先日、長髄彦の墳墓とされる鍋塚古墳に行ってきました。長髄彦は、神武東征の際、饒速日命の指示に従わず、あくまでも神武を拒み続けて戦い、結果として、主君である饒速日命に殺された人物です。饒速日命は、神武に国譲りをするために、部下を殺すという代償を払ったわけであり、その国譲りには、長髄彦の死という犠牲を伴ったわけです。

鍋塚古墳周辺の案内図

長髄彦の墓とされる古墳

鍋塚古墳の上

かつての先人たちは、「和」の国を実現しようとしながらも、いくつもの犠牲を払わざるを得なかった現実と向き合ってきたのでしょう。しかし、次の新しい時代、国造りを進めていく上での環境、諸条件は大きく変わってきています。かつての建国の歴史を紐解き、それらに敬意を払いながら、同時に、大いにこれを参考にしつつ、次時代の新しい仕組みを作っていければと思うのでした。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アニメランキングの休止

2012年04月01日 | ランキング

四半期に一度、アニメのランキングをつけていましたが、しばらくお休みすることになりそうです。

昨年末から、徐々に潮目が変わるような兆しがあり、今年に入って、急速にいろいろな環境が変わってきました。4年半ほど前、自分なりにひとつの区切りがついて以降、それなりの充電期間をいただいたように思います。そのなかで、アニメを見ながら、いろいろなことを感じ、また勉強させていただきました。自分勝手なランキングをつけながら、アニメを楽しんだ時間は、ただの娯楽の時間ではなく、次の事業、次の世界観を構築するにあたり、とても重要なことを教え続けてくれる時間となりました。

これから先は、自分だけが楽しむのではなく、もっともっと他の人を楽しませる時間にしなければいけないのかもしれません。

ひとまず、今日の段階では、そんなことだけ書き留めておきつつ、次の準備を進めていきたいと思います。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

住吉大社へのお参り

2012年03月17日 | 日本

住吉大社に行ってきました。住吉大社のご祭神は、住吉大神ということになっていますが、これは底筒男命、中筒男命、表筒男命の総称であり、場合によっては、息長帯姫命(神功皇后)を含むとされています。

関裕二さんによると「武内宿禰」、「塩土老翁」、「住吉大神」が同一との話があります。今回行ってみて、私自身もあらためてそう思いました。

古代の神話というのは、なかなか紐解くのが難しいものです。歴史書が編纂される過程において、真実を隠さなければならぬこともあったでしょう。隠し通せぬものの辻褄あわせをしなければならないこともあったと思われます。そのなかで、作り出される偶像もあり、それらが実在のものと絡み合うように混在するので、ただ「同一人物」といっても、きれいにピッタリ重なり合うようなものではないかもしれません。蘇我入鹿と聖徳太子、ヤマトタケルノミコトと武内宿禰・天武天皇、神武天皇と応神天皇、饒速日命と崇神天皇・大物主大神、神功皇后とトヨ・・・考えていくとキリがありません。しかし、それでもこうした人々(あるいは神々)同士の一致性というのは、それなりに注目すべきものがあるのではないかと思います。

住吉大神の三神は底筒男命、中筒男命、表筒男命を指します。、「筒」と言えば「塩筒老翁(塩土老翁)」を連想せずにはいられません。塩土老翁は、神武天皇に東征を促した人物です。私なりに、神武天皇の「武」の字と、武内宿禰のそれとの間には、何らかの意味が隠されているような気がしてなりません。そして、共に祀られている神功皇后は、武内宿禰とも深い絆で結ばれていた人物でもあります。

住吉大社には、初代天皇である神武天皇(あるいは応神天皇?)を九州からヤマトへ送り込もうとした武内宿禰・神功皇后というお二人の姿を、私なりに感じたのでした。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする