昭和22年、ボクが小学4年生のときである。
家の前の道路で遊んでいると、見慣れない子が近寄ってきた。
ボクと同じ年ごろの子供である。
そこへ大人たちがやってきて、その子を捕まえて駅へ連れていった。
駅の宿直室に入れられ、大人たちに押さえつけられた子どもは、泣き叫びながら足をバタバタして暴れた。
大人たちは手に負えなくなったのか解放した。
すると、その子は線路伝いに南の方へ歩いていった。
その先には川があり、鉄橋がかかっている。
鉄橋を渡るのは危険だ。
大人たちの話によれば浮浪児とのことである。
村の商家へ夜中に訪ねてきたので、泊まらせたとのことだが、朝になったら、いなくなったので探していたとのことだ。
昭和25年の頃の新聞に、浮浪児が五重塔の二階へ竹竿を掛けて登っていく写真が掲載されたのを見た。
上野の五重塔をねぐらにしている浮浪児との記事であった。
この五重塔は現在、動物園の敷地内にあるが、当時は動物園の外にあった。
少年雑誌には浮浪児たちが大人に雇われて靴磨きをしたり、盗みを働かされている小説が載っていた。
また、ラジオでは浮浪児を扱った連続放送劇、「鐘の鳴る丘」が放送されていた。
だから、ボクは浮浪児について、少しは理解していた。
昭和25年の頃、ボクは父と一緒に秋田から夜行列車で上野駅へ行った。
駅の地下道には、戦災で家を失ったと思われる人々であふれていた。
地下道に寝ているのだ。
東京の街の中で浮浪児たちにも出会った。
ボクは函館で空襲に遭っていたから、あの戦争で、もしかしたらボクも浮浪児になっていたのかもしれないと、不安な気持ちになっていた。
あの子たちは、その後どうなったのだろうかと思う時がある。
最近、ボクは浮浪児たちの実態をネットで検索をしてショックを受けた。
*当時9歳の女の子の証言によれば、浮浪児狩りでトラックに載せられ、遠い山奥へゴミのように捨てられたというのだ。
米軍機の空襲(空爆)で家を焼かれ、親きょうだいと死に別れ、そしてまた、日本国からゴミ扱いにされて捨てられたのだ。
*バラ線で囲まれた収容所に連れて行かれた浮浪児が見たものは、廊下に放置された子供たちの遺体であった。
いつか自分もこうなる運命と悟り、脱走して生き延びたという。
*施設に収容されて、殴る蹴るの暴行をうけ、海底から遺骨を引き揚げる作業をさせられるなど、酷い生活を強いられた浮浪児たち。
*親戚に引き取られても、学校へ通わせてもらえず、労作業をさせられたり、心理的虐待を受けたりして、逃げ出す子供たちもいた。
戦災で親を亡くし、幼いながらも必死で生きようとしている子供たちを、
世間は浮浪児という蔑視的な名でよんでいた。
- - - - - 幼い命を救うことに努力をしないで - - - - -
施設に収容するのは保護ではなく、「狩りこみ」とか「浮浪児狩り」と呼ばれた。
- - - - - 野犬狩りと同じ扱いではないか。- - - - -
《 リンク 》
ボクの見た戦中戦後
http://blog.goo.ne.jp/suketsune/c/50ec25a89de726ff074b8a7101a6833f
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%83%9C%E3%82%AF%E3%81%AE%E8%A6%8B%E3%81%9F%E6%88%A6%E4%B8%AD%E6%88%A6%E5%BE%8C&ei=UTF-8&fr=ush
いま明かされる戦災孤児の実像
http://urano.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/--650a.html
浮浪児になった子の証言
http://www16.plala.or.jp/senso-koji/4-furoujisyougen.html
浮浪児狩り
http://www16.plala.or.jp/senso-koji/furouji.html
- - - 本の紹介 - - -
浮浪児1945~戦争が生んだ子供たち~
http://www.shinchosha.co.jp/book/305455/