夢職で 高貴高齢者の 叫び

          

小女子

2013年12月30日 | 俺の料理

12月30日(月)

「男子厨房に入るべからず」

「男子食事のときは不味くとも黙って食べろ」

親からも先生からも、このように教わった俺は、忠実に教えを守ってきた。

要するに俺は先人の教えを守る模範的な男子なのだ。

ところが、最近は女房の留守の間に、この尊い先人の教えを破り、ときどき台所に立ってはフライパンを焦がしたり、食器を片付ける場所を間違ったりするものだから、女房を怒らせるようになった。

男子厨房に入るべからずを守ってさえいれば、トラブルなど、おこらなかったであろう。

しかし、女房が風邪をこじらせてからは、俺は台所に立つようになってしまった。

好きで立つのではない。

やむを得ずだ。

食材の買い出しも俺である。

買い物は調理より難しい。

何を買ったらよいか分からないのだ。

小松菜もホウレンソウも皆同じものに見える。

違いが分からない男なのだ。

今日は女房に「コウナゴ」を買ってくるようにと頼まれた。

小さな魚だそうだ。

俺は好物のハタハタやイカなどはすぐ分かるが、その他はパッケージの品名を見なければ分からないのだ。

スーパーで細かな魚を探した。

ちりめんじゃこ、白す干、ちりめんくぎ煮、桜えびなどと、パッケージに品名が書いてある。

しかし、「コウナゴ」はないのだ。

俺は店員に「コウナゴ」を探していることを伝えた。

彼女はパッケージを一つ取り出して俺に渡した。

見ると「小女子」と書いてある。

小さな女の子か?

俺はけげんに思いながらもレジかごに入れた。

メスだけでもないのに、なぜ小さな女の子なのか。

そしてまた、どうして「コウナゴ」と読むのか理解できないのだ。

「小男子」と書く小魚もあるのだろうか?

どうも腑に落ちない。

 

女房は外出先の俺にケイタイで「コウナゴ」と言ったのだ。

もし「小女子」と書いたメモを渡されたら、俺はスーパーで「ショウジョシ」をくださいと言うところであった。

恥ずかしや。

 

ネットで「コウナゴ」を検索してみた。

 http://gogen-allguide.com/ko/kounago.html 


米は目分量で量れない。焼酎は

2013年12月29日 | 俺の女房は- - -

昨夜のことだ。

パソコン遊びをしていた俺は、ひとまずシャットダウンした。

そして、FFストーブの電源を切った。

だが、飲みたくなったので、部屋が暖かいうちにと、ワインを楽しんだ。

さあ、寝ようとして台所を見たら、なんと驚いた。

茶碗が後片付けをしないままになっているのだ。

俺は女房と約束していたことを思い出した。

女房の体調が悪いから、台所は俺がするからと言って、先に休んでもらったことをすっかり忘れていたのだ。

しかたがない、俺はほろ酔い加減で茶碗や鍋などを洗った。

それから、米をとごうとして米櫃の蓋をあけて、また驚いた。

米櫃いっぱいに米が詰まっている。

俺の外出中に女房が入れたのだろう。

いつもなら、米の上に計量カップを置いてあるのだが、ないのだ。

たぶん、女房はカップの上に米を入れてしまったのだろう。

米櫃の中に手を入れてカップを探したが見つからない。

米櫃の中では手が自由に動かないのだ。

俺は米櫃の中に腕をぐいぐい入れてカップを探した。

米は180ccを目分量で量ることはできない。

カップはどこを探しても見つからない。

夫婦間のコミュニケーションがうまくいってないのだ。

困った。 困った。 困った。 寒くなってきた。

酔いは醒めてしまった。

 

俺は別のカップがあることを思い出した。

餅つき機専用のカップを。

 

米をといだ。 水が冷たい。 冷たい。 冷たい。

身体が冷えてきた。 

俺は温かくなることを考えた。 

そうだ、身体の中から温めよう。

お湯割りを飲もう。

俺は湯のみへ、焼酎を注いだ。

焼酎は計量カップが必要ないのだ。

目分量でOKなのだ。 

 

 


俺は餅つきをした

2013年12月27日 | 俺の料理

餅つきをしたというよりも、機械で餅を作った。

若いときは杵を振り上げて、ペッタンペッタンと臼で餅をついたが、

還暦を過ぎてからは機械に頼っている。

 

機械でこねた餅を片栗粉を敷いた餅板に移した。

 

お供えの鏡餅を作ろうとして、小皿に大小の餅を作った。

ところが、餅が皿にくっついて離れない。

 

 フライ返しで餅を剥ぎ取り、片栗粉を敷いた餅板に移した。

 

餅板の中でのし餅にした。 明日切り餅にしよう。

これで無事、正月を迎えられる。 

                                         

女房は今年も餅つきをしないで、スーパーで買おうと言うのだ。

昨年は俺がぎっくり腰で立ち上がることが困難だったから、女房は俺の世話で餅つきどころでなかった。

だから、やむを得ず、餅はスーパーで買った。

今年は女房が身体の調子が良くないから餅つきは止めると言うのだ。

どうしても、餅をつきたい俺は、女房の手助けなしにやろうとした。

今までは機械の準備だけは俺の仕事で、あとの作業は女房だったから手順が分からない。

だから、説明書をよく読んで備えた。

昨夜は、もち米をといで水に浸した。

今朝、水を切って機会に入れた。

あとは、スイッチをポンと押すだけで餅が出来上がるのだ。

だが、鏡餅を作ろうとしたらうまくいかない。

女房が口を出してきたから、俺は意地でも一人で作ると言って、女房を隣の部屋に追い出した。

俺が丸めた鏡餅は、お皿にピッタリくっついて離れないのだ。

皿にも片栗粉を敷いたはずだが、むらになっていたのか、くっついてしまった。

フライ返しで剥がしたら、形が崩れてしまった。

餅板の上で形を整えたが、鏡の上にしわが出来て、そこに片栗粉が入り込み、しわが白く目立つ。

これではひび割れ鏡餅だ。

俺はあせった。 どうすればよいのかと。

それで鏡の面を手のひらに水を付けて撫でてみた。

すると、つるつるになった。 ああよかった。 俺はほっとした。

俺は女房に相談せず、俺流のやりかたで難をきりぬけたのだ。

女房に教わらなくたって餅は作れるぞと。

なんだ。 餅つきは簡単だ。


そばうち遊び

2013年12月25日 | 俺の料理

12月25日(水)

遊びで そば打ちをした

麺台は デコラ貼りのこたつ板   粉は二人分 300グラム

 

道具も 腕も 三流

 

温かい かけそばにして 食べた

昨年は ギックリ腰で そば打ちも 餅つきもできなかった

今回は 2年ぶりの そば打ちである

まあまあの 出来具合か


戦中戦後の朝礼で  *ボクの見た戦中戦後(15)

2013年12月22日 | ボクの見た戦中戦後

戦時中、毎日の朝礼のときに宮城遥拝(きゅうじょうようはい)があった。

「宮城遥拝」と号令がかかると、講堂の斜め右前に身体を向け、キヲツケをした。

「皇居へ向かって最敬礼」で頭を深く下げるのだ。

校長先生のお話が始まる。

校長先生のお話は、何を話しているのか1年生のボクには理解できないが、「天皇陛下」という言葉がでると、「キヲツケの姿勢」をとらなければならないのだ。

キヲツケの後、また、「天皇陛下」という言葉がでれば、さらに姿勢を正さなければならない。

だからボクはほんの少し姿勢を崩して、次の「天皇陛下」に備えるよう身構えていた。

担任の先生から「兵隊さんはキヲツケのときに、顔に蜂が止まっても、身体を動かさない」と教わっていたから、ボクたちは朝礼のときに良い姿勢をとるように気を付けていたのだ。

 

戦争に負けた。  朝礼の様子が変わった。

宮城遥拝はなくなった。

「天皇陛下」という言葉も聞かなくなった。

だから、キヲツケをしようと身構えることもなくなった。

校長先生は姿勢を崩す子供を壇上から怒鳴った。

「だから日本は負けたのだ」と。

敗戦の翌年になっても校長先生は何かにつけ、子供たちを叱るときに、「だから日本は負けたのだ」を繰り返した。

子供たちも喧嘩で相手を非難するときに「だから日本は負けたのだ」と言うようになった。

校長先生は「日本は米粒みたいに小さい国」だと卑下した。

「アメリカの子供たちは自分の家の自動車を磨いて、こずかいを貰っている。それなのにお前たちは------」というのだ。

3年生のボクにはこの比喩が分からない。

ただ、ボクの家にも自動車があれば、洗車してこずかいを貰えるのにと思うだけであった。

ボクは世界で一番偉い人は天皇陛下であると信じていた。

だが、それより偉い人がいることを周りの大人たちの話から知るようになった。

マッカーサーというアメリカ人だ。

大人たちは今度は何かにつけ「マッカーサーの命令だ」「マッカーサーの命令だ」と言うようになった。

 マッカーサー元帥

 


落ち葉を見て歯医者へ

2013年12月19日 | 俺の女房は- - -

 

落ち葉を見た

「ハ」が気になった

歯医者へ行った

歯石を除去してもらった

歳とった俺は思う

歯があるうちに

美味しいものを 食べておこう

 

俺が今一番食べたいものは

イチゴだ

しかし、女房は買ってくれない

俺は女房に自然科学の講義をする

大木にしっかりと付いている葉っぱは

いつか一枚二枚と散り落ちる

人の歯も歳をとれば

一本二本と抜け落ちる

そして食べられなくなる

だから歯のあるうちに

イチゴを食べておこうと

自然科学に疎い女房は理解しようとしない

イチゴは値が高いから駄目だと言う

食べるのは

今でしょ

総入れ歯になる前に

 

 

(画像はwordクリップアートを加工)

 


浮浪児と軽蔑された戦災孤児  *ボクの見た戦中戦後(14)

2013年12月15日 | ボクの見た戦中戦後

昭和22年、ボクが小学4年生のときである。

家の前の道路で遊んでいると、見慣れない子が近寄ってきた。

ボクと同じ年ごろの子供である。

そこへ大人たちがやってきて、その子を捕まえて駅へ連れていった。

駅の宿直室に入れられ、大人たちに押さえつけられた子どもは、泣き叫びながら足をバタバタして暴れた。

大人たちは手に負えなくなったのか解放した。

すると、その子は線路伝いに南の方へ歩いていった。

その先には川があり、鉄橋がかかっている。

鉄橋を渡るのは危険だ。

大人たちの話によれば浮浪児とのことである。

村の商家へ夜中に訪ねてきたので、泊まらせたとのことだが、朝になったら、いなくなったので探していたとのことだ。

昭和25年の頃の新聞に、浮浪児が五重塔の二階へ竹竿を掛けて登っていく写真が掲載されたのを見た。

上野の五重塔をねぐらにしている浮浪児との記事であった。

この五重塔は現在、動物園の敷地内にあるが、当時は動物園の外にあった。

少年雑誌には浮浪児たちが大人に雇われて靴磨きをしたり、盗みを働かされている小説が載っていた。

また、ラジオでは浮浪児を扱った連続放送劇、「鐘の鳴る丘」が放送されていた。

だから、ボクは浮浪児について、少しは理解していた。

昭和25年の頃、ボクは父と一緒に秋田から夜行列車で上野駅へ行った。

駅の地下道には、戦災で家を失ったと思われる人々であふれていた。

地下道に寝ているのだ。

東京の街の中で浮浪児たちにも出会った。

ボクは函館で空襲に遭っていたから、あの戦争で、もしかしたらボクも浮浪児になっていたのかもしれないと、不安な気持ちになっていた。

あの子たちは、その後どうなったのだろうかと思う時がある。

最近、ボクは浮浪児たちの実態をネットで検索をしてショックを受けた。

*当時9歳の女の子の証言によれば、浮浪児狩りでトラックに載せられ、遠い山奥へゴミのように捨てられたというのだ。

米軍機の空襲(空爆)で家を焼かれ、親きょうだいと死に別れ、そしてまた、日本国からゴミ扱いにされて捨てられたのだ。

*バラ線で囲まれた収容所に連れて行かれた浮浪児が見たものは、廊下に放置された子供たちの遺体であった。

いつか自分もこうなる運命と悟り、脱走して生き延びたという。

*施設に収容されて、殴る蹴るの暴行をうけ、海底から遺骨を引き揚げる作業をさせられるなど、酷い生活を強いられた浮浪児たち。

*親戚に引き取られても、学校へ通わせてもらえず、労作業をさせられたり、心理的虐待を受けたりして、逃げ出す子供たちもいた。

 

戦災で親を亡くし、幼いながらも必死で生きようとしている子供たちを、

世間は浮浪児という蔑視的な名でよんでいた。

- - - - -  幼い命を救うことに努力をしないで - - - - -

 

施設に収容するのは保護ではなく、「狩りこみ」とか「浮浪児狩り」と呼ばれた。

 - - - - - 野犬狩りと同じ扱いではないか。- - - - -

 

《 リンク 》

ボクの見た戦中戦後

http://blog.goo.ne.jp/suketsune/c/50ec25a89de726ff074b8a7101a6833f

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%83%9C%E3%82%AF%E3%81%AE%E8%A6%8B%E3%81%9F%E6%88%A6%E4%B8%AD%E6%88%A6%E5%BE%8C&ei=UTF-8&fr=ush


いま明かされる戦災孤児の実像

http://urano.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/--650a.html

浮浪児になった子の証言

http://www16.plala.or.jp/senso-koji/4-furoujisyougen.html

浮浪児狩り

http://www16.plala.or.jp/senso-koji/furouji.html

- - -  本の紹介 - - -

浮浪児1945~戦争が生んだ子供たち~

http://www.shinchosha.co.jp/book/305455/



 


女房のおつかいでスーパーへ

2013年12月11日 | 俺の女房は- - -

 

女房が風邪で買い物に行けなくなったから、食材が不足してきた。

女房に頼まれて、スーパーへ買い物に行った。

シメジは一種類しか無かったから、値段を比べることなく買うことが出来た。

みかんは何とか屋の400円ぐらいのものと言われたから、迷わず買えた。

ネギは迷った。1把100円、120円、190円と値段がばらつく。

120円のが太くて美味そうな感じがしたのでそれにした。

小松菜は1把128円と258円のがある。

2倍も値段に開きがあるのだ。

安い方は丈が大きくテープで束ねただけだが、高い方は丈は小さいが葉が柔らかそうで透明な袋に入れてあるのだ。

どれにしようかと悩んだあげく、俺は病人のためと思い、高い258円の方を買った。

ついでに、メモになかったものを1本買った。

赤玉スイートワインだ。 一升瓶で1,488円也。

家へ帰った。

女房はワインを見逃してくれたが、258円もする小松菜を2把も買ってきたと、あきれているのだ。

俺は病人の為にと良い食材を選んだのに、文句を言うのだ。

女房が言うには、高いだけでなく、葉っぱが枯れているというのだ。

念のため、袋から野菜を取り出してみたら傷みがひどい。(写真)

袋の正面には緑の野菜が入っていたが、中の方にはクズが入っていたのだ。

俺は袋の中味には気が付かなかった。

見ていたのは食材の正面と、女房の書いたメモだけだったから。

 

 


女房は風邪 炊事は俺

2013年12月10日 | 俺の女房は- - -

滅多に病気しない女房が風邪をひいた。

8時になっても起きて来ないので、俺はやむをえず、朝食の準備をした。

まず、鍋に水を入れてガスにかけた。

そして冷蔵庫の中をのぞいて、味噌汁に入れる食材を探した。

先にシメジを入れてから、人参を千切りにし、白菜をザクザク切って鍋に入れた。

粉末のダシと味噌を入れた。

   (材料を入れる順序はこれでいいのかなあ?)

女房は毎朝のように厚焼き玉子を作っているのだが、俺は面倒だから味噌汁の中に卵を二つ入れた。

具をたくさん入れたから、いつもの汁椀に入らない。

おかわりするのも面倒だから、うどん用のどんぶりにドサッとよそった。

あとは納豆を出せばよいのだ。

女房を起して一緒に食事をした。

女房は「ありがとうございます」と、俺にていねいに礼を言って食べ始めた。

そして、お礼にと言って人参を箸でつまんで俺のどんぶりに移した。

俺は「お返しです」と言って、貰った人参を半分、女房へ返してやった。

俺は人参が大好きだが、女房は大嫌いなのだ。

女房の風邪は五日たっても治らない。

朝の寒い時間に俺が食事を作り、部屋が暖まってから女房は起きてくるのだ。

そして、どんぶりの味噌汁を食べるのだ。  人参を避けて。

   (人参を食べれば、早く治るのになあ)

 


爆撃から奉安殿を守るこどもたち  *ボクの見た戦中戦後(13)

2013年12月08日 | ボクの見た戦中戦後

校門を入ると左手にコンクリートの小さな建物があった。

奉安殿というもので、天皇・皇后の写真と教育勅語の巻物が収められてあった。

登校時と下校時には最敬礼をするしきたりだった。

校庭の端の方にはクラスごとの防空壕があった。

防空壕といっても、ただ長方形の穴が掘られてあるだけであり、敵機からは丸見えである。

 

学校で空襲(空爆)に備えての避難訓練が行われたときのことである。

空襲を知らせる半鐘が連打されたので、ボクたちは防空頭巾をかぶり、防空壕へ飛び込んだ。

少したってから、ボクは防空壕から外の様子を覗いてみた。

すると、数人の上級生が避難せずに奉安殿を取り囲んでいるのだ。

6年生の姉は、あの子たちは敵の爆弾や銃弾から、奉安殿を身をもって守る特別な生徒であるとのことだ。

初等科6年生と高等科1・2年生(現在の小学6年生と中学1・2年生)の中から成績優秀な者が選ばれているという。

名誉な役目なので、学級の子供たちから羨ましがられているとのことだ。

 

天皇・皇后の写真は御真影と呼ばれていた。御真影は教育勅語の巻物と共に、学校では最も大切な物とされていた。

あの戦争当時、子供たちは御真影を守るために、敵機が飛ぶさなか、避難せずに命を犠牲にしてまで、奉安殿を取り囲んで守れと教育されていたのか。

 今日は12月8日か。真珠湾奇襲の日!! 

奉安殿の写真
http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E5%A5%89%E5%AE%89%E6%AE%BF

 


那須動物王国

2013年12月04日 | 日記

 

那須の動物王国へ行った。

飼育員がインコを女房の腕に止まらせた。

インコはコンニチハとあいさつをした。

インコの種類は聞いたが忘れてしまった。

 

珍しい大型の鳥を見た。

ハシビロコウだ。

ほとんど動かない。

 

ペンギンが鳴いた。牛の鳴き声に似ていた。

 

ヨチヨチ歩くペリカン。

 

羽を広げて駆けだすフラミンゴ

 

動物王国には動物の王様といわれるライオンはいない。

キリンやカバなどの大型の動物もいない。

小動物の王国だ。

犬や猫などにも触れ合うことのできる動物園だ。

 


フライパンでホイル焼き

2013年12月02日 | 俺の料理

 

男の料理教室で学んだ料理を作った。

ホイル焼きだ。

材料は塩胡椒で味付けしたサケ、タマネギ、シメジ、ニンジン、ピーマンなどだ。

これらをアルミホイルに並べて酒をふりかけ、バターを加えて包んだ。

そしてフライパンで弱火で15分間、蒸し焼きにした。

皿に移してホイルを開いてみた。

美味しい香りがする。

レモンを添え醤油を少々たらして完成。

食べてみた。 すごく美味しい。 

野菜をもっと入れた方が良かったようだ。

まあまあの出来に俺は満足。

ふろふき大根のように失敗せずに済んだ。

 

   女房は俺の真似をしてホイル焼きを作った。

   ところが、良い香りもしないし、味も不味い。

   俺は原因を調べた。 ⇒⇒⇒ 分かった。

   俺が作ったホイル焼きを見て真似をしたのだが

   サケや野菜は目に見えても、調味料は見えていない。

   だから、調味料を忘れたのだ。

   50年も台所に立っているのに。   

   女房はサケに塩胡椒をしなかったのだ。

      バターも入れなかったのだ。

   酒を入れるのも忘れていたのだ。

   大匙に一つ分の酒を。

   主婦50年生なのになあ。