水煙俳句叢書その2

水煙発行所

臼井愛代句集「花の昼」の跋/高橋正子

2009-03-22 18:21:11 | Weblog

高橋正子

 私にある愛代さんの印象は、「菜の花」のやわらかなイメージである。愛代さんが「インターネット俳句センター」という俳句雑誌水煙のホームページの中の私の俳句添削教室へ初めて投句してくれた句が菜の花の句で記憶に残っている。春の入会後、秋の小諸と東京深川、二か所での水煙大会に初めてお会いしたときは、投句の印象と変わらず、大らかでやさしく礼儀正しい方であった。その印象はそれからも変わっていない。
 小諸の水煙大会を思い出すが、一人川崎から小諸まで来られた。大会前に、小諸を歩いて、「詩碑に立てば千曲の水の音冴ゆる」の句を作っておられた。これが当日の注目の句となったのは、偶然とは言えない。水煙大会に出席する心掛け、大会の始まる前に、すでに小諸を散策し、句を得ておられたこと。これは、力のいることである。その夜の懇親会では、初めて出席の方は歌を歌うのが決まりという、我々の冗談を素直に受け入れて、あの難しい「初恋」を、ビロードのような声で披露してくださった。そのときから五年が経つが、五年間の句がここに句集「花の昼」としてまとめられ、著者五十歳の記念となるのも、大変意義深く、うれしい。
 愛代さんは、長崎佐世保の医家のご出身で、中学高校をカソリック系の学校で過ごされ、上智大学でポルトガル語を学ばれた。結婚されたのは、浄土真宗のお寺の僧侶でかつ石油会社に勤務されている同級生のご主人であるから、異色の経歴の持ち主と言えよう。そしてわれわれが、子規、虚子などを生んだ松山から、今の住まいの横浜に移って来るまでの三年間は、インターネットを通して主に俳句を学んできたということ。これは、伝統的な俳句にとって、あたらしい出来事である。生家があるのは農村地帯と窺ったが、今の多くの人にみられるように、自然に取り囲まれていながらも、自然に触れる時間は少ない。上京して都会で生活すれば、なおさらのこと。俳句がなくても充分幸せな生活を送りながら、俳句への関心を深められたのは、何であろうかと、私はときどき思う。
 愛代さんは、コンピューターがよく出来る。水煙のホームページの更新をお願いしたり、オンライン句会を手伝っていただいたり。コンピューターリテラシーと言おうか、そういったことが達者なことは、インターネットを通して俳句を学ぶのに大いに楽しいことではあろう。だが、だからよい俳句が出来るわけではない。ある日、「なぜ俳句を」、と聞いたことがある。「詩などが好きだから」という返事であった。愛代さんは、都会的な方と言っていい。今日本人の半分以上が都会で暮らしている統計がある。そういう現況で、愛代さんのような自然に触れる機会の少ない都会生活から俳句の道を進まれる若い方もこれからは、多くなるのだろうと想像できる。「その時俳句は」となにがしかの危惧をもたないわけではないが、それを克服して「なお俳句を」が愛代俳句である。都会生活から生まれた軽くて明るい、そして深くを求める俳句である。
 「よい生活からよい俳句が生まれる」「嘱目」を水煙は眼目にしているが、そのことは、一方で、インターネット俳句の俳句たる面目を保つに役立っている。よい生活は現実あっての生活で、共に吟行したり、オフ句会を一緒したりで、自然の見方、ものへの触れ方など、伝統的俳句の妙味も身につけてこられた。
 ここ二年間ほどは、愛代さんに水煙の仕事を特にいろいろお願いするようになった。仕事を頼んでも「ノー」という返事をもらったことがない。却って、頼んで大丈夫かな、と思うときさえある。そして、忍耐強さを通り越して大らかである。この人を恃んで、水煙終刊にともない、平成二十一年一月創刊の私が主宰する俳句雑誌「花冠」の編集長になっていただいた。長く俳句を継続されて、大きく完成されることを望みたい。

  メトロ降り春浅き東京を歩く

 「メトロ」の語が軽く、春の浅さ、都会の都会である東京の淡さ、軽さを示してくれて、都会をよく詠んでいる。

  春ショールふわりと巻いて助手席に

 「春ショール」には、やさしさと若やぎがある。ご主人の運転だろうが、助手席に乗って、ドライブが始まる。明るく落着いた都会の生活である。

    川崎・梶ヶ谷
  吾が街に今日立冬の空の青

 今ここの吾が街の空。立冬を迎えて、深く青く澄み渡っている。冬が来た特別な日の空が、「吾が街」のもの、私のものとして、しっかり捉えられた、大きくどっしりとした句である。

  春月を仰いで銀座四丁目

 銀座四丁目は、ちょうど銀座の真ん中。おそらく鳩居堂での書展のお手伝いが終わり、画廊を出て、ほっとして仰いだ春の月なのであろう。銀座の春の月がふっくらと麗しい。

  葉桜が空と触れ合う丘のうえ

 「丘のうえ」とやわらかに止められた下五。春は桜があふれるばかりに咲いたであろう丘のうえに、今、葉桜は、青い空に混淆するように茂るのも、やわらかである。

  横浜に汽笛の曳ける花の昼

 横浜の港には、時折汽笛が響く。桜が咲く昼に、「ボーッ」と曳き鳴る汽笛に、長閑な、横浜らしい花の昼がある。「曳ける」が的確で、この句を生かしている。

  詩碑に立てば千曲の水の音冴ゆる

 千曲川の水音が冴えて聞こえる。詩碑は、いうまでもなく藤村の「千曲川旅情の歌」の詩碑である。その詩の内容を胸に、眼下を見ておれば、川の水音がはっきりと聞こえる。「音」を「冴ゆ」と感じたのは、山国ゆえであろう。

  冬の虹長き時間を空に在り

 美しく、はかないものとしての虹であるが、灰色の冬空に架かる虹は、筆者には、「長き時間」と感じられるほど、空に在った。自然の意の不思議さが読める。
花冷えの触れみてしんと旅鞄
 旅鞄に触れて知る花冷え。花冷えに置かれた旅鞄の重み。その重さは「しんと」に表されている。楽しい旅というより、しっかりとした旅なのだ。花冷えを心にもしんと受け止めるような。

  秋の水足して佛花の朝とせり

 佛様のお世話に花を活け、水を替えることがある。澄んで冷たい秋の水を足して、佛様に秋冷のすがすがしい朝がはじまる。「佛花の朝とせり」は、日常的に佛様のお世話をしていることから生まれた言葉。

  井戸水にいろいろ冷やし盆の家

 帰省した子や孫たちで大勢になる盆の家は、大きな西瓜や桃などいろいろと井戸水で冷やしている。夏の井戸水は冷たくて、故郷の家に帰ったことをしみじみ感じさせてくれるもの。盆の家がいい。

  糸蜻蛉明るい青を水辺まで

 水辺に見つけた糸蜻蛉のメタリックな明るい青色が作者には、衝撃的といっていいほどだったのだろう。明るい青が輝いている。