感動しない映画の不思議
先日の日曜日、家族の者は家にあるDVD「硫黄島からの手紙」を見た。私は一度見たが、実はまったく感動しなかった。これをもう一度見るなどということはするつもりはない。
私は岡野先生のブログへ行き、1時間半位“唯識”のあたりを読んで疲れて満足した。
それで、どうも外国人ばかりがこの映画を特別扱いに、過大評価しているように思えるのだが。。。そう思うだけで他の人間の感想は聞いていない。
ただ、あらかじめ言っておくと、感動しないからといって、悪いと言っているわけではない。感動する人がいればそれでいいと思う。しかし、いいとか悪いという意味とはまた違う。
そして、その日からどうしてこの映画に感動しないのだろうか、考え続けてきた。考えたことをまとめるだけで、結論も何もないが。
まず、見たときは、その映画の中にうまく入れない自分を感じた。ドキュメンタリー風に見る分にはちょうどいいかという感じだ。観察する目で見ている。
ファシズム下の日本の様子も、なんとなくシラーっとした感じで見てしまう。
“こんなもんじゃなかったろう。”という強い反発がどこかに生まれてくる。
戦時下で、犬一匹殺される位は、どうということもないだろうに。何万人も殺されたユダヤ人、アウシュビッツはどうするんだ。犬が一匹でどうしたというんだ、馬鹿馬鹿しいと。憲兵をしていた彼も、その程度のことで、ナイーブになっては殺し合いなんかできるわけがない。
では、汚い世界を描ききっていないということか?
うーん。そうでもない。軍隊の中の対立も描いていた。上司と部下の対立も、食料がなくなり、ミミズを探してくるところまで描いた。
が、なんだか、しらーっとしてしまう。
こんなもんじゃないだろうと、、、戦争は。。。
南京虐殺の本を読んだことがある。もっと悲惨だ。悲惨どころじゃない。
日本人が、中国人を殺した事実だ。どう殺したか伝えようとした作家達。
石川達三「生きている兵隊」と火野葦平「麦と兵隊」を読んだが、それぞれの作家の立場は違っても、やはり何をしたかという内容は戦争というものの事実を伝えている。
栗林閣下の家の良さと思い出が、平民からは現実離れした感じがあるが、閣下ともなる人たちは、あの位のステータスで経験を持っているのは、当然だろうが、どうも美を作りだすというか、美を創作することに苦心したように、今思う。
そして、サンフランシスコオリンピックの乗馬のメダリストだという彼は、敵負傷兵を中に入れて、看護するように言いつけるが、なんだか不自然な感じがする。たった一人を助けてどうするんだろ?他の敵兵はみんなほったらかしにし、偶然あの一人を助けたか?
敵兵でも、負傷兵に対しての扱いは立派だったと言いたいのか。個人の経験によって思い入れで、待遇が変わっただけなのか。自分達に全く余裕がないのに、その一人を助けるのシーンを作って見せる意味は?
なんだか、あれも、これもと、こんな感じでしっくりしない映画なのだ。
悪いとは言わない。悪いとは言うつもりはない。
アメリカびいきにも、日本びいきにもならず、戦争とは、“この硫黄島での戦争とはどんなものだったのか”を再現するのが目的だったとしても、どうも、ピンとこない映画なのだ。
要するに、現実は、こんなもんじゃないんだよ、という気持ちなんだと思う。
映画は、創作だが、意図があるものだが。。。
美しく作ろうとしたのではないか、武士道を意識しすぎて、自然に出そうとする創作が、甘い作りになったのではないか、と。
平等に描こうとすると、ドキュメンタリー風というか、語り調になりすぎて、結局どの人物にも自己投入するには至らない欠点があると思う。
そして、より私が困惑するのが、外国人である夫が、この映画に異常な過大評価をするあまり、これに感動できない私を見て「君は、いい映画もわからないのかあ。」と。この一言で話す気にもならない。
私はもちろん(甘いなあ。この程度で感動する日本人の顔見てみたいね。)と言いたいところだ。
一度本人とは議論したので、二度不愉快な思いはする必要はなく、岡野先生のところで唯識を勉強した方が時間の無駄にならないと、かなり読んだ。
クリント・イーストウッドは好きな役者で監督だが、最近のでは、あのトロントじゃないし、例の“グラントリノ”という映画は好きだ。中国人が隣に引っ越してきて、うっと思うが、事が起きて、嫌なヤツとも付き合わざるをえない。そしてようやく交流が始まり、中国文化を知っていくことになる。最後は、私には感動の“アメリカン、カウボーイ魂”がある。殺させて、やり返すという結果となる。自分も無駄に死なず、一石二鳥かと感じた。単純で納得しやすい。
先日の日曜日、家族の者は家にあるDVD「硫黄島からの手紙」を見た。私は一度見たが、実はまったく感動しなかった。これをもう一度見るなどということはするつもりはない。
私は岡野先生のブログへ行き、1時間半位“唯識”のあたりを読んで疲れて満足した。
それで、どうも外国人ばかりがこの映画を特別扱いに、過大評価しているように思えるのだが。。。そう思うだけで他の人間の感想は聞いていない。
ただ、あらかじめ言っておくと、感動しないからといって、悪いと言っているわけではない。感動する人がいればそれでいいと思う。しかし、いいとか悪いという意味とはまた違う。
そして、その日からどうしてこの映画に感動しないのだろうか、考え続けてきた。考えたことをまとめるだけで、結論も何もないが。
まず、見たときは、その映画の中にうまく入れない自分を感じた。ドキュメンタリー風に見る分にはちょうどいいかという感じだ。観察する目で見ている。
ファシズム下の日本の様子も、なんとなくシラーっとした感じで見てしまう。
“こんなもんじゃなかったろう。”という強い反発がどこかに生まれてくる。
戦時下で、犬一匹殺される位は、どうということもないだろうに。何万人も殺されたユダヤ人、アウシュビッツはどうするんだ。犬が一匹でどうしたというんだ、馬鹿馬鹿しいと。憲兵をしていた彼も、その程度のことで、ナイーブになっては殺し合いなんかできるわけがない。
では、汚い世界を描ききっていないということか?
うーん。そうでもない。軍隊の中の対立も描いていた。上司と部下の対立も、食料がなくなり、ミミズを探してくるところまで描いた。
が、なんだか、しらーっとしてしまう。
こんなもんじゃないだろうと、、、戦争は。。。
南京虐殺の本を読んだことがある。もっと悲惨だ。悲惨どころじゃない。
日本人が、中国人を殺した事実だ。どう殺したか伝えようとした作家達。
石川達三「生きている兵隊」と火野葦平「麦と兵隊」を読んだが、それぞれの作家の立場は違っても、やはり何をしたかという内容は戦争というものの事実を伝えている。
栗林閣下の家の良さと思い出が、平民からは現実離れした感じがあるが、閣下ともなる人たちは、あの位のステータスで経験を持っているのは、当然だろうが、どうも美を作りだすというか、美を創作することに苦心したように、今思う。
そして、サンフランシスコオリンピックの乗馬のメダリストだという彼は、敵負傷兵を中に入れて、看護するように言いつけるが、なんだか不自然な感じがする。たった一人を助けてどうするんだろ?他の敵兵はみんなほったらかしにし、偶然あの一人を助けたか?
敵兵でも、負傷兵に対しての扱いは立派だったと言いたいのか。個人の経験によって思い入れで、待遇が変わっただけなのか。自分達に全く余裕がないのに、その一人を助けるのシーンを作って見せる意味は?
なんだか、あれも、これもと、こんな感じでしっくりしない映画なのだ。
悪いとは言わない。悪いとは言うつもりはない。
アメリカびいきにも、日本びいきにもならず、戦争とは、“この硫黄島での戦争とはどんなものだったのか”を再現するのが目的だったとしても、どうも、ピンとこない映画なのだ。
要するに、現実は、こんなもんじゃないんだよ、という気持ちなんだと思う。
映画は、創作だが、意図があるものだが。。。
美しく作ろうとしたのではないか、武士道を意識しすぎて、自然に出そうとする創作が、甘い作りになったのではないか、と。
平等に描こうとすると、ドキュメンタリー風というか、語り調になりすぎて、結局どの人物にも自己投入するには至らない欠点があると思う。
そして、より私が困惑するのが、外国人である夫が、この映画に異常な過大評価をするあまり、これに感動できない私を見て「君は、いい映画もわからないのかあ。」と。この一言で話す気にもならない。
私はもちろん(甘いなあ。この程度で感動する日本人の顔見てみたいね。)と言いたいところだ。
一度本人とは議論したので、二度不愉快な思いはする必要はなく、岡野先生のところで唯識を勉強した方が時間の無駄にならないと、かなり読んだ。
クリント・イーストウッドは好きな役者で監督だが、最近のでは、あのトロントじゃないし、例の“グラントリノ”という映画は好きだ。中国人が隣に引っ越してきて、うっと思うが、事が起きて、嫌なヤツとも付き合わざるをえない。そしてようやく交流が始まり、中国文化を知っていくことになる。最後は、私には感動の“アメリカン、カウボーイ魂”がある。殺させて、やり返すという結果となる。自分も無駄に死なず、一石二鳥かと感じた。単純で納得しやすい。









