バルカン半島に嫁いだ女の日記

「幸せ」という字には「辛い」という字が隠れている。
 バルカン半島より喜怒哀楽の心模様を伝えたい。

スティング

2009年10月16日 | 日記
今日はスティングの歌が胸に響きます。


Sting

It's Probably Me


If the night turned cold and the stars looked down
And you hug yourself on the cold cold ground
You wake the morning in a stranger's coat
No one would you see
You ask yourself who'd watch for me
My only friend who could it be
I hate to say it
I hate to say it but it's probably me

When you belly's empty and the hunger's so real
And you're too proud to beg and too dumb to steal
You search the city for your only friend
No one would you see
You ask yourself, who could it be
A solitary voice to speak out and set you free
I hate to say it
I hate to say it, but it's probably me

You're not the easiest person I ever got to know
And it's hard for us both to let our feelings show
Some would say I should let you go your way
You'll only make me cry
If there's one guy, just one guy
Who'd lay down his life for you and die
I hate to say it
I hate to say it, but it's probably me

When the world's gone crazy and it makes no sense
There's only one voice that comes to your defence
The jury's out and your eyes search the room
And one friendly face is all you need to see
If there's one guy, just one guy
Who'd lay down his life for you and die
It's hard to say it
I hate to say it, but it's probably me
I hate to say it
I hate to say it, but it's probably me
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久しぶりの雑誌

2009年10月16日 | 日記
久しぶりの雑誌

 先日、日本へ合宿に行ってきたという空手クラブの人に、日本からのお土産です、と頂いたのが、朝日新聞と銀座の食べ歩き風の雑誌。
 “私、新聞の広告が大好きなんです。今、何が売れていて、どんな新しいものが出ていて。世の中を感じられるから面白いんですよね。”と、大喜びして帰った。

 それから、2週間後、別の60歳以上の空手の部員の方が、一人で合宿に出かけて帰ってきた。またしても、親切にお土産を持ってきてくれた。日本経済新聞と、読売新聞。そして、真新しい日系ウーマンに、婦人公論を頂いた。

 婦人公論なんて、買ったことがなかったのに、婦人公論の読者対象になったんだなあと、複雑な気分の感動。婦人公論なんて、オバサンが読むものだと思っていたが、今そのオバサンになった。よく考えてみると、私はやっぱり、かなり変わっているかもしれない。トレンド、ファッション等、殆どのことがどうでもいい。ずぼらで、怠け者ではいけないから、やることはやらないといけないが、ようやくやっている。

 
 雑誌の中で一番好きなのは、優れていると思っているのは、何を隠そう「サライ」である。これが一番読みどころがあって面白い。これはシニア向けなのだが、人間が紹介されているから面白いのだ。シニア雑誌だけれど、若者にもっと宣伝すべきだと思う。人間を知るには「サライ」と宣伝すればいい。それでも、もうここ数年買っていないが。


 新聞のトップニュースは10月12日、岡田外相、アフガン訪問がどちらも一面。日経は、ベイブレードのゲーム機について書いているが、既についていけない。読売新聞は他に一面トップが、ロサンゼルスのウィンドファームの風車5000其の記事と、なんだか久しぶりの新聞で嬉しい。

 日経ウーマンは、もうビジネスウーマンではないから、あまり興味がある記事はなかった。正直殆ど興味がない。女性紙なので、一角の男性陣がインタビューされていたが、全然興味のある男、興味の持てそうな男、実は女もいなかった。顔がみんな自分のことしか考えていないタイプの人間ばかりだ。見ればすぐに分かる。顔に出ているつまらなさ。頭の回転はいいし、器用で、人間関係もこなせる。が、行動の行動のすべてが、全部自分のためだけのように見える。ビジネス系の人間にはこの種のつまらない人間が多くてかなわない。そして、見事にみんな中性化しているなあと思った。


 さて、婦人公論。ここでは、佐藤愛子さん(作家)86歳のエッセイが感慨深かった。もう一つは、今話題らしい「国家の品格」の著者、数学者の藤原正彦氏と、俳優の渡辺謙さんの対談が目を引いた。

 二人の対談は、「沈まぬ太陽」という山崎豊子さんの映画を元に、日本について語り合い、話が弾んでいる。武士道に話が及び、言葉が交わされる。この中で渡辺謙の映画の中の主人公について「僻地への左遷を繰り返すのに、なぜ会社にしがみつき続けるのか、正直なところ、僕には理解できなかった。でも、実際にアフリカの大地で涸れの足跡を辿って、彼が見たであろう風景を目の当たりにしたら、見えてきたというか。人間社会の苦悩や葛藤がちっぽけに思えてきて、、、。」と言う部分が、よく分かるような気がした。そんな気持ちになる時がくる人はいいものだ。許せる。そして、変われる。

 対談の数学者、藤原正彦は、新田次郎と、藤原ていの次男だと書いてある。新田次郎といえば「八甲田山死の彷徨」を書いた人だ。我が家のカレンダーの1月はなんと八甲田山だ。冬の八甲田山の木が雪で真っ白になり、人間が雪の中で突っ立ったまま凍死しているように見えるのだ。ますます興味が募り、本を買うことに決める。

 最近は、戦争や男よりも、女に興味が募っていることに気づく。

 あまりにも女という女にうんざりし、がっかりし、次回は女と接触の少ない職業につくこと、とまで思ってしまう。悪い経験が増えていくと、初めから女に期待しなくなり、その間にもまたチラリチラリと失望することが起こり、そうやって歩いてくると、期待もだんだんしなくなるのだ。その上、自分自身がその女であるというところに疲れを感じながら歩かなければならない。ところが、そういう心境のところに、本物に出会うと当然喜びはひとしおである。

 和服姿の佐藤愛子さんの、美しい86歳の姿を見ることができて良かった。
 エッセイは“人生の終盤、欲望も情念も涸れゆくままに”というもの。出されたテーマは、“欲望との付き合いかたとは”というものだったようだ。内容は、前回の日記に簡単に書いたとおり。

 佐藤愛子さんの経歴を見てまた驚いた。苦労に苦労を重ねてきておられる人生だ。雑誌に出ている写真の彼女は美しい。迷いのないあたたかい顔で、本物の美しさが感じられる。私は佐藤愛子さんファンとなります!

 持ってきてくれた空手クラブの彼に、再度感謝だ。
 すごく嬉しいです。 ありがとうございました。




 
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昨年の夏の思い出

2009年10月15日 | 日記
昨年の夏の思い出


 帰国した時に、妻籠の山の上の寺の前にあった立て札。


 「何不足 人は裸で 生れたに」




 雑誌という雑誌にはしばらくお目にかかっていない。

 お土産に頂いた雑誌、婦人公論に作家佐藤愛子さん、86歳が、「欲望が涸れていくということは、らくになることなのだ。それと一緒に恨みつらみも嫉妬も心配も見栄も負けん気も、もろもろの情念が涸れていく」と書いておられた。

 好きだった牛肉も、おいしいとは感じなくなり、家族の者に”たまにはおいしいものを食べにいこう”といわれても、おいしいものは大根の味噌汁と、たきたてのホカホカご飯だという。

 ある人が「それではあんまり寂しすぎるわ」といったそうだ。

 それに対し「寂しい?当たり前のことだ。人生は寂しいものと決まっている。寂しくない方がおかしいのである。」

 と結んでおられた。


 写真のほんのりとした柔らかな微笑みを浮かべ、きっぱりとしたことを仰るこの佐藤愛子さんの作品をなぜ、私は一冊も読んでいないんだ!と自分に腹がたつ。

 これから読む。


 このページをお母さんにコピーして送ることにした。


 
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「環境がわかる50話」を読んで

2009年10月14日 | 読書感想
「環境がわかる50話」を読んで


 この本は、岩波ジュニア新書で大阪大学理学部卒業、リサイクル工学が専門の森住明弘氏によるものです。

 前回に引き続き、環境関連の本ですが、これは誰もが生活の中で出会うもの、空き缶、ゴミ、家庭排水、てんぷら油、エイズ、トイレットペーパーなどなど、家庭の主婦にぴったりの話題と、迷わず手にとり、図書館からの帰りの電車でかなり読みました。

 まず、一番感動したのは、牛乳パック回収運動をした故平井初美さんを訪ね、考え方を改めたところをまっすぐにお話している点でした。

 「“牛乳パックを回収して森林を守ろう”という主張を聞いたとき、学者は、いっている人の思いやおかれている状況を捨象して、理屈上成り立つか、効果があるかという観点で評価します。それで私は最初つまらなく思ったのです。しかし、彼女はそのことだけを訴えているのではなく、牛乳パックを教材にしながら、出会った様々な人を紹介し、その人との思いを共有できた喜びを語っていたのです。コンパネでは、市民の生活と離れたところで使われているので、共有できる経験をあまり語れません。紙をすく道具をともに探し、つくる、できたはがきを人に出す、使用した後のの排水のゆくえに関心をもつ、それを手がかりに家の排水のゆくえをふりかえる、そんなことを語り合う世界では、コンパネよりも量的効果が少ないという矛盾は、大きく映らないのです。
 学者は、生活のごく一部しか見ていないのに、全体を見ていると錯覚しやすいのです。」

 ここで、私はほぼ自分自身が学者だろうに、自己の非を認めて、その効果、運動を認めるというところがいいなあと。
 これが冒頭で言っている「こだわるものと上流・下流に旅しよう」というフィールドワークを重要視する著者の言葉です。

 もう一つは、「15.ラップ」のところで、いたく感動した一言がありました。主婦にラップの材質をたずねると、まずわからないそうです。残念ながら私の場合は、そのとおり。私もわかりません。
 科学物質は理科の知識を使わないとわからないこと、商品名は知っていても、その正体(材料)は知らない人が多いこと、これが多少わからないと、環境汚染物質が何であるかわかりようがないこと、生物に何が悪影響を及ぼすかわからないことが語られていて、ジーーンときました。深い反省。

 「これらのこわさを、膚で感じられるようになるには、ものを、分子、原子レベルでとらえようとする姿勢が必要です。」と、エチレンの化学式、ポリエチレン、そして塩化ビニリデン、ポリ塩化ビニリデンで説明してくれています。使い捨てられて、焼却炉で燃やされるとどのように塩化水素などの有毒ガス、ごく微量でもダイオキシンなどの猛毒物質が発生するかを教えてくれています。今ではポリエチレン製のラップは買う人が少ないので、置いていない店も多いということでした。

 この章での駄目押しの感動は次の言葉:
 「習った知識は日常生活で使って、記憶に残り、知恵に転化します。そうしない人が多いので、環境に悪い製品が売れてしまうのです。しかし、知ったからすぐにポリエチレン製に切り替える気になるかというと、そう単純ではないようで‥‥便利さは悪魔的な魅力をもち、知恵への転化をはばんでしまいます。」

 そして、「23.飲み水」についての章も面白い。
 「浄水器の値段が高いとよい水が出ると錯覚するのは、電気分解の知識が眠ったままになっているからです。水道水を電気分解すると、酸性の水とアルカリ性の水に分かれます。前者は美容によい、後者はからだによいと宣伝すると、それにひかれて買う人がけっこういるので、‥‥市民は酸性・アルカリ性の定義をよく知らぬまま、酸性に対しては否定的、アルカリ性には肯定的な評価をする場合が多いのです。」 と続き、この本を図書館に返さなくてはいけないのが、残念。この二つの部分は、コピーをして、勉強しなおそうと思います。思うだけはいつもいいことを思うが。。。

 最後の感動は、“見る”学問から、“する”学問へと、若者達にメッセージを送っています。
 「“見る”学問で身につけた知識を、地域でどう使えば矛盾を解消できるかという知恵は、参加する中で体得できるもので、外から見て矛盾を指摘するだけでえられるものではありません。」と。

 著者は、東京大学の村上陽一郎先生は主体と対象が分離しない“一人称で語る科学”をつくろうとしていることや、竜谷大学、中村尚司先生の「地域自立の経済学」の紹介をしていた。倫理、社会、経済、エコロジーの四点を頂点とする四面体の一点に地域で生活する自分をおいて、“みる”学問を活かし、それを実際に地域に還元させていく“する”学問をしていくということ。そして、自分自身を是正していく能力をもつことと、感動の連続でした。

 1941年生まれの先生だ。頑張れ森住先生という気分と、やっぱり、ありがとうございました。
 

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感動しない映画の不思議

2009年10月14日 | 日記
感動しない映画の不思議



 先日の日曜日、家族の者は家にあるDVD「硫黄島からの手紙」を見た。私は一度見たが、実はまったく感動しなかった。これをもう一度見るなどということはするつもりはない。

 私は岡野先生のブログへ行き、1時間半位“唯識”のあたりを読んで疲れて満足した。
 
 それで、どうも外国人ばかりがこの映画を特別扱いに、過大評価しているように思えるのだが。。。そう思うだけで他の人間の感想は聞いていない。

 ただ、あらかじめ言っておくと、感動しないからといって、悪いと言っているわけではない。感動する人がいればそれでいいと思う。しかし、いいとか悪いという意味とはまた違う。



 そして、その日からどうしてこの映画に感動しないのだろうか、考え続けてきた。考えたことをまとめるだけで、結論も何もないが。

 まず、見たときは、その映画の中にうまく入れない自分を感じた。ドキュメンタリー風に見る分にはちょうどいいかという感じだ。観察する目で見ている。

 ファシズム下の日本の様子も、なんとなくシラーっとした感じで見てしまう。
 “こんなもんじゃなかったろう。”という強い反発がどこかに生まれてくる。

 戦時下で、犬一匹殺される位は、どうということもないだろうに。何万人も殺されたユダヤ人、アウシュビッツはどうするんだ。犬が一匹でどうしたというんだ、馬鹿馬鹿しいと。憲兵をしていた彼も、その程度のことで、ナイーブになっては殺し合いなんかできるわけがない。

 では、汚い世界を描ききっていないということか?

 うーん。そうでもない。軍隊の中の対立も描いていた。上司と部下の対立も、食料がなくなり、ミミズを探してくるところまで描いた。

 が、なんだか、しらーっとしてしまう。
 こんなもんじゃないだろうと、、、戦争は。。。
 南京虐殺の本を読んだことがある。もっと悲惨だ。悲惨どころじゃない。
 日本人が、中国人を殺した事実だ。どう殺したか伝えようとした作家達。
 石川達三「生きている兵隊」と火野葦平「麦と兵隊」を読んだが、それぞれの作家の立場は違っても、やはり何をしたかという内容は戦争というものの事実を伝えている。

 栗林閣下の家の良さと思い出が、平民からは現実離れした感じがあるが、閣下ともなる人たちは、あの位のステータスで経験を持っているのは、当然だろうが、どうも美を作りだすというか、美を創作することに苦心したように、今思う。

 そして、サンフランシスコオリンピックの乗馬のメダリストだという彼は、敵負傷兵を中に入れて、看護するように言いつけるが、なんだか不自然な感じがする。たった一人を助けてどうするんだろ?他の敵兵はみんなほったらかしにし、偶然あの一人を助けたか?

 敵兵でも、負傷兵に対しての扱いは立派だったと言いたいのか。個人の経験によって思い入れで、待遇が変わっただけなのか。自分達に全く余裕がないのに、その一人を助けるのシーンを作って見せる意味は?

 なんだか、あれも、これもと、こんな感じでしっくりしない映画なのだ。

 悪いとは言わない。悪いとは言うつもりはない。

 アメリカびいきにも、日本びいきにもならず、戦争とは、“この硫黄島での戦争とはどんなものだったのか”を再現するのが目的だったとしても、どうも、ピンとこない映画なのだ。

 要するに、現実は、こんなもんじゃないんだよ、という気持ちなんだと思う。


 映画は、創作だが、意図があるものだが。。。

 美しく作ろうとしたのではないか、武士道を意識しすぎて、自然に出そうとする創作が、甘い作りになったのではないか、と。

 平等に描こうとすると、ドキュメンタリー風というか、語り調になりすぎて、結局どの人物にも自己投入するには至らない欠点があると思う。


 そして、より私が困惑するのが、外国人である夫が、この映画に異常な過大評価をするあまり、これに感動できない私を見て「君は、いい映画もわからないのかあ。」と。この一言で話す気にもならない。

 私はもちろん(甘いなあ。この程度で感動する日本人の顔見てみたいね。)と言いたいところだ。

 一度本人とは議論したので、二度不愉快な思いはする必要はなく、岡野先生のところで唯識を勉強した方が時間の無駄にならないと、かなり読んだ。


 クリント・イーストウッドは好きな役者で監督だが、最近のでは、あのトロントじゃないし、例の“グラントリノ”という映画は好きだ。中国人が隣に引っ越してきて、うっと思うが、事が起きて、嫌なヤツとも付き合わざるをえない。そしてようやく交流が始まり、中国文化を知っていくことになる。最後は、私には感動の“アメリカン、カウボーイ魂”がある。殺させて、やり返すという結果となる。自分も無駄に死なず、一石二鳥かと感じた。単純で納得しやすい。




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出会いのストリーム

2009年10月13日 | 日記
出会いのストリーム

 先週の金曜日、小6の息子が「来週、日本人が学校に来るんだって。」という話から、詳細が何一つ分からない有様で、機嫌が悪くなっていた私。

 私:「来週のいつ?どんな人が来るの?何をしに?」

 息子:「来週の月曜日か、火曜日だって。なんか旅行に来る日本人が学校見たいらしいんだ。何ってよくわかんないよ。」

 と、まったく埒が明かなく、先生がまだよく分からなかったらしいからしょうがない。

 怒るのも我慢し、朝学校に電話をして聞いてみることにした。

 電話をして、全て明らかになった。息子には、学校から記念品を差し上げる時に、日本語で挨拶をさせたいのだそうだ。そこで、急いで簡単な挨拶用の日本語文を用意して、学校に持って行った。

 こちらの子供美術館と、日本の地方の美術館との交流がもう9年にも渡って行われており、その絵画展の準備にフランスから、こちらの国へ来られたとのこと。二つの小学校と幼稚園を見学に回って、明日もう帰るらしい。

 ちょうど、学校へ行くとその日本人の学芸員の方々二人と通訳の方にお会いし、学校の見学に回る前に軽く挨拶をし、夕方5時ごろ滞在のホテルでお茶をすることを約束した。

 私は滅多に日本人に会わないので、もうかなり舞い上がっている。

 夕方5時、街のホテルに小4の娘と一緒に出かける。ご本人達はまだ帰っていなかったが、私たちはお茶を飲んで待つことにした。娘はイチゴケーキを頼んでニコニコだ。

 5時をほんの少し過ぎたころ、その方々が通訳ともう一人の方を伴いご挨拶。日本からの学芸員の方二人、そして絵本作家「リラ・プラップ」さん、通訳の方とご挨拶をする。絵本作家の方は日本語を学びたいということで、名刺を頂き、後日お会いすることになった。言語博士と書かれたものものしい名刺の通訳の女性は、首都在住。こちらも親切に声をかけて下さった。このお二方は先に帰り、後は私たち日本人が残り腰をかけて話始める。

 あれこれ聞かれ、いろいろ家のお話、絵本のお話、学校で紹介した日本の昔話のこと、次の予定などなど、お話する。大変喜んでくれ、最近の著名な童話作家なども教えて下さるが、わからなかった。それでも、どういうわけか、ものすごく気が合い、もうお互いが信じ合うものを感じた。

 もう一人、若く見える男性は懐疑心が宿っていたように見えたが、最後には彼もかなり心を開いてくれて驚いた。大体は、知識レベルが合わないと、口を閉ざすのが一般的だが、彼はそのパターンだった。ところが、彼女は違って、そのまま私たちは、よくお話をした。

 最後の嬉しい一言。

 学芸員の女性:「あのー、私、本当に来てもいいですか?」

 私:「もちろんです。フランスのお友達の所に来るときに、こちらにもぜひ寄って下さい。いつでも大歓迎ですよ。ご家族みなさんでもいいですから、どうぞ。」

 別の男性学芸員:「あのー、スキー場はここにあるんですか?どんな感じですか?」
 とスキーが好きな様子。ようやく心を開いてくれたころに、お別れする時間となった。

 この素敵な女性に出会えてとても嬉しかった。絵本作家にまで会え、また翻訳家兼通訳者にもお会いできた。


 なんだか、不思議な感じがした。


 ”会わされるようになっていた”ように感じた。
 
 大きな出会いのストリームがあって、その渦にぐっと引き込まれていくのを感じた。

 子供達の絵を出展してみることになった。

 私はなぜかずっとYさんのことを思っていた。

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57. 澱

2009年10月12日 | 日記詩(詩のようなもの)
7月2日2009年

57. 澱

 ドアが開いて入ってきた者が、ある男に迫る病を告げる。
 様々なことの辻褄が簡単に合うが、それはもう5年も前から聞いている事実。

 発病が告げられても、その男に対する同情は深くは起こらない。

 世の中の不幸という不幸を背負いながらようやく歩く者達のことを思えば、、、

 たった一人住まいの不治の病を承知で、病と共に
 ようやく生きている老人を思えば。。。
 この者が一体何をしたというのか。
 夫に家族にと、献身意外に。何をしたというのか。
 その見返りが、孤独と不治の病と死への恐れとは。
 話す相手も誰もいない老人の深い孤独を思えば、
 病を告げられたその男に対する思いは、
 彼の日常の些細な出来事と共に、
 沸き起こる優しさが相殺されてしまう。

 醜いことをすれば、自分に返り、自己の利のみ考える者には友もなく、
 優しい言葉や励ますということを知らない皮肉屋に迫るもの。
 
 湧き上がりつつある同情を
 さえぎるものがはっきりとある。

 湧き上がりつつある心配の念ともろもろの心を
 押さえようとするものがある。

 はっきりとある。

 それは、溜まりに溜まった心の中の澱。

 溜まった澱は長い年月の間に固くなり
 優しさや同情の液体を今ほんの少し注いでも
 もはや溶かすことがかなわない。

 心の中に積もった薄いどす黒い澱は
 自分の中のものだけでは
 取り除くことができない。

 この男に、

 たった一度、

 たった一つ、

 真摯な言葉が出てくれば、

 この澱は

 嘘のように消えてなくなるものを。

 それもかなわないであろう。

 この男がそうしてきたように、

 同じことが誰かによって自然に返されていく。
 


 自然には見えない掟が確かにある。
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目を引いた諺2

2009年10月12日 | 日記
目を引いた諺2

 前回に続き、諺辞典を見ていたらやっぱり笑えるものがあった。

 1.「やっかいなことには、我々は女と一緒に暮らすこともできないし、女なしに暮らすこともできない。」

       ジョージ・ゴードン・バイロン(1788〜1824)英国、詩人

   ** これは男という男の気持ちじゃないかと、大笑いしてしまった。
     男爵の家に生まれ、ケンブリッジ大学に入るも放蕩の生活をしたらしい。ケンブリッジを止めてからの彼の同行も、あちこち世界中を旅をして、女性との浮名を流していたようだ。しょうがないねえ。自由な生きかたをした人間というと、抵抗があるから、”好きなように生きた人間”の一人と言おう。


 2.「家庭の主婦の仕事ほどシジフォスの刑罰によく似たものはあるまい。」

       シモーヌ・ド・ボーブォワール(1908〜1986 )仏、作家、哲学者

   ** これも腹を抱えて笑ってしまった。エンドレスのルーティーンワークは何の才能もない私にはぴったりだが、ボーブォワールには、刑罰ほどにも感じられたのかと納得。納得。シジフォスって?シーシュポスのことらしい。では分からないので調べる。ギリシャ神話はこの男と女のギトギトが、疲れる。その上、騙して、裏切り、殺したり、罠にかけたりと、どす黒い。今ようやく少し読めるようになった。うぇーっとくるが、愛憎とはこんなに醜い姿になるということだ。色恋ざたは誰もあまり語らないように思うが、それは大切なことと、醜いことの両方があいまって、本当のことを語る人は少ないのだ。私だって語る気などさらさらない。逆にそれを語っている人間はあまり信用できない。恋愛の喜びは信じるが、誰も失望や裏切りをされたあとの、怒りや憎しみと裏切りや復讐、殺意を語るものはいない。それらの醜い姿は新聞紙上で犯罪としてよく見かける。そこには結果しか伝えられないが。

 注:シジフォス(シーシュポス)について、ネットから引用。

  ゼウスが大きな白鷲になって河の神アソプスの娘アイギナーをさらって
  ある島にある自分の別荘に連れ込んだ
  コリントス王シジフォスは空を見てそれをゼウスと見破り
  消え去った方角に後を追った
  そしてその別荘を見付けた
  アソプスたちが鷲に連れ去られた娘を捜して館へ来たとき
  シジフォスはそれを教えた

  臈長けたアイギナーをやっと口説き落として
  交わっている最中に
  アソプスたちが島へ近付くのに気が付いた
  そして雷を投げつけて追い返した

  邪魔されたことで腹を立て ばれたのが
  シジフォスのせいだとわかると
  その行いを調べ上げ
  悪賢く詐欺泥棒も同然にして巧みに騙し
  他人の全財産を巻き上げ
  そのために自殺者も出ていることを理由に
  奈落へと送った

  麓から山の頂上まで岩を押し上げる苦役を与えた
  朝から翌朝までかかって
  汗びっしりになって頂上に
  なんとかあと一歩というところまで持ち上げると
  急に岩は何倍にも重くなり
  支え切れずに麓まで転がり落ちて行った

  その苦役はシジフォスの自由な意志では
  投げ出すことはできないどうしようもないものであって
  シジフォスは毎日毎日同じことを
  繰り返しさせられることでの苦痛を
  味わい続けるしかなかった

  ゼウスの妻ヘラに手を出そうとした
  テッサリア王イクシオンが
  火車に手足を縛られ回転しっぱなしにされ
  それぞれ新婚初夜に侮辱した
  夫を殺したアルゴス王ダナオスの娘たちが
  目の粗い篩いで大きな甕に水を汲まされているように



 3.「幸せに暮らすには夫がつんぼで、妻がめくらでなければならない。」

       仏、諺

   ** これはそれぞれキーワードがいろいろ変えられそうで面白い。
     現代の男女はどう入れ替えるのかな。“つんぼ”と、“めくら”の部分。


 4.「がんじょうな人は、がんこな病気にかかる。」

       仏、諺

   ** なんとなく、納得してしまう。心の奥の奥に強い心根の粒を宿す人は、頑固な病気と闘わせられる。そして、粒は芽を出して大きく育って開花していく。そんな感じがした。私のように心の奥底の奥底まで弱い、へなちょこは、痛みにも弱い。弱いものはすぐに押しつぶされてだめになり、何も、ものにならない。神様はそういう弱い人間、どうしようもない人間には、最低限の健康だけはお与え下さったのだろう。だから、感謝の上に、また感謝。あるものを見て、できることを一生懸命やれたらいいが。


   


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目を引いた諺

2009年10月12日 | 日記
目を引いた諺



 諺辞典を見ていたら、ドキリとする言葉に次々と出会った。

 1.「怒りは無謀をもって始まり、後悔をもって終わる。」

       ピタゴラス(前481〜411頃)哲学者

   ** 全くそうだと、感慨深い。怒り虫の私。いい加減に怒るは止めようと、毎回思うだけは思う。



 2.「知識がなくて想像力をもっている人間は、足がないのに翼をもっているようなものだ。」

       ジューベール(1834−1900)政治家

   ** この言葉。参りました。私です。どこから見ても私です。私は空を飛んでいる。


 3.「賢明な思考よりも、慎重な行動が重大である。」

       キケロ(前106〜277頃)雄弁家

   ** 環境に関する本を読んでいたら、市民運動のリサーチ不足による愚かな活動があった。




   きりがないので、この位にします。



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マリンスノー

2009年10月12日 | 日記詩(詩のようなもの)
マリンスノー


 海底4000mの闇の中で 

 究極の美に出会う科学者


 闇の中には 恐怖となる ものは 

 なかった

 究極の美は  死の形

 究極の美は  連鎖の証明

 ほんの僅かの人間に その姿を見せた

 闇の中に流れていたもの


 私たちは 心の闇を照らす  思いの力で 

 暗闇を照らし出す

 歩かなければいけないから

 闇の中にあるものを信じきる力のみが

 可能にし


 信じて歩いた者のみが

 見せられる



 マリンスノーを見た男



 




 
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