杉森神社の物語(東広島市河内町)・・・癒しのある風景

人生は、実験の連続。愛される神社を目指して頑張っています。祭りとは奉ること。ご祈願毎に神饌をかえ丁重なお祭りをします。

5月の日記31 結婚式最終打ち合わせ

2014-05-31 17:33:56 | 日記

5月31日

早いですね。もう五か月が過ぎ、いよいよ杉森神社も活動活性期に入ってきました。

 

今日は、明日の結婚式の最終打ち合わせ。

新郎新婦も真剣に神様に向き合うため、明日の諸々の所作について確認し合いました。

 

午後から明日の月次祭、結婚式の神饌用意のためスーパーに買い出しです。真夏のような暑さで思わず、アイスクリームをほうばりました。うまいうまい、あすもきっとうまくいくだろう・・

境内のカリンも衣替えです。


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5月の日記30 草刈 小路 中河内の城跡

2014-05-31 06:22:08 | 河内町の見どころ食べどころ

5月30日

今日もがんばって草刈。

 

 

そして新たな小路ができそうな気が・・・アジサイに囲まれるといいかも

 

田の水をひく溝に鮠があがってきています。夏の風景です。

 

午後、河内図書館で1時間半、杉森神社の裏をあがると「塔ノ鼻遺跡」というものがあることを発見しました。どこにあるのだろう・・・


そして、小さな集落にも関わらず、中世のお城跡が目と鼻の先


藤ヶ城跡

茶臼山城跡

 

白土山遺跡

この山は△の山で、なにかありそうな気がしていたのですが、古墳のようです。

 

 

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5月の日記29 河内町の中世

2014-05-30 06:10:36 | イセヒカリ

5月29日

今日は郷土史研究会に出席

河内町の中世の状況を教わりました。

 

中世の河内は、大内氏の飛び地所領だったみたいですね。そのあと沼田小早川(小田)と平賀氏の領土紛争があり、大内氏滅亡後、小早川氏との和睦によって平賀氏(http://www2.harimaya.com/sengoku/html/a_hiraga.html)の所領になったようです。

当時のやりとりには起請文(日本国中の大中小神祇、わけても厳島大明神等の神名を印し、約束をやぶったら罰があたるというもの)により行われていたようです。

 

中河内には、茶臼山城(波多野千手丸)、大道城(大多和右馬)、藤ケ城(大多和左馬頭)がありました。狭い地域に三つも城があるんですよ。実際に城主がいたのが茶臼山城と藤ケ城。

大多和氏は、桓武平氏で今の三浦市大多和の出だそうです。

平賀氏は、秋田の出だそうです。鎌倉時代から関東や東北の武士が河内に住んでいたんですね。日本は狭いですね。

 

そして平賀氏の末裔さんと今日お話もできました。

ご先祖さまの誰ひとり欠けても今の人はいないとなれば、ご先祖さまに感謝感謝ですね。

そういえば、母方の祖母の家の人が嫁いだ古志家(母の従兄弟であり、戦艦大和で戦死)の人が昔、昔、千家家に嫁いだ話とか、本郷の父方の家は小早川家の家来だったとか、母方の家は元々伊勢神宮祀官大江諸親の五男修理太夫大江匡親だとか・・・さてさてさて、わかりませぬが、ご先祖さまに感謝感謝!


今日のイセヒカリ

そして豊年エビ

 

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5月の日記 草刈日 イセヒカリのプランター

2014-05-29 05:45:59 | イセヒカリ

5月28日

いい天気です。草刈日和です。

ということで、境内の上半分の草刈を行いました。

 

氏子さんも一緒に草刈をしてくださいました。感謝感謝!

 

 

そして、夕方、イセヒカリの苗がプランタと一緒に到着です。感謝感謝!


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出雲国造 典子女王殿下と千家國麿さんの目出度きお話しのついでに

2014-05-28 11:53:35 | 神社界のニュース

典子女王殿下と千家國麿さんの目出度きお話しのついでに

 

「千家」家(現宮司で84代目)の祖先は、須佐之男命と天照大御神の宇気比(うけひ・潔白を現すこと)により、天照大御神の御子としてお生まれになった天穂日命(あめのほひのみこと)であります。(なんと、杉森神社の御祭神の1柱でもありますよ)。

日本書紀では、国譲りを終えた大己貴神(おおなむちのかみ・大国主神の別名)に対し、高皇産霊尊が「汝(いまし)が祭祀を主(つかさど)らむ者は天穂日命是なり」と仰っています。

それからずっと出雲大社(昔は、杵築大社といいました)の祭祀主であります。さらに律令またはそれ以前からとも言われますが、国造(くにのみやつこ・出雲では「こくそう」)として祭政を司られてきました。他国では国造制度はなくなりますが、出雲だけはこの国造が続いており、朝廷より重きを置かれてきました。

また、国造は単に祭祀を執り行う宮司としてではなく、神(天穂日命)の依ります「御杖代(みつえしろ)」として今でも宮司は日々潔斎をして「お火所」において聖火で調理された食事を神さまに供え、自らも食されています。

特に代替わりのときは、火継神事というものが行われます。江戸時代までは、神魂神社に行き「神火神水」を継承するため、神火神水で調理した神饌を神々に供え、ともに食事をし、神々の霊威をいただき、天穂日命の御霊を継承し、はじめて出雲国造となります。

天皇陛下が御即位のときに大嘗祭を行われるのと同じように国造になられるための重要な神事です。

そして国造になられると一年の潔斎のあと宮中において陛下の大御代を祝う「(出雲の国の造の)神賀詞(かむよごと)」を奏上されます。

「斎(いわ)ひの返事(かへりごと)の神賀(かむほぎ)の吉詞(よごと)」と言い、国造が、国の神々を祭り、その神々から天皇の災禍がないように守る旨の御返事の言葉があるのでここに申し上げますというような内容です。

このように皇室と古代より今日まで継続的に深い関係をもたれているのが出雲国造家であります。


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