負けるな知的中高年◆本ときどき花のちコンピュータ

「知の崩壊」とかいって、いつの間にか世の中すっかり溶けてしまった。
「知」の復権に知的中高年よ、立ち上がれ!

予定のほぼ1年近く経ち、このブログは今日で終了します

2005年06月05日 | 詞花日暦
ホタルたちはしばらくのあいだ気ままに光を放ち
……ほぼ完璧に同期して集団で光のパルスを放つ
――マーク・ブキャナン(物理学者)

 6月の声を聞いて、当初予定していた一年間がほぼ経とうとしています。いたずらに伸ばすのも意味がなく、この辺で終了とします。なおご参考までにいくつかのご報告とお礼を添えておきます。

1)1年前にスタートした時点で、NTTのブログは約3万から23万に増加した。
2)不気味な「集団の光パルス」でなければいいが。
3)当ブログのアクセスIPは、毎日平均90台であった。100を超えることはたまにしかなかった。
4)逐一ご挨拶しないが、閲覧していただいた少数の方々にお礼を申し上げたい。
5)コメントなどをわざわざいただいた人々には、さらに深謝を捧げたい。
6)楽しい思いや参考になる意見がありがたかった。
7)このブログはしばらくこのままの状態で置き、コメントがあれば返事を書く。
8)コメントがとだえ、アクセスが減少した時点で消去する。
9)コメントをいただいた方々は、必要なコメントを保存されますよう。

 堅苦しい話題が多く、日々、恐縮していました。いずれどこかでお目にかかることがあるかもしれませんが、皆様、ご壮健にお過ごしになられますよう。(菅原)

「愚」に徹しきれない私は無私の「美」の宣教者でありたい

2005年06月05日 | 詞花日暦
本来の愚に帰れ、そしてその愚を守れ
「分け入っても分け入っても青い山」
――種田山頭火(俳人)

 山頭火がまだ十代のはじめのころだった。彼の出生地、山口県防府市から瀬戸内海を隔てた至近の松山に生れた正岡子規は、旧来の連句は文学ではない、発句(俳句)こそ文学であると説き、写生による俳句革新を提唱した。
 二十代の山頭火は、早稲田大学を退学し、生家の酒造業に精を出しながら、ときおり句作を行った。三十代のはじめには、荻原井泉水が主催する句誌に投稿して入選した。三十二歳のとき、防府市に井泉水を招いて句会を開いた。この年、井泉水は俳句の季語廃止を宣言している。
 四十代と五十代の山頭火は、ひたすら放浪の旅にあった。禅門に入って、出家得度した直後だから、袈裟に身を包み、一鉢一笠の行乞放浪である。このとき、有名な「分け入っても分け入っても青い山」を発表、本格的に俳句へ復帰する。出身地の山陽道はもちろん、近くの九州一円、さらに関西、関東、東北へ足跡を残している。
 ***
 五十代のはじめに「私は労れた」と書いた。袈裟の影に隠れ、嘘の経文を読み、托鉢に技巧を弄する行乞に耐え切れなくなっていた。
 一方で日本は中国に侵略し、戦争の時代がはじまっていた。「征服の時代である、闘争の時代である。……人と人とが血みどろになって掴み合うている」。無能無力、時代錯誤的性情の自分は、ラッパを吹くほどの意力もない。
 山頭火はひたすら「私」にこもり、「時代錯誤的生活」に沈潜する。「空」の世界、「遊化」の寂光土に精進するほかないと結論付ける。「本来の愚に帰れ、そしてその愚を守れ」と自らにいいきかせる。
 句作と放浪生活は、好きなものを好きといい、きらいなものをきらいという幸福を貫いた。五十八歳、心臓麻痺でひっそりと死んだ。「端的に死にたい」という希望通りだった。

こうした若者がいまでも少数は残っているのを知ってほしい

2005年06月04日 | 詞花日暦
知識で憶えるのではなく、身体で憶える
古今東西、どんなに科学が進んでも、
モノをつくる仕事とはそうしたものでしょう
――小川三夫(宮大工)

 高校生が修学旅行で京都や奈良に行く。法隆寺の塔や東大寺の大仏を見る。その美しさに打たれ、自分もつくってみたいと思う人は少しはいるだろう。しかし卒業と同時にその希望を実行に移す人は、ほとんどいない。
 小川三夫は栃木県の高校を卒業した三月、奈良の県庁に行き、塔をつくる仕事を世話してほしいと頼んだ。のちの師になる西岡常一の名も知らなかったが、紹介されてはじめて会った。おり悪しく、法隆寺の大修理が終わったばかりで仕事がない。棟梁は言下に断る。何度たずねても、宮大工なんて食っていけないし、きびしい修行が必要だと突っぱねた。
 小川青年はへこたれない。「塔を構成する部材の一つひとつが大きい。しかもそれが壮大で美しい建造物の姿に仕上がっている。千三百年もまえ、道具もないのによくこれだけのものを建立したという驚き、つくり上げた無名の人々のこころに動かされた」。
 ***
 奈良を後にした小川は、塔と多少は関係あるだろうと思い、雪の深い長野県飯山で仏壇づくりに一年を費やした。あとの二年は兵庫や島根で図面書きの仕事をして待ちつづけた。
 三年たったとき、西岡常一から声がかかった。法隆寺の三重塔が工事を再開するという。はじめは一番下っ端の弟子である。師匠はなにも教えてくれない。仕事は真剣勝負だから、師匠に教えるひまなどない。朝、昼、晩、師匠や兄弟子の食事づくりばかりがつづいた。
 「大切なのは、師匠と仕事の現場を同じくすること。自分で見ながら盗んでいくしかない。知識で憶えるのではなく、身体で憶える。古今東西、どんなに科学が進んでも、モノをつくる仕事とはそうしたものでしょう」。
 いまではいくつもの塔や寺院を手がけ、弟子を抱える身になった。仏や神が住まう塔づくりは、仏や神への祈り。自分の手と頭を使ってしか、人間の祈りはつくりだせないと小川は語っている。

実業で成功する人は芸術家の夢はほどほどにしか採用しない

2005年06月03日 | 詞花日暦
言い度い事を言い、したい事をして、
もちろんそれが出来る人は沢山あるには違いないが、
しかし不幸にもそういうタイプの人は大概落伍している
――小林一三(事業家)

 小林一三は明治二十六年に「十等手代として」三井銀行に入社して以来、阪急電鉄、宝塚少女歌劇、東宝映画などを手がけた。その足跡から見ると、堅実な銀行員ふうのワクをはみ出し、やりたいことを奔放に実行した印象がある。そんな彼が、いいたいことをいい、したいことをする人間は、大概ビジネスの世界から落伍するという。予想外のことばではないか。
 しかしこれが小林一三の本音であり、事業手法だった。宝塚少女歌劇の前身少女唱歌隊をつくったのは、大阪三越で評判だった少年音楽隊の先例を模倣し、少女に限ったのは男女共修を「危険である」と考えただけである。まさに本人もいう「イージーゴーイング」からの出発にすぎない。
 ***
 宝塚少女歌劇の指導を依頼したのは、グループ企業三井物産の重役令嬢の夫君・安藤弘だった。彼はオペラに対する野心を持ち、十五、六歳の女の子だけでなく男性も一緒に養成すべきだと主張していた。
 一三は「安藤先生の野心は、ややもすれば理想に走って」と考え、安藤の「芸術家として燃ゆるがごとき信念」を退けてしまった。したいことをしようとした青年の夢を実業家・小林一三はもののみごとに拒絶したのである。
 のちの一三は書いた。「これは宝塚の失敗であったかもしれないが、営利会社の経営者としては、恐らくこの程度で満足することの安全なるに如かずとあきらめて居ったのである」。
 これを実業家・小林一三の英知とでもいうべきなのだろう。けっして落伍することなく、七十九歳でもまだ事業の夢を追った彼は、「言い度い事を言い、したい事を」するのとは別種の経営者だった。戦前の財閥という強固な基盤をもった時代の経営者だったせいだろうか。

「神性」が示される山を求める旅はフランスにもあった

2005年06月02日 | 詞花日暦
「至高点」という思想が、このような
風変りな冒険小説の形で開花した
――澁澤龍彦(仏文学者)

 ルネ・ドーマルといえば、仏文学の専門家が知っている程度で、日本語に訳されるなど稀代のこと。まして文学離れの現代人が読むことは想像だにできない。『類推の山』を書いた彼は、二十世紀初頭、シュルレアリスム運動の影響下に生き、一九四四年、三十六歳で死んだ。
 物語は、登山家、画家、言語学者、詩人など総勢八名が「類推の山」を目指し、海を渡る旅。ここでいう山は、天と地を結び、永遠の世界に通じ、「神性が人間に掲示される」通路。日本の補陀落渡海にきわめて類似している。そういえば、作中でインドの須弥山に言及しいている。
 作者は類似した山に旧約聖書のシナイ山、新約聖書のゴルゴタの丘などをあげるが、いまは力を失った平凡なものになっている。彼が求めるのは、まだ誰も知らない「宇宙が未知の眺望をもってその頂から見渡せる類推の山」である。旅の結末は書かずにおこう。山での神秘な体験はギリシャ以来のもの、近代人が技術や実用主義で見失ったものだという。

美しい『火垂るの墓』は野坂昭如の重荷になった

2005年06月01日 | 詞花日暦
逃げすぎたことのやましさが、
胸の底に澱の如くよどみ、おりにふれて湧き上がる
――野坂昭如(作家)

 昭和二十年六月五日、神戸大空襲で野坂は家と養父母を失った。まだ十四歳の少年だった彼は、このとき自分が「逃げすぎた」とあとで告白した。逃げたうしろめたさが、のちまでずっと尾を引いていた。
 そのひとつは、まだ一歳六カ月の妹を餓死させたことだった。
 家と両親を失った彼は、阪急夙川駅から六甲山へ約十五分、満池谷にある遠縁の家に身を寄せた。ニテコ池と呼ばれた貯水池の下だった。焼け跡から食料などを大八車で運ぶとき、小川には蛍が飛び交っていた。
 幼い妹の世話は、父や母のようにはできない。泣き出すと夜中でもおぶって表を歩き、ときに汗としらみでまだらになった肌を海水浴でいやした。夜には蚊帳のなかに蛍を放ち、妹の気を紛らわせてやった。のちの小説『火垂るの墓』の光景だった。
 ***
 だが野坂は、この文章にはずいぶん嘘がまじっているという。
 石を並べたカマドでおかゆを炊く。おかゆをよそうとき、米粒を自分の茶碗に取り、妹には重湯の部分だけやる。それも匙で彼女の口に運ぶとき、熱を冷ましながらつい自分の口に入れてしまう。菜園から盗んだトマトを妹にと思いながら、つい自分の口におさめてしまう。
 ほかのことはなんでもした。おしめの洗濯も気にならない。ただ食欲のまえにはすべての愛もやさしさも色を失った。せめてあの小説に出てくる兄のように、妹をかわいがってあげればよかったとあとになって思う。無残な骨と皮の死にざまがくやまれる。
「ぼくはあんなにやさしくはなかった」と書き、自分を哀れな戦災孤児に仕立て、妹思いの兄のように書いた嘘が、野坂にはのちのちまで重荷になる。育ち盛りの食欲に負け、美しい話にした逃避が、いつもやましさとして湧き上がってくる。

麦秋も麦わら細工もノスタルジーをかき立てるだけである

2005年05月31日 | 詞花日暦
麦わら細工もいずれは消滅していく
運命にあるのかもしれません
――神谷勝(麦わら細工職人)

 麦秋ということばは、すでに死語になったのだろうか。麦の穂が金色に輝く田畑を見ることもすくなくなった。年配の人なら、麦の収穫期に茶色の光沢を放つ麦わらで小さな籠を編み、夏になると、麦わら帽子を被った懐かしい記憶があるにちがいない。
 麦わら細工を美しい工芸に仕上げた例もあった。温泉で有名な兵庫県城崎市にはいまでも残っている。江戸の享保年間、因州(鳥取県)の半七という人が伝えたという。明治時代には、アメリカ万博で最高名誉賞牌を受けたこともある。
 六月に刈り入れた麦わらを細工用にそろえ、あく抜きしたあとで約三十種類の色に染め上げる。帽子や籠は円筒状のまま使い、箱や板物は紐や帯状にして使う。後者の場合は、さらにわらを米粒で和紙に貼って、いろんな模様に仕上げる。亀甲模様から具象的な花まで、光の加減で変化する麦わらの光沢が美しい。欠点は長い期間もたないこと。それでも年ごとの自然を生かした美しさを日本人は生活のなかにいつも取り入れていた。

若いときの江戸川乱歩は落ちこぼれのフリーターだった

2005年05月30日 | 詞花日暦
本当の探偵小説は、大衆文学ではない、
純文学よりもっとむつかしい特殊な文学だ
――江戸川乱歩(作家)

 明治時代の末、十代の少年だった乱歩は「いじめられっ子」だった。病身だったせいか、機械体操ひとつできず、同級生の物笑いになった。授業を休むことが多く、「ひきこもり」生活を送っていた。
 大学卒業後に社会に出た乱歩は、「フリーター」だった。次々と転職する落ちこぼれに近かった。貿易商、タイプライターの行商、造船所、古本屋、支那ソバ屋、東京市の吏員、技師倶楽部の書記長、ポマード製造工場の支配人など、ほとんど半年から一年で辞めている。
 理由をこうである。「独りで考えごとに耽る癖のあった私は、きまりきった勤務や、絶えず同僚と顔を合わせている生活に耐えられなかった」。一般の常識人からすれば、なんとも身勝手ないい草に聞こえる。
 一方、乱歩が熱中したのは、小さいころから親しんだ本である。本だけではない。「幻想の国へのかけ橋」である活字そのものにも熱中し、あろうことか、お小遣いで何千本もの活字を買い込んでいる。

 二十代の後半には結婚し、子供もいた。借金から逃げるように、家族をおいて放浪する。生活費のために書き始めたのが探偵小説である。処女作となった「一枚の切符」「二銭銅貨」は、ミカン箱の上で書いた。
 しかし本人にいわせると、犯人と謎を解決する合理的な探偵小説ではない。描かれたのは、子供のころから見つづけた「夢の異国」「妄想」である。それも「大衆文学ではない、純文学よりもっとむつかしい特殊な文学」という。
 作家になっても、絵草紙の残虐な描写や同性愛についての嗜好を示している。依然として社会に適合できない妄想にこだわっているが、反面、自分ならではの妄想が意味をもつ作品が書けた自負もうかがわれる。
 落ちこぼれといわれても、人には生きる道がある。活字の王国に参入する作家とは、えてしてそうした生き方を見つけた人である。

男の子を持つ母親は自分の情事に注意するがいい

2005年05月29日 | 詞花日暦
どんな事情があるにせよ、子供は、
その親の情事に寛大ではあり得ない
――檀一雄(作家)

 父・参郎の出自は九州・柳川の旧家で、隣家の北原白秋家と並び称された。その父が工業学校の先生として福岡、弘前と転任し、足利に移った大正八年、一雄は母の実家から引き取られ、両親と一緒になった。
 二年後、一雄が九歳になったとき、母は若い医科大学生との不倫がもとで、三児を残し、実家に帰った。翌年には、母は大学生を頼って東京に移る。十歳前後の男の子にとって、事態を客観的に見ることができないにしろ、母親の情事は驚天動地の経験である。
 別に道徳観念があるわけではない。が、男の子は、本能的に「不快を感じ」、「親の情事に寛大ではありえない」。同時に心の深くにかつてない傷を負うことになる。「女という燃えたぎる異形のモノが立ちあがるのを感じた私は怯えた」というそのときの異様な発見は、母に代表される女性への決定的な見方をつくる不幸な体験でもある。
 大人になってしまえば、女性には母や妻や恋人や情人など、いくつもの顔があるのを知る。はるかむかしから、女性には聖母と娼婦の両面が語り尽くされてきた。だから一雄もずっとのちに以下のような客観的な描写ができた。
「私は母の身体のなかに、なにものか蠢動する異物がひそんでいると信じないわけにはゆかなかった。その異物は平素の母の聡明と、均衡とをことごとく狂わせ、母の心身をそのまま波のようにもてあそぶ」。
 母親といえども、女性に変りはない。父親との恋愛は許しながら、それ以外の情事をなぜか許せないのは、母を失う不幸と背中合わせになっているからだ。とりわけ幼い男の子に関しては、生れてはじめて知る女の発見が、やさしい母性の喪失に結びつく。
「子供にとってその親の恋愛というのは、愚劣に見える教訓」と書きながら、その教訓をのちの自分が破っていく。「人間の愚行」は果てしなく繰り返されると一雄は書いている。

私は悪いことをしてはいないと言い切る不倫の女性がいた

2005年05月28日 | 詞花日暦
あの青年を愛すのも、敬次(夫)を愛すのも、
それは私の意思ではないか
――田村俊子(作家)

 田村俊子は恋多き女である。結婚しながら他の男性を好きになり、女性との交友も経験する。既婚者の経済的援助を受けながら、関係を結び、同時に知人の夫とも不倫におちる。そんな多彩で奔放な恋が、彼女の生涯を彩っている。
 象徴的なできごとは、最初に結婚した夫との生活がはじまってしばらく、彼女が若い男に引かれた一例である。
 夫は自分がいながらほかの男に走る妻の態度を「憎むべき罪悪」だといい、二重になった愛を許そうとはしない。夫の立場からすれば、きわめて自然ないい分のように思われる。
 ところが俊子の心の動きはまったくちがっている。涙ながらに妻の態度を「罪悪」だとなじる夫の姿を見ていると、夫に対する愛情は一挙に崩れてしまう。そのうえ、「自分の身体がいまそっくり自分のものだ。自分の精神がいまそっくり自分のものだ」というふしぎに自由な気分に満たされてしまう。
 一方の若い青年からは、「二つの道を同時にいらっしゃる訳には行かない」といわれる。これも常識的には当然のいい分である。ところが俊子は夫を持ちながら青年を愛した「自分の仕出来した事」から逃げ出したくなる。
 なんともわがままないい草ではないか、と多くの常識人は考える。俊子が「袍烙の恋」に描いた心理を読めばなおさらである。「あの青年を愛すのも、敬次(夫)を愛すのも、それは私の意思ではないか。私は決して悪いことをしてはいない」。
 自分の意思ならなにをしてもいいのか、自分の精神や身体が自由であれば、ほかの人の立場は考えなくてもいいのか。そんな是非を俊子に問い、糾弾しても答えは期待できない。
 最初の夫である田村松魚との結婚は、結局、鈴木悦との恋愛と駆落ちによって終わった。新しい夫を追ってバンクーバーでの生活がはじまるが、夫の死後にロスで野菜マーケットの既婚経営主と関係を結ぶ。帰国後には、佐多稲子の夫であった窪川鶴次郎と恋愛に落ち、不倫が発覚すると、中国に飛び立つ。
 俊子は、男をあざむき、もてあそぶことはいいことではないと思うが、自分から謝ろうとは思わない。「あの行為も、私の男へ対する愛も、みんな私のもの」だからである。非難中傷するまえに、存外このふしぎな心の綾が、人間の正直な本来の姿かもしれないと思ってみてもいい。

伊勢型紙の微細な彫り込み線は超微細加工の技術に生きている

2005年05月27日 | 詞花日暦
型の彫りの技術において……
神技ともいうべき腕の冴えを見る
――西山松之助(歴史家)

 型紙は幾重にも重ねた和紙に微細な模様を彫ったもので、布に柄を染める道具である。和紙を柿渋に浸し、二〜五十枚を貼り合わせ、さらに室干しと呼ばれる方法で一週間ほど煙に燻す。こうしたベニヤ板状の厚紙に彫刻刀などで微細な線を彫りこみ、線を透過した染料が布に模様を染め付ける。
 伊勢型紙と呼ばれるものを三重県鈴鹿市白子で見た。室町時代からの伝来で、この地が徳川御三家の領地になってから飛躍的な発展を遂げた。現在でも九十九%の型紙がここでつくられる。複雑で細やかな線の模様を見るにつけ、日本人の手わざのすごさを思い知らされる。
 しかし職人たちの神技に近い腕の冴えに、ただ驚けばいいのではない。伝統工芸の復活だけを唱えればいいのでもない。すでに日本人の神業は先端技術で十分に生きている。超微細の加工技術、繊細な線や色彩で描き上げるアニメの画像など、枚挙に暇がないほど。わざを発揮する対象が、衣服の柄模様といった自然を超えた領域に向かっているだけのようにも思えてくる。

蒲原有明の『茶話』を「ちゃばなし」と読む人もすくなくなった

2005年05月26日 | 詞花日暦
世のなかに茶人ほど
器物を尚ぶものはあるまい
――薄田泣菫(詩人)

 明治三十年代に四冊の詩集を上梓し、蒲原有明などとともに一時代を築いた薄田泣菫は、同四十一年に詩作をやめて、大阪毎日新聞に入社し、随筆などを書いた。『茶話』『草木虫魚』がその代表作。短いエッセイだが、寸鉄を帯びた語り口はときに人々の心をえぐる。
 そのなかに茶器に触れたものがある。わびやさびを唱えた利休は、高価な器物を排し、欠けた擂鉢こそ本意と認めた。本阿弥光悦は、誤って壊しても誰も気を使わずにすむ粗末な器がいいとした。徳川光圀は、数奇に遊ぶと器物欲が出るので、晩年にふっつり茶をやめた。
 が、松平不昧公は、天明大飢饉のさなかに一万両ともいわれた茶入油屋肩衝を買い入れる。あるとき一見を所望され、幾重にもなった革袋や箱包を解いて差し出した。終わると「ひったくるように」手もとに引き寄せてしまい込んだ。もし将軍が所望されたらと訊かれると、「その代わりに、領土一箇所を拝領したい」と応える。高価な器物に頼り、世俗的な金銭に換算する茶人はいまもおおい。

江戸時代から日本人はシステム管理にどっぷりと漬かっていた

2005年05月25日 | 詞花日暦
あらかじめ先触れを致して投宿した手前、
動くわけには参らぬ
――五味康祐(作家)

 JR西日本が起こした鉄道事故でふと人々の口の端にダイヤグラムがのぼった。秒単位の電車の動きを交錯する細い線で表した運行表である。ことのついでにこのダイヤグラムが、すでに江戸時代の参勤交代制に関連して作られていた話題(三戸祐子著『定刻発車』)も浮上した。
 改めて五味康祐の短編小説「山吹の槍」を思い出した。大井川に面した島田の宿駅で起きた寛永十九年の事件が描かれている。宿場の本陣にたどり着いたのは、参勤交代の宿割りを担当する阿波蜂須賀家の家来。が、宿は先乗りした大和高取藩の家来に先約を与えていた。ひとつの宿場に二頭(フタカシラ)以上の大名は泊まれない。ダイヤグラムに狂いが生じたのである。
 二十五万石と二万五千石を代表して「御使役」は互いに争い、悲劇は切腹で終わる。江戸時代のダイヤグラムが惹き起こした衝突・脱線事故である。綿密な運行表を作り、それに左右され、自死までする日本人は、すでにこの時期からシステムによって管理し、管理されることに馴らされていた。

あなたは「電子本」を満足して読んでいるだろうか

2005年05月24日 | 詞花日暦
ふん、電子本だって? そんなもん
新しいもの好きのオモチャにすぎない
――津野海太郎(編集者)

 パソコンで読む本「エクスパンドブック」がアメリカで出版されたのは、一九九○年代の初頭。津野海太郎は興味を持ったが、電子本をオモチャだろうと思った。実見して自信が揺らぎ、「通常の本は紙の本と電子本に分化していく」と書いた。
 その説はきわめて適切だった。事実、おおくの出版社がすでにおびただしい「電子本」を刊行している。ただし、ほとんどが従来の本の文字を移しただけのデジタル化。既存本の電子化は、保存、流通などで多くの利点を持つが、インターフェースは「新しいもの好きのオモチャ」をまだ脱皮していない。
 テキスト、静止画、動画、サウンドを含む「エクスパンドブック」もその後、振るわない。一方で、テキストだけの電子本は携帯電話やPDAからデジカメやiPodまで、さまざまなメディアで読めるようになった。気楽に読んで捨てる読書ならこれでも間に合うが、読書はそれだけではない。デジタルの機能を的確に生かし、紙の本を越えた電子本が一般化するのは、まだまだ先のようである。

閑話休題―だから何だと昨日の記事で思われた方へ補足を

2005年05月23日 | 詞花日暦
マルチメディア作品を正当に
評価することを私たちは怠ってきた
――福富忠和(ジャーナリスト)

 引用のことばは一九九八年「シナジー幾何学」社倒産直後に朝日新聞に掲載されたもの。あのときは歯ぎしりしたものだ。その数年前、CD-ROMによる「マルチメディア」の可能性を書きたてたこの新聞が、読書欄で大々的に取り上げたのはヌード写真集『YELLOWS』。旧態依然のヌードがなぜ新たなメディアの可能性なのか。
 むろん一言の言及もされない『シンカ』は、少数のイタリア人が数年の歳月をかけて作成した「最初のマルチメディア三次元小説」。90年代初頭の低機能のPCと3DCGソフト「ストラーダ・スタジオ」で作り上げたが、同じ環境を使っていた筆者は、あれだけの作品を完成する大変さが身に沁みてよくわかった。(写真はM・パトリートの3DCG)
 だが残念にも正当な評価はなく、台頭するゲーム作品に蹴散らされた。数億円という資金力で制作される最近のゲームを見るにつけ、些細な個人の発想と表現力だけではビジネスとして成功しない、物量を駆使し、大衆の感覚に阿る作品でない限り、日の目を見ることはないと思った。あげく行き着く先は、闘いと殺戮と衝撃の大量なシーンの洪水である。