絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

1Q84 BOOK1

2012-09-18 | 読書
セルディにある村上春樹を全て読み終えたので、もう一度読み直してみようと思って選んだのがこの「1Q84」だ。

今度は、ゆっくり読んでみようと思う。
一度目というのは、どんな内容だろうと速く先に行きたくて、細部をゆっくり味わうことを忘れていることがある。
二度目となると、ストーリー展開も最終結論も見えているので、落ち着いて読める気がする。
そして、細部についての感想も書けそうだ。

そういう意味で、読み始めた。

誰かが、村上春樹はもう一度読みたいとは思わないと言った。
しかし、私はこの1Q84は、もう一度読んでみたいと思った。

青豆は、名前は本名だと確認した。読んでいてすっかり忘れていた。途中からあだ名のような気がしていた。
首都高速の途中から階段を下りる。その時の様子が語られているが、村上春樹は例えの表現が多いと思う。その例えというのは、その状況を分かりやすくするために使うのが普通だが、例え方が、極僅かの人にしかわからないような例えの場合がある。
例えば、高速道路が揺れる様子を「波の荒い海の潜水艦の甲板の上に載っているようだ」という。どんな人間がそんな経験をしたというのだろう。みんなが経験していることで、例えるからその場の状況が分かりやすくなるのだ。これでは、わかるようなわからないようなという感じだ。

天吾は予備校の数学の講師をしていて、小説を書いている。出版社の小松に頼まれて、ふかえりの小説を代わって書くことになる。ふかえりの文章が下手なので、書き直そうと言うのだ。
その部分を読んでいて、私は絵のことに当てはめた。私は自分のセオリーの中に、絵はテーマと構図が大切で、その部分で絵は80パーセント決まるとさえ言っている。このふかえりの場合、まさにテーマと構図は良いのだ。しかし、そのさきの絵で言えばデッサン力や色塗りの技量が足りないのである。こう考えたら、この部分はわかりやすいだろうと思った。

まだ、最初の部分である。

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BOOK3を読み終えた時の最後の感想は、青豆と天吾が会えて、1984年に戻って来るが、私は、1Q84年の天吾を1984年に連れて来てしまったと思っている。
そうすると、1984年に天吾がいるはずなのだが、それはどうなるのだろう。天吾が二人にならないか?
そう考えると、1984年から1Q84年に行った時、青豆自体はもう一人いなかったのだろうかと考えた。その辺は、みなさんはどのように考えたのだろう。


コメント (2)
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悪意

2012-09-18 | 読書
東野圭吾さんの「悪意」を読み終えました。

題名が怖そうなので、読むのを躊躇していました。

しかし、かなり面白かったです。全てがひっくりかえる大どんでん返しでした。
こういうストーリーを考えられることがすごいですね。



ただ、本当の動機は、「とにかく気に入らねえから、気に入らねえんだ」というようなことだと言っていましたが、
いじめの本質はそういうことなのでしょうか?だとしたら本当に怖いですね。
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