ファミリーアシスト あすなろ教室(輝く瞳と素敵な笑顔を求めて)

お子様の幸せを願って、メール、スカイプでの相談、面談を行っています。是非ご利用ください。

助けること

2008-05-31 | 育児
 「自分のことは自分で」ということと「困っている子を助けなさい」ということは、相反する関係になることがある。
 「自分でできないから困っている。」だから「助けてあげよう。」と思う。けれど、「助けてしまうと自分でできるようにならない。」
 親切のつもりがお節介となってしまってはお互いのためにならない。
助けなければならないことは、何かをよく考えてしなければならない。
よく考えて助けられる関係ができるとこれが切磋琢磨できる人間関係につながる。
<助ける側>
・何が何でも助ける。(手伝う)
・困っていることを助ける。(助ける)
・助け方を変えて助ける。(相手を思いやって助ける)
・助けることと助けられないことを区別して助ける。(相手を生かすために助ける)
<助けられる側>
・困ったらすぐに助けてもらう。
・努力をしてもできないから助けてもらう。
・助け方を変えてもらって助けてもらう。
・助けてもらえることと助けてもらえないことを区別して助けてもらう。

「お忙しい中、うちの子だけにお手紙を書いてもらっていては申し訳ないので、先生に『もう、結構です。』と言いました。」とある保護者から聞いた。担任の事を考えて、遠慮される気持ちは大切にしたい。しかし、教師が相手を生かすために助けることと考えていれば、遠慮することはない。「子どもがよくなることを願ってしていることだから、遠慮しないでくださいね。遠慮しないで協力して子育てをしていただいた方が担任は喜びますよ。」と伝えた。


「他には」ではなく,「他の子は」

2008-05-30 | 育児
 私たちは、授業を進めるためにいろいろな発問を投げかける。気になる言葉に「他には?」がある。
 子どもから様々な考えを出したいという意図からの投げかけだとは思うが、これでは同じ考えをもっている子どもやわからないで困っている子どもたちが切り捨てられる。授業は、あくまで一人一人の学びの場であり、切り捨ててはいけない。同じ考えをもっている子が「同じだ。」と話し、わからない子が「わからない。」と話すことがその子の学びである。それを教師の都合で、言わせない投げかけをする。当然決められた時間の中で行う授業だから、そんな発言は聞いていられないという言葉が返ってきそうだ。しかし、このことは、ハンドサインで解決できる。つまり、同じと考えた子は、「同じだ。」というサインを出し、わからない子は「わからない」というサインを出す。それを教師や子どもが確認する。
 どの子も大切し、切り捨てしない投げかけをして子どもの学びを保障しなければ、傍観者となっていく。つまり「参加して学ぶ」のではなく、「聞いて学ぶ。」子どもになってしまう。
 それを避けるために私は、「他の子は?」と投げかける。もし、違った意見を出させたければ、「違う」とか「つけたし」と言ったハンドサインを出している子どもを指名すればよい。必ず挙手で自分の考えを表現できていれば、すぐに欲しい意見を見つけ出すことができる。
 意図的指名とは正にこれだ。同じ意見でも聞きたい時もある。友だちの意見を聞いて考えが変わったら、なぜ変えたのか知りたくなることもある。そんなときもハンドサインの変化から探し出すことができる。ハンドサインを上手く併用しながら、一人一人の子どもの考えを生かして授業を進める。これは、「他には?」とわかった子や新しい考えをもった子だけを指名して学習を進める授業とは質が違ってくる。ハンドサインを使いこなすことで授業が変わる。そのためにはまずは、どの子も自由に自分の考えを言わせる「他の子は?」を大切にしたい。

自主学習の勧め

2008-05-29 | 育児
補習はしなければ学習したことは身に付かない。それも自分に合った補習でなければならない。一番学習したことが身に付くのは自分に合っていることだ。自分の力を見極め,何をすべきかを考えることができるようにすることが学習の自立。人に言われて自分の力が分かるというものでもない。いつもまでも「あれをしなさい。」「これをしなさい。」と言われたことしかできない子どもでは,いつまで経っても学習の自立はない。自ら学びたいという気持ちをもち,「何をどの程度すれば,自分に力がつくのだろう。」と考えたり,「これだけすれば,身に付く。」と実感したりして学習を進めることが自ら学ぶ力となる。
 何でもいいということではない。例えば,繰り返し。繰り返しをすれば定着を図ることができることは,誰でも知っている。だから,子ども自身にもそれを実感させたい。自分が何回繰り返すと大体身に付くのかを子ども自身は知っているだろうか。先生が3回やれというからやると言われるからするだけで,本当に自分にとって3回がいいのかという問には,答えていない。また,1回をどの程度の早さでやれればよいのかも不明確である。一律に3回繰り返せばよいというならばこれは,教師の傲慢でしかない。
 また,子どもたちの考える力を身に付けさせるためには,この繰り返しだけでは不十分だ。まとめの勉強をさせることが大事である。学習したことを自分なりにまとめてみると,自分が分かっていると思っていても分かっていなかったことが見つかったり,どのように自分が分かっていったのかその足跡を辿ることで,考え方が明らかとなったりすることがある。
 自主学習では,「繰り返しの学習」と「まとめの学習」の2つの学習を自分にとってどんな取り組みをすれば,身に付くのかを試行錯誤しながら見つける機会にしたい。
 よしやってみようという気持ちにさせるのが,学校での授業。この授業が充実しなければ,家庭に帰ってまで勉強したいという気持ちにはならない。
 「このことを家庭でもやってみるといいよ。」
 「今日の勉強をもう一度家庭でまとめてみるとよくわかるよ。」
 「ここが大事。これを繰り返すといいよ。」
などと家庭で学習できそうなことを授業の中で示していくことで,家庭での学習とつなぐことができる。
当然,家庭学習をしてきたことへの評価も大事である。
・家庭で自主学習に取り組んだことへの評価
 点検活動を確実に行い,取り組むことへの意欲を持たせたい。
・自主学習で取り組んだ内容への評価
 内容や表現について紹介する場を設け,質を高めていけるように取り組んだ内容にレベルを設け,段階的な指導を行いたい。
・家庭学習した内容が身に付いているかの評価
 授業の始まりなどに復習の場面を作り,家庭での学習の成果が出せるかを問いたい。「やってよかった。」という気持ちを持たせることが次の取り組みに役立つ。

 家庭学習は家庭学習だけでは成立しない。授業と結びついて始めて成立する。このことは,日頃の授業の質を問われることになる。

悪循環を断ち切る

2008-05-28 | 育児
 宿題を忘れる→教師は,忘れないように保護者に伝える→保護者は叱り,夜遅くまで教えて宿題をさせる→寝不足になる→朝の体調が優れない→学校で居眠り→出される宿題の内容についての理解が不十分→宿題ができない→宿題を忘れる(又は時間がかかる)→保護者に伝える→保護者は,もっと必死になって努力する→やらせられる宿題が辛く,やる気も失せる
<教師の子どもへのイメージ>
・何度言っても宿題を忘れる。
・授業中の学習態度が悪い。
・保護者は協力的でない。
 この悪循環の原因は、「宿題」
 子どもに合った宿題になっていなければ、子どもの負担が大きい。子どもをよくつかんでその子に合った宿題を出せば、子どもは安心して自分で取り組める。生活のリズムを崩してまで取り組ませないとできないような量や質の宿題を子どもに家で取り組ませることは、教師の傲慢でしかない。
 家庭学習は、あくまで補習。家庭に協力を得てやっていただくもの。させない、しない家庭が悪いと考えているようでは子どもの力を伸ばすことはできない。子どもたちが勉強を好きになり、もっと勉強したいという気持ちにさせて、家庭に帰したい。それが教師の力量だ。
☆できる量や質に宿題を変える→宿題ができる→自信をもつ→学習への取り組みがよくなる→教師は,保護者に伝える→保護者は子どもを褒める→一層自信をもつ→宿題への意欲が増す

生みだす喜び

2008-05-27 | 育児
 新しい問題を解決するためには、いろいろ考えることがある。数人で考えているといろいろな視点からの追求が始まる。
「これは?」「こちらは?」と次から次への解決しなければならないことが持ち上がってくる。それらを一つずつ丁寧に考える。
 丁寧に扱うのは、その視点を出してくれた仲間を大事にしたいからだ。
 自分にはなかった新しい視点を考えることは、自分にとって新しい挑戦となる。どう考えたら、納得できるのだろうと精一杯考える。
「これはどうだろう。」
「いや、納得できない。」
「それなら、こう考えたらどうだ。」
などと互いに納得できる所を見つける努力をする。
 時間を忘れて話し合いが続く。
生み出したときには、互いに納得し、嬉しい気分になる。できたという充実感を味わうことができる。
 この議論は、子どもたちが毎日の授業にも通じる。
 毎時間出される課題に向かって、自分なりに精一杯述べ、話し合いの渦の中にいる自分が、生み出した考えに納得し、嬉しい気分になる。この気分のよさは「わかった。」ことに他ならない。
 自分自身の新しい問題解決に取り組む姿を子どもに置き換えて考えることができれば、一人ひとりの学びに焦点を当てて授業を作り出す教師になる。 

自分らしさ

2008-05-26 | 育児
 いろいろな立場の自分がある。子どもとの関わり,親との関わり,職場の仲間との関わり,地域住民との関わり,家族との関わり,近所の方との関わり。それぞれの関わりの中で自分の役割がある。どこを切っても同じ自分が出てくるだろうか。それともどれも違う自分が出てくるのだろうか。
 本質を見つめれば,きっと同じ自分が出てくる。受けとめる側とは関わりなく,自分らしさはどこを切っても同じ自分が出てくる。いつでも,どこでも,誰にでも自分らしさが出せたらどれだけ楽に生きられるだろう。肩書きや立場にとらわれ,自分らしさが出せないとすれば,その時間は自分にとって有意義な時間とはならない。
 うまく自分らしく子どもや親,同僚,地域,家族,ご近所と関わる自分にしたい。相手にそれが伝われば,相手も安心して関わることができる。信頼を得ることもできる。そして,自分を裏切ることもない。

子どもの気持ちになって

2008-05-25 | 育児
 大人と子どもの大きな違いは,体験の量。成功の体験も失敗の体験もかなり違う。体験をすることが言葉を獲得したり,見方考え方を深めたり,感情を豊かにしたりする上で大きな影響を及ぼす。
 大人の都合で,子どもの体験を制限することが,その後の子どもの発達に大きな影響を及ぼすことになる。
 愛情で子どもを包み,成功したら一緒に喜び,次の頑張りを考え,失敗したら一緒に悲しみ,一緒に考える。そんな営みが体験の豊かさを生みだす。
 時間がないから,忙しいから,子どもには子どもの生活があるからなどと理由をつけ,子どもを見守る努力を放棄していては,体験から学ぶ質が違ってくる。
 一緒に体験できなければ,せめて子どもから体験についていつでも聞く親でいてほしい。
・ご飯を一緒に食べながら,話をする。
・仕事を一緒にしながら,話をする。
・お風呂に一緒に入りながら,話をする。
・一緒に床に入って,話をする。
 ここは,マナーや仕方を教える場ではあるが,会話を楽しむ場ととらえたい。
 「へー,そうなんだ。」「そうなの。」「それから,どうしたの。」「すごいね。」「大変だったね。」「それなら,どうする。「どうしたら,いいかな。」「それは,困ったなあ。」などと子どもの気持ちに寄り添いながら,自分も一緒に体験した気分になりながら,話を聞くと,どんどん会話が進んでいく。「お母さんは,こう思うよ。」「お母さんでもそうするよ。」などと時々自分の思いや行動も伝えていく。体験を言語に置き換えることで,豊かさは一段と増していく。
 3つ児の魂百までとはよく言われるが,小さい頃の体験がそのまま,子どもの生き方に大きく影響していると考えるとここは大事にしたい。

自分に何ができるか

2008-05-24 | 育児
 人は自分の思い通りには動かない。相手を動かそうとすれば,かなりのエネルギーが必要となる。うまく行かなければ,愚痴になるかと言えば,そうではない。
 ある活動への取り組みについて保護者の方が,「あの方がこれから1年かけてどのように変わっていくかが,楽しみです。そのために私には何ができるのか考えています。」と話された。
 変わらない相手を攻めることなく,自分の問題として考えられるなんて,何と素敵な生き方をする人なのだろう。きっとこの生き方ならば,ストレスはたまらないのではないだろうか。自分にできることを探す努力は,ストレスにはならない。むしろ何ができるか見つかったときの発見の喜びは大きい。試行錯誤している時も決して辛いことではないだろう。そして,変わった相手を見たときには,きっと心から喜べるだろう。
 見方や考え方が変われば,生き方も変わる。何を大切に生きていくかはその人次第。いろいろな人と出会ったとき,自分の生き方を見つめ直す機会とするか否かも自分次第。この感覚があれば,子どもは自分を映す鏡だと言われることも納得できる。

任された仕事だけしても

2008-05-23 | 育児
T「掃除中だよ。掃除しないの。」
P「もう、自分の仕事は終わったもん。」
T「でも、まだみんなやっているよ。」
P「だってもう自分の仕事は終わったもん。」
T「掃除をしてください。」
P「わけ、わからん。」
T「きれいになるように自分で仕事を見つけてやってください。」
 よく見かける風景だ。自分に任された仕事だけをすればよいと考えているとこんな会話になる。人の仕事を手伝うことも、仕事を見つけてすることもない。
 最近は、子どもだけの問題でなく、大人でも同じだと感じる。自分に任された仕事だけしていてもいい仕事はできない。少しでも互いの仕事がうまく回るように気を配ったり、人の仕事を見ながら効率よく回るか自分の仕事を見直したりしながら任された仕事を変えていく努力をしなければいい仕事にならない。
 みんな一緒になって一つの仕事をしているという感覚がもてないうちは、いい仕事をすることはできない。どうすれば、仲間を意識した仕事ができるか。じっくり腰を据えて考えよう。

自立への基礎

2008-05-22 | 育児
 久しぶりに生活科の授業を見せていただいた。子どもが生活科で学んだことを自分の生活に生かせるように必死で取り組ませる営みをさせることが教師の仕事だと思う。できない子どもができるようになっていく過程で何をするのだろう。わからないと困っている子どもに何をするとよいのだろう。
 教師が示した形に近づこうと、必死になってがんばろうとする子どもたち。形がなければ、もっと素直に自分らしく取り組んでいくように思う。形を子どもたちが作っていくことが自立ではないだろうか。
 その形を作るときに必要な知恵や技能が自立への基礎となっていく。評価も同じ。子どもたちが生活化していくために必要な評価でなければならない。一人一人の実態をつかみ、その子の自立を目指して、その子に合った支援をしなければ自立は見えてこない。
 生活科は、すべての教科の基礎となる学習ができる場。生活科は生活科の中で完結するのではない。生活化したときに完結する。生きて働く知恵として学習したことを身につけさせたい。
 活動は見えるが自立が見えない。だから、評価を大事にするようになってきた。子どもの目指す姿がみえない。だから、願う子どもの姿を見取ることが大事にされるようになてきた。
 生活科でねらっている自立への基礎をじっくりと見つめ、具体化することが教科の本質からずれない教科の授業になるのではないだろうか。これは、どの教科にも通用する見方でもある。まさに基礎だ。

子どもを愛せない?

2008-05-21 | 育児
 「この子がいるから」「この子がいなければ」・・・こんな言葉を担任に伝える保護者がいる。「自分が産んだ子どもを愛せないなんて信じられない。」と担任は話す。
 子どもを愛せないわけがない。それなのになぜ?
きっと子どもを産んだときには、こんな思いではなかったはずだ。何かのきっかけがあって「愛したくない。」「愛せない。」自分だと決めたのではないだろうか。
 母親の周りの重圧、子育てへの不安、生活の不安などさまざまな要因があったのに自分の問題として解消できなかったのではないだろうか。解消の方法として一番弱い子どもに矛先が向けられているように思う。
 母親の気持ちもわからない私の勝手な解釈ではあるが、子どもを愛せないはずはない。自分から逃げないで、何かが自分に足りないと思ってほしい。きっと愛せない自分を責めて苦しんでいるに違いない。足りないことを補うだけの支援がないのでは。助けられることはないのだろうか。子どものためにも何かできないだろうか。そんな気持ちが担任と話し合う内にこみ上げてきた。

評価されること

2008-05-20 | 育児
 私たち教師は、評価することには慣れているが、評価されることにはあまり慣れていない。自己評価は、他者評価を加えないと質は高まらない。
教師としての質を高めるためにも自己評価だけで済ませていてはいけない。必ず他者評価を加える必要がある。そこで、人から言われたことを謙虚にとらえ、自らの生き方とつなぎながら見直してみる生き方が必要となる。
 何かあったときにそれを自分事にすることは、他者評価を取り入れることにつながる。他人事にしていると自分を見つめることはない。そのため、自分の質を高める機会にはならない。逆に自分事にすれば、質が高まるかといえばそうと限らない。自分の見方から分析するため必ずしも高まるとは保証できない。だからこそ、自分を高めるためにも他者からの評価は大事になる。自分にはない新しい見方で指導されることが自分を高めることにつながる。
 評価されたことをどのように生かすかは自分次第。ここにその人の生き方が現れる。評価されることに慣れることは、気楽に自分をさらけ出せることにつながり、無理をせず評価されたことに取り組めるようになる。
 誰もが完璧な人間ではない。評価されることをプラスに捉え、前向きに生きていきたい。

自分だけが頑張っているわけではない

2008-05-19 | 育児
 「私がこれだけ頑張っているのに,なぜあの人は?」という愚痴を聞くことがある。同じ仲間だから,同じ立場だから同じように動いていないと許せない。その気持ちも分からないわけではない。
 頑張りをうまく発揮できるのも一つの能力なのだろう。なかなか頑張りが見えない人,うまく頑張りを見せる人等様々である。
 一生懸命に考えて慎重に事を進めるタイプであれば,考えている間は他の者にはその頑張りは見えてこない。思いつきですぐに動くタイプであれば,動きが見える分,他の者には頑張りが見える。
 自分ができるから,人もできるだろうと思っていると,できない姿に腹立たしさを覚える。違っていていいんだと言われても納得できない。
 しかし,相手の立場に立ったり,相手の動きを丁寧に見ていると気付かなかった頑張りが見えるようになってくる。ひょっとすると自分には欠けている頑張りも見つけることができる。
 私の中にもまだまだ許せないと思ってしまう自分がある。もっと相手との距離を近くし,よく見て頑張りを見つけよう。

あなたの役に立っている私だろうか

2008-05-18 | 育児
 今の自分が、「人の役に立っているだろうか。」と考えることはあるだろうか。自分のしたいことをすることとは違う。人との関わりから考えると「助けてもらった(教えてもらった)。」事から、相手が人を助けられる(教えられる)自分を発見できれば、役に立っていることになる。また、「競い(協力し)合えた。」事から、相手がライバルや仲間ができることで、事をするやる気が高まり、事の進め方が変われば役に立っていることになる。そして、「助けてあげた(教えてあげた)。」事から、相手が助かったと思い、道を開く助けになったと感じたならば、役に立っていることになる。
 いずれにしても、役に立つか立たないかは相手次第。何が役に立つのか、立たないのかもわからない。だから「人の役に立っているだろうか。」と考える必要はないということではない。
 「人の役に立っているだろうか。」と考えて、相手を見ていると見えるものが違ってくる。相手の喜ぶ顔を見たとき、「してよかった。」と感じることができる。また、相手から「ありがとう。」の声がかかると、「したことはよかったんだ。」と自分のしたことに自信がもてる。また、相手がしていることや言っていることの中に自分がしたことや言ったことを発見したとき、役に立っている自分を発見することができる。
 つまり、自分のしたいことだけを見ていると自分は見えないが、「人の役に立っているだろうか。」と思うと自然に相手の一挙手一投足が気になり、相手の中にいるはずの自分を探そうとする。
 ボランティアをするのもきっと役に立っている自分を発見することで、自分に自信をもったり、より確かな自分を発見したりするためなのではないだろうか。
 教育は、自分探しの旅だといわれる。人と関わることの中に教育はある。教える側も教えられる側も同じだ。まさに今、自分探しをしている自分がここにいる。

傍にいることが

2008-05-17 | 育児
 「困ったときにすぐに助けてもらえる。」「ちょっと話を聞いてほしい。」「あなたが傍にいるだけで、なんだかほっとする。」・・・そんな言葉が聞けるのも傍にいるからだ。傍にいることは、信頼を作ることにもなる。
 「助けてほしいときに傍にいないことがどれだけ悲しい思いになっているのか。あなたは知らないでいる。」「相談に乗ってほしいのに傍にいない。」・・・大事なときに傍にいないことが、どれだけ期待を裏切ることになるのか知らないでいる。
 いつでも引き受ける構えがあるよと構えているだけでも違ってくる。人は一人では生きていけない。誰かが傍にいるだけで、力が沸いてくることもある。
 ただ、傍にいるだけなのに喜んでもらえる幸せ