アメノチハレ

都志見隆の果てしない日々の日常

西郷さん

2012年05月25日 | Tsushimi Takashi
赤坂で地下鉄を降り、3bの出口を上がると
すでにたくさんの人だかりが見えた。
赤坂Blizで西郷輝彦LIVE ACT8を観た。

昭和39年といえば私がピカピカの一年生として
ランドセルを背負い始めた年の頃。

最近で言えば、先日ここにも書いた
「三丁目の夕日”64”」とトヨタパブリカ
そして父が32歳 母が28歳である。

広島市内を流れる太田川下流沿いのまだ建物があまり立ってないような土地に建った
5軒の建て売りの一つを両親が100万円ちょっとで買って間もない頃か。

母の弟である叔父がまだ独身の頃は、母につれられアパートによく遊びに行った。
大きな家具のようなステレオが自慢で
毎回レコードの埃を丁寧に拭いて静かに針を落とす動作が
幼い自分にはとても魅力的な大人の仕草として憧れた。

その中のレコードにあったのが当時のヒット曲の中の
この一枚だった。

西郷輝彦/君だけを

ちなみにこの時代に流行った歌は数多く
今振り返ってもこの時代はまさに歌の宝箱だった
青春歌年鑑

将来何になりたいと聞かれたら
パイロットかバスの運転手と答えていた時代だが
あれから30年後の1994年に、その西郷さんに作品を
書かせていただくなんて想像出来るはずもない。


<1994 別れの条件>
丁度、西郷さんの30周年と重なっていたこの年、
レコーディングにお邪魔出来なかったが
その翌年にリリースされた「時に抱かれて/名画座」と
レコード2作品に渡って作曲させていただいた。

初めてお会いしたのは
確か30周年のパーティーのような場所で
メーカーディレクターからご紹介いただき
ご挨拶させていただいたと思うが、
その後、TBSの「輝け隣太郎」というドラマの主題歌を
やらせて頂いた関係で参加した打ち上げパーティーの席で
偶然にもそのドラマに出演されてた西郷さんとまたバッタリ。
最近、よく会うねと声をかけて頂いた。

長い歳月が流れ、いろんなご縁もいただき
(長くなるのでその詳細は割愛しますが)
昨年また曲のご依頼をいただきました。
当時の事や楽曲の事などを非常によく覚えてくださっており
感謝の一言に尽きる想いでした。


<2011 オリオン急行>

丁度、舞台を長くやられていた後の時期でもあり
芝居の台詞の発声法で、少し喉の調子もくずされている中
何度も何度も 延べにして何テイク録ったのかわからないほど
ボーカルブースの中で、もう一回 もう一回と唄っておられた。

ヒット曲を多く持たれている人に書くというのは
中々難しい。
曲のパターンとしてはやり尽した感もあるからだ。
そんな手探りの中で、今の時代にどんな歌を唄われていたら
私自身が「いいな」と思えるんだろうと
色々やってみる。
平均点を狙うべきか少し冒険しようか。。
そういう時、テーマの根幹である詩が先にあるほうが
時代の作品としてはわかりやすい場合もあるが、
10数年振りという緊張感の中
書かせて頂いたひとつのメロディーを幸運にも
作詞の田久保真見さんの詩によって
とても素敵でロマンチックな歌へと仕上げて頂いた。

昨夜、19時ぴったしに始まった赤坂BLIZでのライブ。
ラテンバージョンの星のフラメンコで幕を開けた。
相変わらず洋楽の英語の抜けも抜群だ。

余談だが、西郷さん自身が若かりし頃ステージでうたっておられた
トムジョーンズの「Love me tonight」を
作曲の参考にとメールに添付して送って頂いた事がある。
お世辞ではなく、日本人と感じない程
英語の発音と声のトーン、リズム感が素晴らしかった。

ご本人の大好きな洋楽の数々がちりばめられた中
ライブの中盤で今年の4月に発売された新曲
「旅のあかり」を唄われた。

<2012 旅のあかり>

この歌は作詞の喜多條忠さんと初めてご一緒した作品だ。
いつも鼻歌のように唄える曲を作曲の一つの目安としているが
どうも曲が先だとメロディが角張ってしまいがちになるところを
作詞家の方々が筋肉を柔らかくほぐすように
優しく歌に仕上げてくださる。
団塊の世代に限らず、
恋や友情そして家族などへの想いを共有できる
とても心を静かに出来る歌に仕上がった。

昨夜唄われた「旅のあかり」は手前味噌で申し訳ないが
とても自分の心に響いた。

当時からの根強いファンの方も大勢おられる中
その後ろの方で聞いておられる世代の若いファンの方達にも
届くように一生懸命に唄っておられる姿がとても素敵だったな。
言葉の節々に感じる西郷さんの優しさがとっても暖かい。

しかし17歳の頃の曲を60歳過ぎても唄える事の素晴らしさってのは
何だろう。
サンミュージックの重鎮の方が
当時のキーと同じまま唄っていると仰っていた。
年を重ねられてもあの声のトーンは健在だ。
音楽はトーンでロックは時代を突き抜ける心意気なのだ。
その精神が歌や曲をいつまでも輝かせる。

来年は芸能生活50周年を迎えられる。

あのバイタリティーと情熱と、
そしてあの音楽好きな姿を実に見習いたいと思います。

そして、何よりも健康に留意され
是非50周年の節目に大暴れしていただきたいと願うばかりです。

感謝です。
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森羅万象

2012年05月23日 | Tsushimi Takashi

日食三日前の本屋の軒先では山のように積まれた日食グラスを
大体の人々は横目に見ながら通り過ぎていたのだが
前日の夕方あたりになると、多くの人が行列を作っていた。
何を隠そう、自分もその行列に並んだ一人だった。

少し曇り気味であった空も不思議なもので
金環日食になる七時半頃には見事に雲が割れた。

自ら自転しながら太陽の周りを公転する地球の
その周りをくるくる回る月が
太陽と真正面に重なる瞬間が近づくにつれ
、そうか..もう生きているうちに二度と見られないのならと
前日に慌ててグラスを買いに走った。

太陽と地球と月の軌道と運動(天文教材)2012年

この透き通るような青空の彼方にいくつの星が浮いているのだろう。
どんなにあがいたって、人間が創造できない果てしない時間と
空間の狭間の森羅万象。
重なった二つの星を見ながら、この自然の法則に
改めて人間の無力さを思いながらも
早朝の我が胃袋は勝手に空腹を告げるが如く、クゥ~~~と鳴る。

嗚呼、あの銀河鉄道999が突然現れてくれないものだろうか。
そうしたら、なんとしてでもパスを手に入れ
メーテルと一緒に星から星へと旅してみたい。

以前にもこのブログに書かせて頂いた事がある
銀河鉄道999の作者の松本零士さんの言葉を思い出した。

亡くなった作詞家の冬杜花代子さんのお別れ会で
最後にご挨拶された松本氏が
「冬杜さん、いつか時空が重なる時
きっとどこかでまた出会えると思う」といった感じの言葉で
締めくくられた。

松本氏に限らず、何かその作品を通して
大いなる宇宙の森羅万象を伝える役割を担っている人々が
少なからずおられる気がしてならない。
漫画に限らず、文学 絵画 スポーツなど
色んなジャンルで活躍される方々が
もしかしたら自己の活動なり作品を通して
この世の中に色々な事へのヒントを提示しているのでは
ないだろうか。
ご本人達がその役目を自覚されているかどうかは
知る由もないが
手塚治虫氏の「火の鳥」などは読みかえす度に
その中のメッセージのような事柄に幾度となく立ち止まった。

宇宙は永遠のロマンだが
我々の日常ひとつとってみても
そこには宇宙の営みと規模は違えど
節々に何かメッセージがあるような気もする。

人との強烈な出会いもそうであるし
山を越えなきゃその先の豊かな湖の存在だってわかりゃしない。
宝くじなんて当たる確率は非常に低いけれど
それでも買わなきゃ永遠に当たらないんだよと、
つまり行動する前から自分で答えを出すなんてのは
ナンセンスだと、さりげなく言ってくださった
とても信頼している某メーカーの制作本部長の言葉のように
人生の森羅万象はすべて自分がそれとどう向き合うかによって
見え方も大きく変わる。

しかしながら実際は
今日も、どこかにいいメロディーは落ちてないかと
立ったり座ったり、歩いたり立ち止まったり
そして見上げてはうつむき
信じられない程の狭い空間で
まったく進歩のない日々を送っている。
まったくいつまで繰り返すのだろうか。
さすがに凹む。

最近のNHKのソングズだったか、
長谷川きよしさんの「Somewhere Over the Rainbow」
素敵でしたね。
色んなアーティストのOver the Rainbowを聴いて
いつの間にか自分でも唄いたいと思うようになったと
仰っていた。

ここでも何度目かの登場 クラプトンのtune
Eric Clapton - Somewhere Over The Rainbow

無人島にも、銀河鉄道に乗る際にも
ギターとこの曲だけは必ず持って行こう。

そういえば万象、いやmanzoという後輩が私の仕事場を訪ねる際
手土産は何がいいかと聞いて来た。

ん~、伊藤園の充実野菜という野菜ジュース....一年分でいい。






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五月晴れとドラコンボール

2012年05月18日 | Tsushimi Takashi
たとえばアウフタクト(あるフレーズが、小節の最初からではなく、
その前の小節の途中から開始すること)で始まるメロディーの
最初の踏み台の音などはとても重要な音なのだが
それをおろそかに唄う歌手は比較的多い。

漠然と、下の音からという感覚的な解釈で、
ミなのかソなのかラから始まっているのか
なんとなく音程になっていなくてわからない場合もある。

そこを指摘すると決まって
「音程よりも雰囲気重視で録りたかったので」という 
まったく理由になってないコメントが
ディレクター連中から返ってくる。

歌っていうのは音程も雰囲気も同居するから人の心に伝わるんだがね。。


<OKINAWA-THE ATTA TERRACE CLUB TOWERSにて>

早朝に目を覚まして窓を開けた。
風の温度がちょうどいい。

直線的な太陽光をほどよく冷やして
木々を揺らせるこの時期
特に初夏にむけて吹く風の心地よさは格別だ。

音楽というこの仕事も、他の仕事と一緒で
一つの作品が世に出るまでに色んな人達がそこに絡む。
それ故、たとえば同じ自分の作品でもそれぞれ解釈が異なっていたり
それに対する対処や向き合い方まで千差万別だ。

曲も詩もアレンジも、目の前に上がったものが
唯一の答えかと聞かれれば、そうでないかも知れない が
少なくとも今ある条件の中で精一杯の誠意と技術と、
そしてただただ信じている自身の直感と愛情で
作り上げたものを答えにしてゆくしかない、
そんな仕事をしている。

老若男女のアーティスト問わず、
間違ってメロディー覚えてしまったから や
本人がこっちの音のほうが唄いやすいから という理由で
メロディーを変えていいかという類いの問い合わせが
不幸にもある。

もちろん、唄いやすさなども含めて
フレーズやメロディーについての変更や
もう一考という提案に関しては
その理由がはっきりしておりこちらが納得すれば
何度でも真正面から受け止め応じている。
芸術的な見地などは毛頭なく、単純に
直しをすることで一枚でも多く売れる可能性を得たいからだ。

しかし現実は
そこに音楽的な事をまったく含まない事柄や
音楽的ではない事を、
音楽として押し進めようとする人々の
プロ意識のなさが堂々とまかり通る。

たかが一音だって一曲の中で
ちゃんとバランスを保つ役割をしていますからね。
はいそうですかとすぐに変えれるような
レベルの仕事はしていないのだが。

愛は押し付けるものではありませんが
あまりにもこちらの気持ちを理解してもらえないと
時には男だって女々しくもなるものです。

もちろん泣きゃあしませんがね。

そういえば先日、仕事場に作曲の後輩が来て
こんな事を言ってました。
「いやあ、昨夜 とあるアマチュアバンドを
ライブハウスに聴きにいったんですが、
なんか知らんけど、いいんですよ~。
同じ音楽でも僕のやっている事が嘘に思えてきました。」

わかりますね その気持ち。

音楽っていうのは本来
自分が音楽に出会った当時に覚えた
とにかくかっこよくて胸がキュンとして
鳥肌が立ったものなんですがね。

女々しい気持ちになりそうな時は
いつもそれを思い出して お互いがんばるさ~。

ところで五月晴れって
五月の爽やかな青空をさすわけではなく
旧暦五月、つまり、新暦の 6月から 7月にかけての
梅雨時の晴れ間のことを指すのらしいですな。

ま、しかしこの時期の青空は天に抜けるような透明感。
運良くこの爽やかな風に乗ると
私の古いクラブで軽く振ったドライバーショットも
260ヤードくらい飛んで
久々のゴルフコンペでドラコン賞を頂きました。

そんな事がたまにあるから 
ゴルフってやめられないのです。

Have a nice weekend .
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お天道様が地球を見捨てる頃

2012年05月14日 | Tsushimi Takashi
連休中、少し根を詰めたせいか 最近ではたまった疲れも
小出しに身体に表れるようになり 
おまけにこのところの不安定な気候の変化も相俟って
まるで一日の中に四季があるように
浮いたり沈んだり。

昨日レコーディングで作詞家の池田充男先生とお会いした。
今まで中々お会い出来る機会もなかったのだが
今回ご縁あって少しポップス寄りの響きのある作品を一緒に作らさせていただいた。

ちょうど自分の父親と同じ昭和7年生まれということもあり
また大変に曲の事を褒めて頂き 
先日のオケ録りの際に初めてお会いした瞬間から
なんだかもう昔から存じているかのようなファミリアなオーラを
とても近くに感じていた。

歌が入って完成した作品を聴きながらも、次の事を考えておられたようで
帰り際にトイレの中で、「次はこんなの考えてるんだけどどうかな」と
瞳を熱くして語っていただいた。

そんな姿がとても素敵で、
昔はそんな気概と意欲のある作家達が寄り集まって
どうしようこうしようと歌の時代を作ってきたのだなあと
改めて感じると共に、
また是非ご一緒させて頂きたいという気持ちでいっぱいだ。


友人であり先輩である作詞家の康珍化さんからお手紙を頂き、
作詞家の戸沢暢美さんが3月29日に食道がんのため
慶応病院にて永眠された事を知った。
享年52才であった。

私自身がご一緒した作品は決して多くはなく、
それも80年代が中心だったと思うが
彼女の才能への想いは
出来有ればもっともっとご一緒したかった
という一言に尽きる。

結局は、お会い出来ぬまま逝かれたが
手紙によると亡くなる間際まで気丈におられたとあった。

康珍化さんの手紙の最後に
「戸沢さんは何も言わずに立ち去りました。
伝えたかった事はたくさんあったでしょう。
詩は言葉と言葉の間に生まれるものです。
何も言わなかった戸沢さんが無言の言葉の間に込めた気持ちを
みなさんの大きな手のひらで掬いとっていただけたなら
友人としてこれ以上うれしいことはありません」
とあった。

数多くの知人や関係者に送付されたであろう
A4サイズの紙7枚にびっしりと書かれた康さんの想い
そしてその優しさに、いっとき胸が熱くなりました。

戸沢さん ありがとう。
安らかに眠ってください。


月に一度くらい、昔お世話になった方から手紙を頂く。
励ましの言葉あり、今の日本への憂いあり
毎度楽しく手紙のやり取りをさせて頂いている。

今回は手紙のタイトルが
「お天道様が地球を見捨てる頃」と
原稿用紙の一番最初にあった。

手紙の内容はタイトル通りの直接的な事は何もなく
日々の徒然に感じた事などが面白おかしく書かれている。

「さて、貴兄はお元気にご活躍の事と存じます。
私はやはり歳の故でしょうか、満身創痍で毎日のように
整形、整体、胃腸膠原等などの医院通です。
まだ健保があるからよいのですが、これが10割負担となると
もう死刑宣告と同様ですね(笑)」からはじまり達筆でびっしりと。

昔はその笑顔のどこかにクールな眼差しをずっと感じていたお方だったが
実際には本当に心より応援していていただいた事が身にしみてわかり
どこまでいってもお世話になってきた先人達の度量の深さに追いつけないでいる。

人への優しさは相手に気づかれない程価値があるのだと
いつも肝に命じているつもりなのだが
まだまだ自分は
毎度の事のように情けない男でいる。

いつも花に水をやっているのは自分のほうだと
そんな事さえも言葉に出さずに黙ってそっとやれないものか。
このあほんだら。
黙して行動すれば相手はその気持ちを心で気づく。

そんな静かな優しさに触れると、身体の芯がジンと暖かくなる。

お天道様もおそらくそんな眼差しで
地球の再生を目論んでおられるに違いない。

そろそろ我々もそれにちゃんと気づいて
しっかりとした覚悟を決めなくてはいけない時代になってきたのだ。


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80

2012年05月01日 | Tsushimi Takashi
広島に住む父に送っておいたバースデーカードが届いたらしく
当日の朝早く電話をくれた。
「おめでとう。いよいよ80歳になったのう。」
「ありがとね~。これからも健康で90まで生きにゃ~いけんのう」
「どうせならお袋と二人で90まで行ってみいや~。
自分一人が健康であってもバランス悪かろ。
片方が欠けたら、フニャフニャになるで~」
「お互いに労りながら、元気でゆっくり暮らせ~よ!」
「はいはい、たかちゃんも、元気でやりんさい。
はいはいどうもありがとうございました!」

父との会話の最後は、
何故だかいつも父のほうが敬語で締めくくる。

定年退職したときゴルフセットを贈ったら
とても喜んでくれて
帰省の度に、練習場へつき合っていたが
いつからかゴルフに関する会話もなくなって久しい。
8年前に一度、軽い脳梗塞をやってからだろうか。

退院して当分は呂律もゆるくとても心配した。
「自分では意識せんところで何故か笑けてしまうんよ」と
可笑しくもないのにたまに会話の途中でケケケっと笑い始める。
訳もなく笑い始めるそんな父の隣で
母がこちらに悲しそうに目配せをする。

あの時、母が機転を利かせてすぐにタクシーを呼び
病院につれて行かなかったら
現在父はこうやって80歳を迎える事が出来なかったかも知れない。
あれだけ食事の時間や日々の決め事に規則正しい父が
「眠たい。眠たいけ~もうちょっと寝かせてくれ」と
それが2日間続いた。
一日目は、ただの疲れだと思っていた母だが
二日目に、なんかおかしいと直感したという。

私が学生時代に使っていたエキスパンダーで
最近は何回、腕立て伏せは何回 腹筋は何回と
あれだけ自分の健康を自負していた父だが、
その父自身が一番ショックを隠せず
検尿用の紙コップを持って
よろけながらトイレに行く時の後ろ姿が、
何とも言えず哀れで
今でもあの姿は よ~忘れんよと、母が染み染みと言う。

あの時父は紙コップと共に、
予期すらしなかった人生の試練の重みに
押し潰されそうになりながら
必死で耐えようとしていたに違いない。

医師には認知症の可能性大だと言われ
私自身も覚悟をした。

少し調子に乗って油断をし、漬け物や刺身に
醤油をかけすぎたりするといつも
「親父が今こうして笑うて居れるんは、半分はお袋のお陰だよ」
と、塩分を制す手段としていつもあの時の話をする。
これがいちばん効き目があるのだ。
今では本当に笑い話のように振り返る。


<父の故郷 島根への墓参りにて>

何はともあれ あなた達の笑顔と元気にいつも感謝です。


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