クラシカルミュージシャン !
クラシック音楽を中心に、いろいろなことに思いをめぐらせてゆきたいと思います。お気軽にお立ち寄りください。
 



ブルックナーの音楽のことだ。

「こう、なんていうか、ずーっと、持続しているんですよね」「音が切れたりしても、根っこのところではつながっているような感じがするんです」

練習指揮のタナカさんは、そう言う。鋭い目で遠くを見つめる横顔は真剣だ。
明るく柔和な指導姿勢からは想像しにくい、求道者のもつ覚悟のようなものが伝わってくる。

持続力をどう音楽に投影するか。

大きな課題を自ら背負った彼女の挑戦は、始まったばかりだ。



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練習指揮のタナカさんは、明るくユーモアのあるひとである。

春の定期演奏会で指揮をする正指揮者のアシスタントとしてやってきた。
これまでにも一度お世話になったことがあって、若いながらも真剣な棒さばきで団員の共感をつかんでいる。

練習では、細やかな神経を使って、雰囲気を大切にしながら進めていく。
細部への指示を入念にしつつも、女性らしい風貌とは裏腹に骨太の音楽作りへの志向も感じられる。

楽譜には、練習時のために、音楽的なまとまりごとにアルファベットや数字で区切られていることが多い。曲の途中部分から練習を始めるとき、指示しやすくするためだ。

が、T、B、D、Eなど、発音が紛らわしいものは、音楽家にちなんで「ベートーヴェンBから」「ドビュッシーDから」などと言ったりする。ベートーヴェンやドビュッシーの頭文字がそうだからだ。

そこで標題の発言である。
自身を大家になぞらえているのでない。自分を引き合いに出して茶化しているとでも言おうか。
そういうさりげないおかしみが楽しいひとなのである。

ひとの成長を見るほどワクワクするものは少ないかとおもえる。




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亡くなった人を追悼するのにも、音楽は大切な役割を持つ。

高名な作曲家たちのなかでは、モーツァルト、ブラームス、ヴェルディ、フォーレ、などがレクイエムと題する音楽を遺した。

少し前になるが、今も国際的に活躍中のHさんの指揮でヴェルディのレクイエムを演奏したとき、最後のパッセージ(Libera me)の敬虔さ、安息感がとても深く感じられて、心が洗われた気がした。

Hさんは、感情表出にすぐれた方だったから、顔の表情や全身の動きを総動員した指揮ぶりで、ぼくたちを、清められた感覚世界へと導いていったようにおもわれた。

12年目の追悼に接し、ふと想い出した。


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ブルックナーの7番シンフォニーに、複符点が出てくる。

3楽章SCHERZOだ。
1小節ひとつ振りの早く軽快な3拍子である。

4分音符+・・/16分音符/4分音符

というリズムだ。
「ターンタタン」という感じだろうか。

「複」のない、単なる符点であれば、普通によく見られる形であり、演奏上も大きな困難は生じなさそうである。

が、複符点であるため、そのあとの音は16分音符と大変(半分)に短くなる。
これを明瞭に発音するには、タンギングを強めに出していく必要があり、舌の負担が大きく増す。

パッセージが連続すると、疲労もあってつい単なる符点に甘くなりがちだ。
しかし、この曲では、複符点であるがゆえにうつくしい緊張感が保持されているかとみえ、リズムが甘くなっては、台無しである。

かくして、メトロノームを前に訓練を重ねることになる。

ブルックナーを演奏するときの難しさのひとつではないか。

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マーラーの10番シンフォニーを聴いた。

初めてではない。
むしろ、憶えるほどに聴き込んでいる曲だ。

であるのに、聴いた後の、こころの芯をやさしくさすって暖めてもらったような安心感が、いつもと変わらずに身体じゅうに広がってゆく。

今日は、これまでより、やさしい心もちで聴いてみた。
一音一音もらさぬように神経を使って聴く、というのでなく、自然体に構えて、耳に入ってくる音の響き合いをそのまま受け入れる感じだ。

すると、ふしぎなことにいつもよりたくさんの「メッセージ」を受け止められた気がした。

ささくれ立ったこころを、クリームを塗るようにして治してくれるこの音楽を、ぼくはもう手離せない。

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紀元前に編まれた「礼記」楽記篇にある。

およそ音の起こるや、人の心によりて生ずるなり、と読む。

平安初期の高僧、空海は、若いころ家族の反対を押しきって出家し、仏道を志すが、24歳のときに、その決意表明ともいえる著作、「三教指帰(さんごうしいき)」を書いた。

三教とは、儒教、道教、仏教を指し、指帰とは帰着するところを表す。つまりは、儒教の世俗名利や道教の脱俗より、仏教の衆生救済が最も優れている、というのが、若き空海の結論であった。

その序文は、「文の起こるや、必ず由有り」という言葉で始まる。
これが、本題の礼記の表現を念頭においたものとされ、空海は、儒教の基本経典とも言える礼記に精通し、なかでも音楽理論書であった楽記篇に明るかったと言えるかも知れない。

空海は、密教に関する著作を記したり、衆生救済のため土木工事を実践した宗教家というばかりでなく、詩や書もよくものした文化人であったから、音楽に少なからぬ興味があったとしても不自然ではないかとおもえる。

「心が動いて、音が出る。」 

空海の心にも何か響くものがあったのかどうか。

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年が明けて、オケの練習が始まった。

ブルックナー7番の譜面には、f→ff→fff と段階的に音量の指示が書かれている箇所がある。(例えば第1楽章の135小節目~149小節目など)

これは、全体として緩やかなクレッシェンドであるが、演奏上は、次の指示があるまで一定の音量を保ち、指示が変わるごとに、「不連続に」音量を増大させる。

今回、練習指揮をお願いしているTさんによれば、これを「ブルックナー・クレッシェンド」という。

他の作曲家の作品であれば、f→ffなら、その間徐々に音を大きくしていくことも多いかとおもうが、ブルックナーの場合そうではないという。

なるほど、ブルックナーの本分とも言えるパイプオルガンを想起すると、合点がゆく気にもなる。

そういうひとつひとつにこだわりながら、彼に一歩ずつ近づいてみたい。

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音色の優しさは格別である。

ピストンの楽器が、音の指向性にすぐれ、どちらかと言えば直線的な音響であるのに対して、ロータリー式は、オーケストラで弦や木管に溶け込むような柔らかさをもっているようにおもえる。

先日、都内の楽器店をいくつか回り、何台か試しに吹かせてもらった。
少し驚いたのは、以前に比べてクセを感じなかったことだ。
息の入り方がスムーズで吹きやすく、ピッチの問題もかなり改善されているようにおもわれた。

店員氏曰く、「ピストンからの乗り換え需要を狙うメーカーが出てきた」とのことだ。

但し、昨今のユーロ相場上昇の影響もあり、価格は、うかつに手を出しにくいレベルのものばかりである。

4月の定期(ブルックナー)までお貸し願えるような奇特な方は、さすがにいらっしゃらないだろうか。

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今年はズビン・メータが振った。

衛星中継でご覧になった方も多いとおもう。
例年に比べて演奏機会の少ない曲が選ばれていたようだが、演奏のほうは、むしろ快活でエネルギーあふれる躍動感が感じられてワクワクさせてくれた。

新年の訪れを祝うにふさわしい豪華な音楽会であったかとおもえる。

プログラムの中に、ディナミーデン(ヨゼフ・シュトラウス)という曲があった。
おもしろかったのは、あの、薔薇の騎士(リヒャルト・シュトラウス)に出てくる、有名なワルツによく似たメロディが含まれていたことだ。

リヒャルトがこれを原典にしていたかは知らないが、正月から、ちよっと楽しい発見をした。



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何年か振りに全編を通して観た。

全体として、内容の豊富な、また各世代の趣向や世相に配慮された、温かく楽しい音楽ショーではなかったか。

演歌を含めて実力派歌手を集めた紅組は聴き応えがあったようにおもわれるし、10代、20代の心情を代弁した新進グループの素朴さが印象的だった白組も、好印象だった(ケータイ投票では、白組勝利だったのは、若い世代に共感されたからかもしれない)。

いずれにせよ、紅白歌合戦は、今のこの国の社会や文化、風俗を一覧できる興味深い音楽番組でありつづけているかとおもえる。

伴奏を受け持つ弦楽器奏者たちが、ドレスアップして立ち並んで演奏する演出がいくつかあったのは、「のだめカンタービレ」に登場したSオケを連想させておもしろかった。

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発酵しているとでもいうのだろうか。

加藤訓子の打楽器演奏会は、各曲の演奏にとどまらず、むしろそれらを題材に彼女独自の音楽観を構成し表現することに成功していたかにおもえる。

それぞれの曲がオリジナルの間奏でつなげられたプログラムは、まるでオペラのように、ひとつのストーリーに導かれ、約60分間、とぎれることなく聴衆を刺激し続けた。

宮城聰の心にくい演出が、演奏会の雰囲気を柔らかなものにしていた。
演奏中、スパイのような姿の男たちによって少しずつ舞台袖へ片付けられていく楽器たち。

やがてすべての楽器を奪われた加藤はいったい。。。。

演奏後の舞台トークでの加藤の発言だ。
「曲は一生懸命練習するのですけれど、そうすると、はじめは身体が疲れていたのが、次第に楽になるんです。そうして、音楽のうえにあるなにか"空気"のようなものがつかめるんですね」

真の芸術の領域とは、そういう場所をさすのかもしれない。

この演奏会は、明日、あさっても楽しめる。

合言葉は、「お手を拝借っ パン!」

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加藤訓子のリサイタルが近づいた。

太鼓というのは、思えば不思議な「楽器」かとおもえる。
だいいち音階を奏でることはできない。
だから、オーケストラの中では、主に味付けに使われている。

もちろん、なくてはならぬ味付けのときもある。
ブラームス1番シンフォニーのティンパニ、第九のトライアングル、ヴェルディ・レクイエムのバスドラム、ボレロのスネアドラム、などなど枚挙に暇がないほどだ。

しかし、それらが味付け、効果音の域を出ないとしたら、そこにはひとつの音楽思想があるためではないか。
つまり、音階によるメロディー、和声による協和や響きのあるものを「音楽」とする考え方である。
いや、怖いのは、ぼくたちが、知らず知らずのうちにその「思想」を何の疑問もなく受け入れてしまっているかもしれないということだ。

だが、音楽の目標は、そういう「音楽」を奏でること自体にあるのではない。
人間の感情に働きかけて感動や共鳴を得ること、ひいては、明日を生きる糧を提供することにあるというのは、言うまでもなかろう。

そのために旋律や和声が役に立つならば大いに活用すべきであるし、それ以外の「音」が有効ならば、これまた大いに追求すべきではないか。

(打楽器の音は、ドレミが生まれる前の)「音の核のようなもの、音の原子。だからこそ人の心に直接届きやすい」(12/23付日本経済新聞)という加藤は、後者を追究し続けてきた。

さあ、音の核融合を聴きにゆこう。

打楽器奏者加藤訓子演奏会
12/26,27,28 ハクジュホール(小田急線代々木八幡駅)

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確かに似ている。

のだめは、コンクールの本選で、まだ仕上がっていないペトルーシュカに挑むが、途中、曲を思い出せなくなり、代わりに「今日の料理」のテーマ音楽を弾いてしまう。

それは、会場の向かうバスのなかで、必死に楽譜を読んでいるときに、近くの座席の男のケータイの着メロが鳴り、そのメロディーが「今日の料理」だったからだ。

鬼のような形相でその男を睨みつけるのだめ。。。。

ストラヴィンスキーの傑作と、ヒット番組のテーマ曲の取り合わせも面白いのだが、音楽的にも、すんなり混じってしまいそうなくらい音形がよく似ていることや、ピアノ科の学生なら誰もが経験する暗譜の難しさと怖さ、がよく表れていて、リアリティに富んでいるとは言えまいか。

社会的成功や栄達に背を向け続けるのだめの、ピアノを楽しんで弾きたい、という一途な、純粋な、素朴な叫びが、毎回見るもののこころに響く。

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吹奏楽の演奏会を聴いた。

ぼくがかつて所属した大学の吹奏楽団だ。
毎年この時期に定演を開いており、ぼくのいたころとそれは変わらない。

が、演奏の水準は格段に向上している。
今日の演奏は、30年以上に及ぶ定演のなかで、トップクラスのものではなかったか。

音楽をうつくしく感動的に聴かせるために、演奏者に求められる要素が、これほど各人によく浸透していたのは、かつて聴いた記憶がない。

耳を澄まして音のピッチをあわせ、お互いに共鳴点を見つけ、全体の響きを常に意識している、そういう基本姿勢が身についているように感じられた。

70-80名もの大編成をここまでまとめたのには、芸大出身の指揮者やトレーナーの正しい指導が、大きく貢献しているに違いない。

音響が良いとされるホールでの演奏のためか、指揮者が、残響の響きを最大限活かすように工夫していたのがよく感じられた。

どのパートも申し分なかったが、トロンボーンセクションの音質のよさと、メインプロ「指輪物語」の1st Tp.の高音域まで安定したきれいな音色がとりわけ印象に残った。

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先週末、久しぶりに母校の大学のキャンパスを歩いた。

学生時代に所属していたゼミのOB・OG会があったからである。
夕方の6時前に着いたときには、あたりはもう暗く、歴史的建造物を活かした門は、街灯にぼんやり照らされているのみで、昼間なら目を引くはずの朱色も、あたりの闇に混じって判然としなくなっていた。

夜のキャンパスはしずかで人気はない。
レンガ造りの重厚な校舎の間を歩いてゆくと、ひんやりとした空気が頬をなでる。

とそのときだ。
鮮やかな黄色が目に飛び込んできた。

それは外灯の明かりに強く照らされた、銀杏の落ち葉だった。
それは幹の根元を包むようにして、半径5メートルほどの円を形成し、その内側を、無数の黄色い落ち葉が埋め尽くしていた。

黄色い光のじゅうたんが敷かれた光景は、周囲の暗く、重々しい堅さのなかにあって、じつに幻想的な雰囲気をもち、思わず息をのんだ。

この銀杏並木は、大学生だったぼくを、そのころきっと見下ろしていたに違いなかった。

そうおもうと、なんだかほっとした気分になった。

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