パピヨン&猫~アリオ&りんご&バジル&くるみのブログ~

愛犬&愛猫と一緒に愛車で日本全国?はまだまだですが、お出掛けした事・趣味のお城の事・鉄道の事など紹介しています。

幸村

2016-10-06 17:49:23 | 真田丸
2014年5月12日、
2016年の大河ドラマは
真田幸村の生涯を描く真田丸に決定
と発表されました。

大河ドラマ日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)眞田幸村公
放映の実現を願い、2009年11月から署名活動が開始され、12月からNHKに要望活動を開始。

それから5年、前述した通り決定しました。

真田幸村ではなく真田信繁(実名)として描かれるということでした。

上田ではもちろんの事、世間一般的にも真田幸村の方が有名。

真田信繁とすることに、史実に沿って描かれていくんだなぁ、それはそれで良い事だとその時は思いました。
幸村ってやはり後世に創作されたというイメージがあったので。

あと、この頃の大河ドラマってありえない演出があったようで、そんなことも見聞きすることもあり、極端な脚色をせずに史実に沿って欲しいとも思いました。

上田市民でありながら真田の事についてよく知らない人が多いのです。
まぁ幸村はだいたい解っていても、幸隆って、幸綱って、信綱って、昌幸って、信幸って、信之って、信繁ってと、誰が誰っていう人がほとんどではなかったのではないでしょうか。

学校教育で郷土史に時間を割く事をしてこなかった為にこんな事になったのでしょう。

ちなみに、神川小学校(第一次上田合戦の激戦地にある小学校、別称では神川合戦とも)は私の母校です。近傍には信濃国分寺史跡があります。信濃国分寺については授業でも取り上げられましたが、第一次上田合戦については授業でやりませんでした。

2014年から改めて真田の事を勉強した人も多いのではないでしょうか。

2016年1月10日、第1回「船出」が放送されて以来、第39回「歳月」までが放送されあっという間でした。

真田丸放送開始後、ドラマでは源次郎が一番使われていて、人・時期によって信繁、左衛門佐とも呼ばれていますが、ドラマについて話したりする時はどうしても幸村って言っちゃいます。

そんな中、次回第40回は「幸村」です。
なんとここへ来て幸村の名が登場します。

世間一般的にも、幸村の名が登場する江戸時代に創作された難波戦記・真田三代記などの軍記物や講談等や明治-大正に創作された立川文庫の話を諸所で聴くことによって、その影響がずぅ~と頭に残り、刷り込まれていたのだなぁ~と思っていましたし、先述したように幸村は創作というイメージでした。

それが今年になってある歴史番組をみていた時、現在の大阪城天守閣館長が、
「大坂城入城後に幸村と名乗ったのではないか」
という話を耳にした瞬間、何かハッ!!!とさせられる思いをしました。

そうか!!!そういう可能性もあるよなぁ~と思いました。

そのように思ったのには、幸村の名の説明のほとんどが
は真田家の通字ではある。これについては何一つ異論はありません。
ただ、通字だからと言っているだけで、それを名に使った具体的な経緯が説明されていない。
は徳川家に仇をなす妖刀村正からとか、幸村は村正を帯刀していてそれを家康にめがけて投げつけたとか、何かといちいち家康や徳川家に絡めているところに心底からの不快感があり、
自ら名乗る名に、
いくら戦国武将だからと言って、
いくら武将にとって刀は大事なものだからと言って、
いくら名刀妖刀だと言って、
刀の名から付けるかぁ?

こんな稚拙な創作、つくり話、ウソ話、くだらない話を引用しているから。

私論による幸村の名の創出については
当ブログ、真田丸第38回「昌幸」9/25で記しています。

書状は、ほぼ史実と言ってもいいのだろうなぁ。しかし、読み取り方、解釈によっては正反対の意味にとられることがある。監視された生活中であれば、心では思っていてもその気持ちを書き記す事は出来ないし、また偽って本来の気持ちや姿を隠している事もあると思います。

書物は、話半分って感じだと思っています。しかし、それを引き合いに出して史実だという事になっている事が多い。勝者の都合、恥ずべき事を隠す為とか、脚色された部分が多いと思う。

そして、口述=史実だってあるわけですが、それを証明・知るのは不可能なんですがね。

大坂冬の陣の際、本来の自分である信繁ではなく、
決死の覚悟を決めた今の自分として幸村を名乗って臨んだのではないかと。

そのように、沸々と思うようになっているのです。

話があっちこっちでまとまりのない内容ですが

今では、真田信繁も良いけど、やっぱり真田幸村だね。

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