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Expressing My Inspirations

a sunset from okinawa

2012-01-30 | photo




読谷村(よみたんそん)のホテルから

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never let me go to the island

2012-01-19 | bookshelf
 昨年末、正月に読む本でもないかと居間にある本棚(母の蔵書)に目をやると、カズオ・イシグロの『日の名残リ』(既読)に並んで『わたしを離さないで』と『夜想曲集』があるのに気付き、いつのまに…と母に問うて、そのうち借りようと思って床に就いた後、わざわざ母がその2冊をベッドサイドまで持ってきてくれました。
 『わたしを離さないで』は映画化され日本公開時にテレビの露出もあって、あらすじは知っていたのでさほど食指は動かなかったものの、半分くらいから一晩で読んでしまいました。
映画Never Let Me Go 2010年公開

 臓器提供を目的に創られた(飼育された?)、クローン人間プロジェクトのお話。
 読みすすんで間もなく、テレビでやってたのを見た『ジ・アイランド』という映画を思い出しました。こちらの映画は原作はないのかな?映画の劇場公開は、『わたしを離さないで』が出版されたのと同年の2005年でした。
自分の正体を知って逃げる決意をするS.ヨハンソンとE.マクレガー

 クローン人間を創って臓器移植をする、という同じテーマの本や映画ができたということは、10年くらい前から臓器移植とクローン開発が結びついた考えが取沙汰されるようになっていたのでしょうか。ちょっと調べてみたら、2003年にクローンエイドというアメリカの会社でクローン人間の出産(クローンといえども子宮から産まれるのね)に成功した、という記事を見つけました。
 ゲーテが『ファウスト』の中で錬金術師に造らせた人造人間ホムンクルスは、小さい人間でしたが知能は大人と同じでした。ホムンクルスは試験管の中から出られなかったけれども、生みの父である教授をほっぽりだしてメフィストフェレスと共に次の世界へ行ってしまうのです。
 『ジ・アイランド』も最後はクローン人間たちが施設の外へ出て行きます。『わたしを離さないで』の主人公は、生き延びる一縷の望みを追求してみますが絶望的な最後しかありませんでした(結局プロジェクト自体が頓挫したので、大きな目で見れば悲劇ではないのですが。)。
 人間は人間を支配できると考える人がまだいるようですが、そういう人種は、人類はいまだ嘗てこの地球上の何も支配できたことはない、ということに気がついていないのでしょうか。むしろ人間の方が、メフィストフェレスのような悪魔に支配されてることのほうが多い、ということに。
 
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about Owari Edo literary exchanges recorded-4-final

2012-01-16 | bookshelf
『四編之綴足(とじたし)』 東花元成(とうかもとなり)著 北亭墨仙画
1815~16年刊行 美濃屋伊六 板
一九と弥次さん喜多さんが名古屋本町通で出会う画

 十返舎一九先輩となると、尾張を初めて訪問したのが何時か、何度足を運んだかは確かなことはわからないでしょう。最初といえば、小田切土佐守に付いて大坂へ赴任した時(1788年24歳)、名古屋で宿泊でもしていたでしょうし、武士を辞めて大坂から江戸へ戻る(1793or1794年30歳)途中、名古屋で遊んだかもしれません。(もっとも、武士を辞めた手前、郷里の駿府を通る東海道は避けて中山道を江戸へ向かったと考えられますが。)
 『東海道中膝栗毛』が大当たりして、大先生として名古屋で歓待されたのは、1805年文化2年41歳で伊勢参詣に行く途中でのことでした。この年の正月に新居宿~宮の宿(愛知県内の東海道)を書いた『東海道中膝栗毛四編』上下巻が発売された後だったので、地元の人々は一九の訪問に沸きかえったことでしょう。同様に、一九先輩も尾張の文人(狂歌仲間・戯作仲間など)のもてなしに大層感じ入ったようです。この時聞いた話を次の五編(桑名宿からスタート)のネタに使ったり、挿絵の自作狂歌に尾張の狂歌師の名前―椒牙亭田楽、蛙面水、南瓜蔓人、梧鳳舎潤嶺、楳古、彙斉時恭、灯台元暗、花林堂、右馬耳風、在雅亭ひかる―を使用したりとサービスしています。そして椒牙亭(しょうがてい)田楽という狂歌師が、戯作者・椒芽田楽(きのめのでんがく)=神谷剛甫(馬琴の門人、一九からお礼の年賀状をもらった藪医者)その人でしょう。
 とくれば、貸本屋大惣のお抱え作家だった剛甫が、一九先輩を大惣へ連れて行ったことは想像に難くないです。また、『江戸尾張文人交流録』に“五編が刊行された文化三年前後から名古屋周辺では地元作者による「膝栗毛」のパロディーが流行し始める”とあり、『名古屋見物四編の綴足』が紹介されていました。
 見出し↑の『四編之綴足』の「四編」とは、もちろん膝栗毛四編の追加の意味です。尾張を旅する弥次喜多が、本屋の主人2・3人と飲みに出かける一九と名古屋の本町通で出会い、一九の宿泊先・本町の駒庄へ泊まれと言われる件があるそうです。駒庄は名古屋城下玉屋町三丁目にあった駒屋庄次郎という実在の旅籠だそうです。『四編之綴足』を出版した板元・美濃屋伊六は本町通6丁目の書肆で永楽屋の近所。十丁目の松屋善兵衛とも懇意だったでしょう(玉屋町の界隈)。そして、挿絵を担当した浮世絵師・北亭墨仙は、1812年に名古屋へ来た北斎の世話をする墨僊(尾張藩士・牧助右衛門)です。著者の東花元成については不明でした。
 その後一九先輩は、1811年に伊勢太々講参りに出かけ大坂に逗留、1813年には播州(兵庫県あたり)巡りをしています。東海道を使っていれば、尾張を通過するとき既知の人が誰かれか彼を歓待したことでしょう。北斎が半年逗留して大画イベントを催した翌年1815年、51歳の一九先輩は書肆松屋に逗留、奥三河の鳳来寺に参詣して、翌年松屋善兵衛から『秋葉山・鳳来寺 一九之記行』を出しています。
 先の『四編之綴足』は、『膝栗毛四編』出版直後に書かれず、この時の尾張滞在と重なる時期に出版されたので、単に『膝栗毛』のパロディーとしてではなく、戯作者・十返舎一九と尾張の人たちとの親交がいかに深かったかを示すため、製作されたのではと思います。つまりは、そこに書かれている一九先輩が、駒庄に宿泊し、書肆などと酒を飲みに名古屋城下の繁華街をふらついていたのは事実なんでしょう。
 50代になっても一九先輩は精力的に旅をして、越後(新潟県)の鈴木牧之宅を訪れた翌年1819年にも本居内遠に会いに名古屋へ行っています。その前に信州伊那の書画会に出席したので、そのまま名古屋へ出たのかもしれません。
 本居内遠(うちとお:1792-1855年)は、名古屋の書肆・万巻堂菱屋の倅、馬琴とも親交があり、40歳の時和歌山藩の国学者・本居大平の婿養子になり二代当主となった人物です。一九先輩と会った時はまだ27歳で、万巻堂の主人・菱屋久八になっていたかどうかは不明ですが、本居大平の門人となって国学者を志す以前は、自ら狂歌や戯作を作り、江戸狂歌人との人脈もあり、尾張人の狂歌本を出版してました。後に義父となる本居太平(おおひら)は、伊勢松阪の町人で、本居宣長の門人になり、44歳の時宣長の養子になっています。宣長の実子が失明した後、太平が家督を継ぎ、太平の門人内遠が養子に迎えられ、その家督を継いだという繋がりです。
 一九先輩は、読本や滑稽本ばかりでなく、往来物(実用書、寺子屋などの教科書)も多く執筆していたので、学問の基礎知識を得るため内遠に会いに行ったのでしょうか、それともビジネスの話をしに書肆菱屋を訪問したのでしょうか。
 
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about Owari Edo literary exchanges recorded-3-

2012-01-13 | bookshelf
『北斎漫画』奥付
校合人 月光亭墨僊、永楽屋東四郎の名がある

 本居宣長は生誕地松坂(三重県松阪市)を拠点にした医師・国学者というイメージが強いので、芭蕉より更に江戸人としての印象が弱く感じます。
 尾張と親交が深かったちゃきちゃきの江戸っ子文人で頭に浮かぶのが、葛飾北斎。でもその北斎が訪問する10年前の1802年享和2年に駆け出しの馬琴が名古屋に15日滞在していました。“お供に剛甫(ごうほ)を連れていた”と『江戸尾張文人交流録』に書いてありましたが、剛甫は尾張の医者・戯作者・狂歌師で馬琴の門人、馬琴著『江戸作者部類』に“尾州名護屋の藪医者にて神谷剛甫といふものなり....”と書かれた人物なので、彼が馬琴を案内世話してあげたのでしょう。十分な旅費のない馬琴は、師・山東京伝に描いてもらった書画を携えて、それを売って路銀の足しにしながらの貧乏旅行だったくせに、よくも失礼な説明文を書いたものです。
 この剛甫がどうして馬琴と繋がりを持ったのかはわかりませんが(大田南畝の縁故?)、馬琴の去った3年後1805年に十返舎一九が伊勢参詣途中に寄った時、剛甫は狂歌仲間と共に一九先輩を歓待し、翌年一九先輩からお礼の年賀状をもらっています。そしてこの人、医師としてより椒芽田楽(きのめのでんがく)or西郊田楽という戯作者の方で有名だったようです。著書も何冊かあり、貸本屋大惣のお抱え作家だったそうな。馬琴は名古屋滞在中、大惣の蔵書を読ませてもらったと書いてありますが、それも剛甫のおかげだと推測できます。馬琴の尾張訪問はこの1回だけだったのでしょうか、本書には記されていません。
 北斎は1812年文化9年、53歳の時初めての関西旅行の帰り名古屋に寄りました。といっても当時東海道を関西方面へ旅すれば、絶対名古屋で休み、見物くらいはしたでしょう(ひょっとして往路は中山道だったとか?)。が、北斎は尾張藩士・牧助右衛門信盈(のぶみつ)・墨僊(ぼくせん)という号を持つ浮世絵師の自宅(名古屋鍛冶屋町)に逗留し、書肆永楽屋東四郎から絵手本『北斎漫画』の出版の約束をさせられたのでしょうか、1814年刊行されます。
 『北斎漫画』初編がめでたく刊行された同じ年、北斎は再び墨僊宅へ逗留、後に花屋町(現・栄三丁目)の借家へ移り、西本願寺別院の東庭で「北斎大画」のイベントを催します。百二十畳の美濃和紙の厚紙に達磨の墨絵を描くもので、すでに江戸で催行し4回目でしたが、最初完成品を上から見ることができなかったのを改善して、紙を吊り下げられるようにしてあったので、大好評を得たそうです。
 このイベントに係わったのが書肆永楽屋東四郎。宣伝広告だけでなく、美濃出身の強味で美濃和紙、更に墨の製造元だったので自分の製品を大アピールできました。この時北斎は半年名古屋に滞在したといいます。
 
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about Owari Edo literary exchanges recorded-2-

2012-01-11 | bookshelf
『江戸尾張文人交流録』の後に「芭蕉・宣長・馬琴・北斎・一九」と書いてあるので、尾張の文人・出版関係の人物とこれら5名の著名人との交遊の事が詳しく書かれてあるものだと思って読んでみたのですが、著者が詩人でもあるからか、たった163ページのうち半分が俳人松尾芭蕉に割かれていて、残りの4名に関しては通り一遍の事柄が数ページずつ説明されてあるだけでした。
 本居宣長・曲亭馬琴・葛飾北斎・十返舎一九は活躍した年代が同じで、尾張を訪問した時期も遠くなく、訪れたであろう場所も同じで、同一の尾張の文人と交流していたことでしょう。なにぶん、芭蕉に比べれば記録が少ないので、ほぼ想像になってしまうのですが。まず当時の名古屋城下(城の南側)をまとめて描いてみました。

 名古屋の町割りは碁盤の目で、信長の清洲越で清洲の町をそっくりそのまま当てはめたので、通りの名前も名古屋と関係ない「桑名町」「長島町」などというものがあります。これは清洲は三重からやって来た人達が多く住んでいた町だったからです。現在も同じ通りの名前が使われています。
 お城の本町御門からまっすぐ延びる本町通が、当時のメインストリートです。
A書肆風月堂長谷川孫助。京都風月堂の出店からスタートした老舗本屋。
B書肆東壁堂永楽屋東四郎。本町通七丁目。初代直郷(なおさと)は美濃出身。風月堂で修行後1776年35歳で独立。尾張藩校明倫堂御用達、尾張藩製墨御蔵元。本居宣長『古事記伝』、北斎『北斎漫画』出版。現在名古屋城天守閣内に店先が再現されている。
C貸本屋胡月堂大野屋惣八(大惣)。初代が知多半島の大野(江が最初に嫁いだ先)出身なので大野屋。元禄年間名古屋で酒屋開業。2代目薬屋を兼業。初代ともに書籍好きで好事家のサロンとなる。1767年明和4年3代目が貸本屋開業。
 書肆は他に、松屋善兵衛(本町通十丁目)、美濃屋伊六(本町通六丁目or京町通小牧町)など本町通の広小路近くにあったみたいです。もちろん城に近ければ近いほど格式が高かったでしょう。
 町奉行所の隣りにあった伊藤次郎左衛門店というのは、1611年創業1659年に呉服小間物問屋を開業した伊藤呉服店で、1768年に江戸上野の松坂屋を買収していとう松坂屋と改名、1910年明治43年名古屋栄に百貨店として移転した松坂屋の祖。
 名古屋は宿場町ではないので、本陣はありませんが、本町通と伝馬町通の交差点に高札場があって札の辻だったようです。この界隈は桜天神の祭りもあり、大丸屋もあり、最も賑わった場所。本町通は南下すると大須観音・熱田神宮へ続きます。
 江戸時代の本町通も描いている尾張名所図会(本町通四丁目)の画が当時の賑わいを伝えてくれます。また、尾張名所図会の魚ノ棚通で催された四月十六日東照宮の祭礼の図に「大惣」の広告看板が見られます。
 馬琴や一九は、大いに楽しんだことでしょう。
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about Owari Edo literary exchanges recorded-1-

2012-01-10 | bookshelf
江戸尾張文人交流録―芭蕉・宣長・馬琴・北斎・一九
青木健 著 ゆまに書房 2011年9月刊

 天下泰平の江戸時代、江戸の庶民文化が誕生&成長した天明寛政年間から繁栄した文化文政年間。江戸の地文化―浮世絵・草双紙が地方へ広まっていったのは、板元(出版本屋)の力だけではなく、江戸の文人と地方の文人たちとの交流あってのこと。
 山東京伝は江戸から出なかったから、地方での彼の知名度・人気は馬琴や一九より低かったと推測できます。それでも京伝の著した草紙は、地方の書肆や貸本屋で入手できたため読むことができました。書籍の流通ルールが現代とは異なる江戸時代で、京都・江戸・大坂の三都と比べると、流通ルートから見れば中間に位置する尾張は、その位置関係にもかかわらず何故か出版書肆の発達が遅れていたようです。
 1600年代後半の貞享年間、美濃太田(岐阜県美濃加茂市)出身で京都の大書肆風月荘左衛門で修行した長谷川孫助という人が、尾張に板元がないので京都風月堂の出店として名古屋風月堂を開業したのが最初らしいです。この孫助は夕道(せきどう)という号を持つ俳人で、松尾芭蕉と交流が深かったそうです。
 この本に因ると、風月堂が本格的に出版活動を始めるのは、1764年以降の明和年間からで、初代ではなかったそうな。とすると随分矛盾が出てくるのですが、風月堂孫助とクレジットされる最初の出版物が1714年に見られるからで、開業したての頃は京都風月堂から仕入れた書籍を販売、つまり小売だけしていたのかもしれません。勝手な想像ですが、奉公に出ていた孫助がいきなり板元―出版と小売業などできるような資金があったとも思えないからです。初代孫助が小売書店で儲けた金を元に、2代目以降から地本問屋としてオリジナル本を出版できるようになったんじゃないかと安易に憶測できます。
 「書肆は風月堂、永楽屋。貸本は胡月堂」と著作の中で評した曲亭馬琴も、1802年享和2年(本書には“本居宣長が没した享和元年五月”と記述してある箇所があるが)に京都大坂への旅の途中に尾張に15日滞在し胡月堂大野屋惣八(略して大惣)を訪問しました。その時主人に求められ、馬琴は貸本屋大惣の「伏稟(ふくひん)=広告文」を書いて銀一両の謝金を受け取りました。その伏稟とやらは現在どこにあるのでしょうか(文章は本書に掲載)。
幕末の頃に一万冊、廃業時には二万千四百一部もあった大惣の蔵書は、早稲田の一括購入が実現できず、現国会図書館、京大、東大に分割売却され、東大図書館の蔵書は関東大震災で大部分が消失されてしまったそうです…嗚呼なんということ…
尾張が大惣の蔵書で図書館でも作っていれば、今頃は・・・と悔やまれてなりません。
 
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happy new year 2012

2012-01-01 | Koshodo



‘happy new year' from good bad guys


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