辞書引く日々

辞書が好きなのだ。辞書を引くのだ。

使い易さと楽しさの隙間

2012年06月03日 | 言葉
高校生が電子辞書で音楽を聞いているのを目にした。辞書ソフトのオマケみた
いな音源で、サビの部分しかない。可笑しいのは、彼はスマホを持っていて、
古い録音で我慢しさえすれば有名なクラシックの曲などいくらでもダウンロー
ドできるということである。

思うに、スマホでダウンロードする知識がなくてできないとか、面倒だとかい
う理由ではないだろう。音楽を聴くための機能がない辞書専用のガジェットで
音楽が聴けるということが面白いに違いない。

そもそも、スマホを持っていれば辞書専用のガジェットは不要のはずである。
辞書アプリのほうが安いうえに使い易いことも多い。それでも辞書専用機を使
うのを好む高校生は少なくないようだ。(まあ、スマホだと教室に携帯が許さ
れないのかもしれないが)。なにかショボいものの魅力、オモチャのようなも
のの魅力、そんなものが辞書専用機にあるのかもしれない。

しかし、その辞書専用機たるや、目を覆いたくなるような奇妙なユーザ・イン
ターフェースである。串刺し検索はできない、必ず辞書の選択→検索語句の入
力の順でないと駄目、和英・英和辞典は和英用と英和用で二つのテキストボッ
クスがあって使い分ける、といった具合だ。

ガラパゴスと言えば一言で済んでしまうかもしれない。徒花と言えば徒花だろ
う。たしかに私だったら、その器械は買わない。ところが、やはり、それでも
辞書専用機は独自の世界を醸しているのである。使い易さと楽しさとの間には、
何かがはさまっているらしい。
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胃袋と弁舌

2012年05月28日 | 言葉
中庸というのは、ずいぶん古くから言われていることで、孔子が言及している
し、アリストテレスも似たような概念を唱えているという。六つかしい話は分
からぬが、まあ極端を排して中間をとるというくらいの意味を考えるならば、
たしかに我々の日々の暮らしに不可欠なところであろう。

昔読んだミクロ経済学の教科書にこんな話が載っていた。酒ばかり飲んでも面
白くない、焼き鳥ばかり食うても面白くない。両方を同時にいただくと、あと
一杯の酒、あと一本の焼き鳥がより旨いものになるというのである。これが人
間の行動を律する基本であるというわけであるが、効用の増大という点から見
て極端というのがあまりうまくないというのは、さもありなんである。

これほど当たり前のことに思える中庸ではあるが、意見を言い合う段となると、
途端に霞んでくる。これももっとも、あれももっともというのでは、議論にイ
ンパクトが出ないからであろうか。論者というのは極端を魅力的に見せるのが
役目で、聞く者がそれぞれ落とし所を考えればよいということなのか。

焼き鳥の串と徳利を両方ながらに並べて酒を飲みつつ、口角に泡を飛ばして極
端なことを口走るのはありふれた光景だが、してみると胃袋と弁舌は異なる基
準に従うものなのかもしれない。

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巨大トラックに関するぼんやりとした連想

2012年05月27日 | 言葉
「世界一大きいトラック」の写真をはじめて見たのは子どものときだった。そ
のとき、トラック自体の大きさに比べると、荷台に積める分量が少ないのに驚
いた。考えてみれば当たり前で、小さなトラックをそのまま拡大したら自重す
ら支え切れるかどうかわからない。象が蟻に比べてずんぐりしているのと同じ
話である。

これに似たことは、しばしば経験し、また、見聞きする。たとえば、大がかり
なコンピュータ・プログラムなんぞは、複数の部分に分割しておかなければ、
とうてい開発できないだろう。象を一匹にかわりにロバを百匹開発するしかな
いというわけだ。

一方、会社なんぞは合併して大きくすることにより管理部門を統合できるから
効率が良くなるということがあるらしい。だから、こうした比喩をあまり一般
化するのはよろしくなかろう。そもそも比喩は誰かを説得する力は持たずに、
ただ自分の気分を説明するぼんやりとした効果だけを持つものだと、私は考え
ている。それでも、時々この巨大トラックの比喩が頭をかすめる場面というの
は少なくない。

ある種の「人文」的な学問では、たくさんの新概念が出てくるが、ときどきこ
れが荷物の重さではなくて、トラックじたいの重さであるように思うことがあ
る。ソーカルが The clear goal here is to achieve by definition what
one could not achieve by logic. (What the Social Text Affair Does and
Does Not Prove)などというのは、いくらか似た事情が感じられなくもない。

ベーコンが whereas the meaning ought to govern the term, the term in
effect governeth the meaning (Of Unity In Religion)と言っているのを聞
いても、なんとなく巨大なトラックを思い浮かべてしまう。

べつに私はソーカル事件について知っているわけでも、ベーコンの神学につい
て知っているわけでもない。これが的外れな連想であろうことも想像はできる。
ただある種のもどかしさを感じるときに、なんとなく巨大なトラックのことを
思い出してしまうというだけの話である。
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古文・文語文に憧れるわけ

2012年05月25日 | 言葉
古語で文を書けたら面白そうだと思うことがある。せめて文語で書きたいとも
思う。実際には、自分の古典文法に対する知識が乏しかったり、新しい文物の
表現に難があったりするので、取り組んだことはない。それどころか、自分は
日本の古典が好きなのかというと、そうとも限らない。たしかに、あれも読ん
でない、これも読んでないというプレッシャーを感じてはいるが、そのために
時間を割くまでには至っていないのだから、真剣な古典愛好者でないことは確
かである。

それにもかかわらず、自分が古文・文語文の魅力を感じているのは何故か。毎
日口語文のお世話になっている身としては、これを一度くらいは考えてみるの
が義理というものかもしれない。

言葉を発すれば、必ず何かの影響が現れる。これには、契約が成立するとか、
ブログが炎上するとかいう客観的にわかる形だけでなく、人の心の中に何らか
の気分を生じさせるということも含まれる。

たとえば、「○○原発は××県にあります」という一文を読んだとき、何を考
えるだろうか。少なからぬ人が、「この論者は原子力発電所の稼働に賛成なの
か反対なのか」ということを読み取ろうとするのではあるまいか。もちろん、
この一文から、それが読みとれるわけもない。

しかし、そうなると、読み取りパワーは増大して、そこに書いていないさまざ
まなことを読み取りはじめる。「結局、こいつは原発についてのハッキリとし
た意見を持っていないのだ」とか「このブログは、政治的な問題に何らかの意
見を述べるようとしているのだ」とかいう印象を得る人があるとすると、それ
はこうした読み取りの結果だろう。

これが、「○○原発は××県にあり」と書いてあったらどうだろう。これなら、
江戸時代の紀行文を読むときのように、ちょっと離れた視点から読めるような
気がする。

もちろん「ひとごとみたいな書き方で、ムカつく」という人もあるだろう。し
かし考えようによっては「離れた視点から読める」も「ひとごとみたい」も、
さして変わりはない。同じことを、好意を持って、あるいはその反対の気持ち
を持って言っているだけだ。「客観的→問題と自己の利益を区別する→語るに
足る」という道順も、「客観的→ひとごとみたい→偉そう→ムカつく」という
道順も、同じところに端を発する。

もっとも、文語文を日常的に読んでいた時代の人や、歴史的文献を職業的に読
んでいる人は、こうした「遠い」印象を文語文から受けないにちがいない。
かつて、文語文は客観的であるどころか、感情を盛り込むメインの器であり、
しばしば扇動にも用いられたわけである。文語文に空しい虚飾という印象を受
けている人も少なくないのも、うなずける。また、楽しいからという以上のは
っきりした主張をもって文語文の復活を願う人にとっても、文語文は「遠く」
ないのだろう。(ただ、完全な古文となると、さすがに話は別だろうが)

ともかくここまで考えて、私は一応の結論らしきものにたどり着いた。現代に
生活している自分が擬古文に憧れているのは、ちょっと離れたところから物事
を見る瞬間を持ちたいかららしい。

そして、忘れてはならないのは、そうやって混み入った状況からふっと抜け出
してしまうというのは、すごくユーモラスだということだ。寄ってたかって殴
られている男が、なぐっている男たちの股の間からのこのこ這い出てくる様子
を想像してみるといい。これは、死語〜半死語になったがゆえに、古文・文語
文が持ち合わせることになった魅力だと思う。
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フランケンシュタイン曰く

2011年09月02日 | 言葉
小説「フランケンシュタイン」には、こんなくだりがある。

In other studies you go as far as others have gone before you,
and there is nothing more to know; but in a scientific pursuit
there is continual food for discovery and wonder.

(他の研究なら、先人たちが到達したところまで自分も到達したならば、
それ以上知るべきことはない。しかし、科学的な追究においては、
発見や驚きの糧が、ずっとあるのだ。)

これは、フランケンシュタインが、科学の楽しみについて語った一部である。
フランケンシュタインといっても、彼の作った怪物ではなく、彼自身のことだ。

科学について究め尽くすことができないということは、現在の我々の考えでも
成程と思うところである。興味深いのは、他の学問・研究については、先人の到達
したところまで行けば仕舞いという発言である。

他の study というのが何を指すのかというと、なにしろ 19世紀前半のことだ。
社会科学はまだ念頭にないだろうし、工学も科学とはっきりと区別されていたか
どうか疑わしい。

おそらく、この発言に最も激しく異議を申し立てるべき人は、いわゆる人文分野の
研究者だろう。やってないことは山のようにあるし、それは次々に生まれてくると。
そして、先人の研究の上に、成果を積み重ねてきているのだと。

たしかにその通りではある。だが、ぎゃくに、「先人の知りたるところまで到達」
というのが、個人の知識・能力のことであるとすると、それができているのか、
という疑問が湧いてくる。

逆に言うと、メアリ・シェリーの考えでは、「先人の到達レベルを維持する」
というのが、じゅうぶん study に値することだったのだと、この一文を読んで
考えた次第である。
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(べんきょうメモ)「that other good fellow」

2011年02月23日 | 言葉
随分とブログを更新しなくなってしまった。しかし、どうもそれでは詰まらないので、さほど起伏もなき毎日に、ああそうかと気付いたことをメモしておこうと思う。

先日来、ブラム・ストーカーのドラキュラを読んでいる。折角だから英語で読んでいるわけだが、英語力がなくて、しじゅう引っ掛かる。今日引っかかったのは……

少し前から説明すると、モリスというアメリカ人が、ルーシーというイギリス娘に結婚を申し込む。ルーシーは好きな人が別にいる(たぶん両想いだが、まだ彼は告白してくれない)ので、そう告げて断る。モリスは、それならせめて一度だけキスしてくれと言う。その後で、彼が続けたセリフ(直接話法で)が次の一文。that other good fellow というのは、ルーシーの意中の人。

You can, you know, if you like, for that other good fellow, or you could not love him, hasn't spoken yet.

しばらく考え込んでしまった。

You can (kiss me), you know, if you like (to kiss),
 for (=because)
  that other good fellow,
   or (=If he was not a "good fellow") you could not love him,
  hasn't spoken (=proposed) yet.

ということらしい(間違えてたら教えて)。

今日は、ドラキュラ伯爵と関係ないゆるい部分からの引用でした。
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真面目という言葉

2010年12月28日 | 言葉
もし、キュウリとメロンを区別しないで、ともにキューロンと表現されていたとしたらどうだろう。「おれ、長くてトゲトゲのキューロンは嫌いなんだよ」とか「甘くて丸いキューロンは好きなんだけどな」なんて言わなくちゃならない。これは不便である。しかし、キュウリとメロンという概念を、言う人聞く人の双方が持っていれば、まあ何とかなる。

ところが、キュウリとメロンの概念が区別されないで曖昧なままだったらどうなるか。キュウリを買おうとすると、メロンが混ざっていたりして、大変都合が悪い。こういう例だと馬鹿馬鹿しく思えるが、こうしたことは、抽象的な概念では、しばしば起こる。

「真面目」という言葉には、ちょっとこうした傾向があるように思う。

serious, earnest, diligent, industorious
なんてのが、真面目と訳されているのを見かける。さらに、
condescending, obedient, tame
なんてのは、マジメと訳してもよい状況があるかもしれない。
誠実なという言葉はあるが、口語ではあまり使われないので、やぱり日常的には「真面目」で済ましてしまう傾向もある。

真面目という言葉の解釈は、あまりに状況に依存しているように思える。「真面目」ほど真面目に使われない言葉はない、と言ったら言い過ぎであろうか。
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Kindle 3 で電子石碑を作ってみた

2010年10月23日 | Weblog
Kindle では自然と英語を読むことが多くなる。
英語を読むと疲れるので、目を休めるために見るものがほしくなる。

そこで、拓本の画像を入れて、電子石碑?を作成してみた。
拓本を見るのに、Kindle はなかなか良い端末だと思う。



1. 拓本の原データを http://www.yingbishufa.com/ldbt/index.htm から拝借
一つの石碑がたくさんの jpeg 画像に分かれている

2. for N in `seq -w 1 48`; do convert ${N}.jpg ${N}.pdf
などとしてそれぞれをいったん pdf に

3. pdftk *pdf cat output.pdf
などとして、一つの pdf にまとめる

4. calibre を起動して、mobi 形式に変換
このときメタ情報を編集

5. Kindole 3 をマウントして、 documents フォルダに投げ込む

jpeg を入れたフォルダを zip -r out.zip ./mydir
などとしても、Kindle はこれを読んでくれるが、
一つの pdf にまとめておいたほうがきれいに表示される。
さらに、作者名などのメタ情報を入れるために、ここでは mobi にしてみた。
mobi だと画像の拡大も容易である。


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構造主義入門できず

2010年08月30日 | 言葉
構造主義なんて古いぜと言いながら、いまだにその概念が随所に使われているように見える。

それで、入門書くらいは読んでみたりしたのだが、いつも途中で挫折する。

まず、入門書の最初のほうには「記号表現」と「記号内容」が違うと書いてある。
そして、この二つの間に意味作用という関係があるという。

少し読み進めると、「記号表現+記号内容」がもうひとつ上のレベルで新たな記号表現の役割を果たすことがあるといい始める。

私の見た本では、「コニャック・ペリエ」という注文は、デノテーションのレベルではその飲み物を指すが、コノテーションのレベルではこの「記号表現+記号内容」があらたな記号表現となって「スノビズムなるものはきらいでね」という記号内容をもたらすというのである。

このへんで、なんか嫌になってくる。

コノテーションのレベルでデノテーションのレベルと同じことが行われるなら、きっとその上のレベルだってあるはずだ。「スノビズムなるものはきらいでね」というようなことを特定の場所で発言することが、さらに何らかの意味を持つ可能性があるのだから。

それよりも、「人間が直接理解できる記号表現」というものを仮定して、意味内容という言葉のかわりにつかえばよい。そうのうえで、「意味作用は記号表現を引数としてあらたな記号表現を返す」でいいのではないかと考えたりする。

そんなことを言ったら、書かれたり、発話されたりして記録できるものと、頭の中だけにあるものの区別がつかずに、客観的な研究ができないじゃないかと言われそうだ。

うーん、まあそれはそうなのだけれども…。ともかくこの分野、用語の定義がどんどん出てきて、いささか閉口してしまうのだ。
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四文字語

2010年08月27日 | 言葉
四文字語というものがある。f*ck とかね。アメリカ産の映画など見ていると、これが多発される。

日本語でいうと「クソッ」という程度のものなのだろうが、わが国ではそれほどクソは行われない。少なくとも、「このクソ暑いのにクソ仕事がクソ忙しくてクソ休みがクソとれない」なんて頻度では使わない。

思えば、f*ck にしろ sh*t にしろ、すべて一音節語である。だから会話にはさみやすいのではないか。これに対して「クソ」は二音節だから、そう多発できない。

「このド暑いのにド仕事がド忙しくてド休みがドとれない」

これならいくらか短くて言いやすい。「ド」は一音節である。しかし、「ド」にはそうお下品な意味がないから、やはり f*ck にかないそうもない。

日本語は「ん」を除くと必ず子音のあとに母音が入るが、その結果四文字レベルの悪態がつきにくくなっているような気がするのである。
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