「嵐の前の静けさ」(2)
The Fatima Crusader, Issue 56, Winter 1998より
ニコラウス・グルーナー神父 B.Comm., S.T.L.,S.T.D.(Cand.)
真の平和
平和とは何を意味するのでしょうか?聖トマスは聖アウグスティヌスに従って、平和を「秩序の静けさ」と記述し、定義しています。ボール・ベアリングの中に砂を、エンジンの中に砂糖を入れた後で車を走らせてごらんなさい。車は走行する秩序の中にはないでしょう。ところで、われわれは車のために多大のお金を払ったのですし、そのようにすれば車が動かなくなることを知っていますので、そのようなことをするほど馬鹿ではありません。
しかし、われわれは、車を走らせるための技術者の諸規則を破ろうとしないとしても、社会が平和のうちに生きるための創造主の諸規則を破ることは正しいと、どういうわけだか考えています。われわれは社会において、その創造主によって建てられた諸規則に反するならば、平和を持つことができず、われわれの社会を秩序のうちに動かすことはできません。
われわれにとって、われわれが神の法に反する諸実践を助長するために諸々の法律、制度、宣伝を設ける一方で、世界の中に平和を持つことよりも、ボール・ベアリングの中に砂を入れた車を運転することの方があなたにとってもっと容易です。それは殺すな、盗むな、隣人の妻を盗むな、等々のような基本的なことがらです。しかし、あなたがテレビをつけると、それはあなたにほとんど続け様に幸福はこれらのことがらをすることからやって来ると放送しています。ニュースの中であなたに堕胎は最高裁がそう言うからよろしいと告げるにせよ、あるいは連続放送劇の中で、あるいは他のどこかで、神の法に反して幸福を捜し求めることはよろしいとあなたに告げるにせよ、です。私はあなたが空白を埋めることができると確信しています。
なぜわれわれの学校は戦場なのか
数年前は、高校生が犯す最悪の罪は順序を守らずに話すこと、あるいはクラスの中でガムを噛むことでした。今日われわれの多くの高校は、生徒たちが彼らの教師あるいは仲間を殺し、あるいは彼らが自殺する前に警察によって武装解除され得るように、彼らが学校に持って来るナイフや銃を入り口のところで探知するための装置を持っています。
われわれはわれわれの学校から神を排除してきました。祈ることは法律違反です。しかし、もしわれわれが神の助けを求めないならば、神の法を生きることはわれわれにとって不可能です。聖アルフォンソはわれわれにこう言っています。「祈る人は救われるであろう。そして祈らない人は地獄に落とされるであろう。」
なぜそれはそのように働くのでしょうか?非常に単純です。十戒は、もしわれわれが神の恵みを持たないならば、それによって生きることは不可能です。学校の子どもたちあるは大人たちにとって、もし彼らが神の恵みを持たないならば、神の諸々の法によって生きることは不可能です。しかし、もし彼らがそれを願い求めないならば、神の恵みを得ることはないでしょう。「求めなさい、そうすればあなたたちは受けるであろう」もしあなたが求めないならば、得ないであろうということは理解される。
神は第一の恵み、祈る恵みをくださいます。しかしもしわれわれが国を横切ってわれわれの学校の子どもたちの中でその恵みを押さえつけるならば、われわれの学校が戦場であることに何か驚くことがあるでしょうか?
最高裁はあなたは公然と、あるいは卒業式の間、あるいはどこであれ、祈ることはできないと裁定しました。この禁止の掛け値なしの効果は人々が公然と祈らないということです。彼らは神に第一の尊敬あるいは栄誉を与えません。
祈りなしには神はわれわれを助けることはできない
神にとって他の誰かに称賛を与えることは不可能です。神はご自分が至高の善であることをご存じです。神は被造物は皆、無に等しいということを知っておられます。被造物は限定されています。彼らはただ創造された善にしかすぎませんん。もしわれわれがひとり神にのみ捧げるべき栄誉を諸々の被造物に与えようとし始めるならば、神はわれわれの努力を祝福することがお出来になりません。それはまさに神の本性に反します。なぜなら、神は「まったき真」そして「まったき聖」であられるからであり、そして神は虚偽を証言することがお出来にならないからです。
それが、プロ・ライフの運動への世俗的アプローチが、意図はよいけれども、最終的に戦略的に失敗せざるを得ない理由です。というのは、プロ・ライフ運動は神に第一の称賛を与えなければならなかったからです。そして神に第一の称賛を与えることがないならば、神は、それがそうであるべきようには、彼らの仕事を祝福することがお出来になりません。
聖母が世界中に広められるロシアの誤謬について話されるとき、二十世紀の第一の誤謬、そして主たる誤謬は公的生活からの神の排除です。
われわれの学校、病院、そしてわれわれの法律において、公的生活のまさにあらゆる局面において、神はますます排除されています。神がわれわれの諸々の制度から排除されればされるほど、それだけ多く神は御自分の祝福をわれわれから引っ込めなければならなくなられます。その結果は社会の、そして社会における多くの個人のますます多くの堕落です。
現在の主たる誤謬
神の諸権利に対するこの攻撃はロシアの主たる誤謬であり、その誤謬は今なお非常に活発であり、われわれの間に非常に広まっています。私は神とその諸々の法に公的な栄誉を与えるということが西あるいは東において何か大きく戻って来たとは見ません。たとえ神がある種の栄誉を与えられているとしても、それは一般的に、神の法が従われなければならないということを彼らがその行動や制度によって示していないように、単なるリップ・サービスに過ぎません。
神はただわれわれにその御名を尊敬をもって用いるようにと求めておられます。われわれは確かにそのことをすべきであるが、しかし神は遙かにそれ以上のことをするようにわれわれに期待しておられます。「主よ、主よ、と言う者が皆神の国に入るのではなく、私の父のみ旨を果たす人々だけが入る。」
神の選ばれた道具・ロシア
ファチマの聖母は政治的であることがらについて語っておられます。彼女はロシアについて、そして諸民族の絶滅について話しておられます。1946年に、シスター・ルシアはアメリカの教授ウィリアム・トマス・ウォルシュ教授-『ファチマの聖母』の著者-によってこう質問されました。「わたしたちは今日預言のどの段階にいるのですか?」そして彼女はこう答えました。「わたしたちはロシアが世界中にその誤謬を広めている段階にいます。」
それから彼はこう言いました。「そのことは共産主義が全世界を征服するであろうということを意味するのですか?」そして彼女は言いました。「そうです。」彼は通訳を介して話していました。そして彼はおそらく彼女が理解しなかったと思ったので、再び質問をしました。今度は彼はこう言いました。「それはアメリカ合衆国を含んでいるのですか?」そして彼女は再びこう答えました。「そうです。」
われわれは合衆国は世界の中で軍事的に最も強大な国であると告げられています。われわれは共産主義は死んだ、危険は過ぎ去った、そしてその点ではわれわれは何の問題もない、と告げられています。
誰が正しいか?新聞や政治家たちか、それとも聖母か?
私はロシアに司令部を置いていた神の敵からの危険は過ぎ去ったと信じることを愛するでしょう。しかし、信じることは不可能です。さまざまの注意深いそしてよく考え抜かれた調査によってあなたもまたロシアからの重大な危険は実際まったく過ぎ去ったのではないということを見出すことができます。私はこれはあなたが諸々の新聞、テレビ局、ロシアを訪れた人々、あるいはこちらを訪れたロシア人たちによって教えられてきたこととまったく反対であるということを理解します。そのようなことを言うのは愚かであると考えられています。(ところで、私はこのことを1989年以来言ってきました)そしてそのとき、私は遙かにもっと愚かであると考えられていました。
今日、まだ答えられていない問題があるということを指摘するごく少数の声があちこちで上がっています。「ニューヨーク・タイムズ」でさえ、ロシアには秘密の軍事的に重装備されたコビレスキ山のようなことについて語るという不安な事実があります。ロシア人は彼らがそこで何をしているかを明らかにすることを拒んでいます。
もしわれわれが心配することを何も持っていなかったとしたら、もしそこには疑わしいものが何もなかったならば、彼らはなぜそれが何であるかをわれわれに告げないのでしょうか?どうしてもそれは唯一のことがらではありません。
エリツィンが再び大統領と宣言されたいわゆる選挙に至る6ヶ月の間に、いくつかの事実がわれわれの新聞に現れ始めました。それはロシアが全体主義に戻り得る可能性を、そして共産主義への逆戻りがあるであろうということを指摘しています。
もしあなたが世界を支配しようと今なお計画しているロシアの将軍たちの戦略と戦術を理解したいと思うならば、私はアナトーリイ・ゴリツィンによって書かれた一冊の書物を推薦します。彼は1961年にKGBから離反してこの国に来ました。彼は危険について西欧に警告するこの著作のために議会賞ならびに英国政府およびフランス政府から賞を得ました。
ロシアの古い嘘に代わる新しい嘘
1984年に彼は『古い嘘に代わる新しい嘘』という書物を出版しました。その本の中には148の預言があります-私は彼が宗教的な観点から書いていないので、それらを預言とは呼ばないでしょう-。彼は1984年に、ロシアにおいて間もなく148の発展が起こると予言しました。そして1993年までに139がすでに真実となりました。
CIAもアナリストもソビエト・ウォッチャーも、誰一人彼の実績を持っていません。1984年に、それが起こる5年も前に、彼はベルリンの壁の崩壊を予告しまっした。しかし、彼があなたに証明することは、ロシアのすべての変化は一つの目的-すなわち、あなたを欺くこと-を持っているということです。ことがら全体は始めから終わりまで、いわゆる中国とロシアの間の分裂がそうであるように、演じられているのです。
いわゆる中国とロシアの間の分裂の場合には、彼は彼らがどのようにCIAに勝つことができたかをあなたに告げます。彼はあなたにその詳細を与えます。もしあなたがこのことを信じるのが難しいと思うならば、この本を読むようにあなたに力説するでしょう。
ロシアのトロイの馬
1995年にゴリツィンは新しい本『ペレストロイカの欺瞞』を出版しました。その中で彼はもっと多くの予言をしています。そしてこれらの予言は同じ調子のものです。すなわち、欺瞞は共産主義の計画策定者たちの最も無謀な夢よりももっと成功してきたのです。彼は背景のあるものと彼がどのようにしてこれらのことがらを知っているかをあなたに明らかにしています。
彼が持ち出すすべての証拠と理由をもって彼が作る持って生まれた感覚から離れて、彼はこの危険に対して非常に洞察力があります。というのは、彼もまた目撃者だからです。彼は1958年そこに、KGBのための計画の最高段階に、いました。そして1988年に実行されるべきであったKGB30年計画に引き入れられていました。1950年代半ば、そしてそれ以後、中国の軍事的天才-彼はキリスト前500年に生きた人で、すべての戦争は欺瞞に基づくと言った-スン・ツーがKGBの理想となったと彼はわれわれに告げています。
われわれが西欧文化において戦争に勝った欺瞞について知っている最も有名な事例の一つはトロイ戦争です。そこでは10年の戦争の後に、攻撃軍が断念したと見せかけて舟を出して引き上げましたが、彼らは一つの贈り物-トロイの馬-を背後に残して行きました。
包囲されていた都市は攻撃にさらされて非常に疲れ、彼らの敵が撤退したと信じました。彼らはトロイの馬を都市の中に引き入れました。そしてその夜、木馬の中にいた戦士たちが出て来て都市の門を開き、隠れていた軍隊がトロイの人々を皆殺しにするために来させました。これはわれわれが今日そうだと公言されていることについてのうまい情景です。
神は栄誉を捧げられなければならない
今私はまた宗教的な観点からあなたがこのことが真であることをどのようにして知ることができるかを説明しましょう。
私は前に神は栄誉を捧げられなければならないと言いました。われわれは告解に行くとき、それは大変な仕事であると考えます。というのは、われわれはわれわれ自身に対するこの戦いで疲れているからです。われわれはわれわれが為すすべてに対してわれわれは称賛に値すると考えます。神学的にはそれは異端的です。しかし、われわれはわれわれが皆それをしているという感情を持っています。
われわれが回心し、よい告解をすることができる理由は恵みのためです。痛悔するためにはわれわれは恵みを必要とします。ところでこの恵みはわれわれのために十字架上でのわれらの主によって、そしてわれわれの祈りによって、あるいはわれわれのための他の人々の祈りによって得られます。
それが聖母が多くの霊魂が地獄に行くのは彼らが自分たちのために祈ってくれる人を誰も持たないからですとおっしゃる理由です。もしわれわれがわれわれ自身のために祈らないならば、あるいは誰かある人がわれわれのために祈ってくれないならば、われわれは回心し、たった一つの大罪を告白するためにわれわれが必要としている恵みを得ることはないでしょう。そして罪は、もしわれわれがそれから逃れないならば、われわれの霊魂の中にいごこちよく据えられ、あるいは安住させられる方法を持ちます。長年にわたって罪のうちに住む人はそこから抜け出すことがより困難であることを見出します。
神の憐れみはどんな罪あるいは罪人よりも大きいものです。しかし、われわれはそこには一つのプロセスがあるということに注意すべきです。そしてそのプロセスの第一歩は神の恵みです。告解においてもまた、赦免はいとも聖なる三位一体のみ名において与えられます。そして司祭はキリストの御血の功績をあなたの上に呼び下します。
告解において赦免を与える際に司祭が言うすべての言葉に注意を払いなさい。そうすればあなたは神がこのことをあなたの霊魂に対してなさることのゆえに栄光と称賛をお受けになるということを見るでしょう。
神によって以外にはロシアの根本的な回心はあり得ない
それゆえ、もしある人々がある反宗教的な宗教、その目的が神と戦うことである悪魔的宗教を建てたならば、そのとき彼らは神の恵みなしに、そして神が称賛を得ることなしに、それを放棄することはできないでしょう。もしそれが真正の宗教的回心でないならば、それは全然回心ではありません。
そしてそれゆえ、戦闘的無神論者、自らをあるときには「共産主義者」、また他のときには「社会民主主義者」と呼ぶ者、自らを「マルクス主義者」、「レーニン主義者」と呼ぶ者、彼らは多くの、多くの名前、顔、そして異なったタイトルを持っています。彼らは下部では実質的に同じです。そして彼らは神の恵みなしに、そして神が称賛を得ることなしには、回心することはできません。
ハーミッシュ・フレーザーが指摘していますように、戦闘的無神論者にとって、世俗的ヒューマニストにとって、共産主義者にとって、彼らが自らを説得してその中にはまりこんだ知的な行き詰まりから抜け出させる道を見つけることは恵みなしには不可能です。
それはまた罪が彼らの心の中にいごこちよく居座っているから不可能です。そしてそれは神の恵みと助けなしにはなされることはできません。あなたにとって、くつひもによってあなた自身を引っ張り上げ、そしてその上に立つある種のプラットホームなしにすべてあなた自身によって中空に立つことは不可能です。神の恵みはわれわれ自身を立たせるわれわれのプラットホームです。それなしにはわれわれは成功することができません。われわれは絶対的に贖い主を必要としています。それはそのように単純にそうです。それが神がわれわれの贖い主としてイエズスを送られた理由です。彼は単にわれわれの贖い主であるだけでなく、贖われるすべての者の贖い主です。人類はキリストの恵みと功績を通じてのみ贖われます。
諸々の事実と葬られたファチマの預言
われわれはキリストの恵みなしに、そして神がそのために称賛を得ることなしには共産主義の悪魔的宗教からのロシアの回心を持つことはできません。私は神にこの称賛が与えられるのをまだ見たことがありません。そして私はあの国が神に立ち帰ったのをまだ見たことがありません。
われわれはロシアの回心を見ないで、むしろロシアのさらなる堕落を見ています。今日彼らはハリウッドをさえ恥じ入らせる、もっとより西欧型のセックス・ショップ、ポルノグラフィ、映画を持っています。それは1989年以来起こってきたことです。それは聖母が約束なさっているロシアの回心ではありません。そう示唆することは冒涜です。今私はそれが冒涜よりもむしろ無知であると考える方を取りたいと思います。しかしもし彼らが何を言っているかを知っているならば、そのとき彼らは冒涜しているのである。
われわれはファチマの聖母が話された意味では、ロシアの回心を持っていません。そしてわれわれは1989年以前からの軍事的、あるいは政治的、あるいは心理学的、あるいは情報秘匿の危険の減少を持っていません。
やり方と戦術は変わりました。方法は変化しました。実体は同じです。そしてこのことはゴルバチョフが自ら言っていることと結びついています。このことはレーニンが過去にしたことと結びついています。そしてゴルバチョフは自分は同じテクニックに従っていると言っています。もしあなたがそのレベルで読み、情報を得たいと望むならば、それをあなたに証明する多くの文献があります。もしあなたが宗教的なレベルから知る必要があるならば、それもまた非常に明らかです。
われわれがごく近い将来この国で奴隷にされるであろうというのが私の意見です。われわれが奴隷にされるか、それとも絶滅させられるかのいずれかであるということが、聖母御自身のメッセージです。私は1957年12月26日にフエンテス神父に話しているシスター・ルシアの言葉をあなたに示しましょう。
「神父様、彼らに告げて下さい。祝せられたおとめマリアは何度も私と私の従兄弟、ジャシンタとフランシスコに、ロシアは、もしわたしたちがこの可哀想な民の回心を予め得ていないならば、全世界を罰するために神によって選ばれた懲罰の道具であるでしょう、と語られました。」
それは戦争、税金、政治あるいは外交を要しない
われわれが奴隷化され得ない唯一の道があります。それはより以上の軍事支出ではありません。それはより多くの政治ではありません。それは人々が彼らの希望と信頼とお金をその中に置く多くのことがらではありません。それはただファチマの聖母のうちにだけあります。
「神父様、彼らに告げて下さい。祝せられたおとめマリアは何度も私と私の従兄弟、ジャシンタとフランシスコに、ロシアは、もしわたしたちがこの可哀想な民の回心を予め得ていないならば」-ただ一つのもし....でないならばしかありません-「全世界を罰するために神によって選ばれた懲罰の道具であるでしょう、と語られました。」
あの可哀想な民の回心を得るただ一つの道があります。
神はそれを約束なさる
再びファチマの聖母を引用しましょう。彼女はこう言われます。「神が教皇に世界の全司教と共に、<この手段によって>ロシアを救うことを約束されながら」-promitendo-「私の汚れなき御心にロシアの奉献をするように求められる時が来ました。」
用いられている句は、<この手段によって>です。それはジョン・ハッファートが『ソウル・マガジン』において10年前に公刊したものとは違っています。彼はあたかも教皇と司教たちによるロシアの奉献がロシアの回心の単なる一つのしるしであるかのように、書いていました。そうではありません。それは誤りです。それが悪意に満ちたものであれ、あるいは無知によるものであれ、それは決定的に誤りです。
誰かが数千人の人々を重大に誤り導いたとあなたたちに告げる私は誰でしょうか?私は誰かを裁くためにここにいるのではありません。記録はそこにあります。聖母の言葉は公刊されています。あなたたちは1976年に公刊されたシスター・ルシアの『記録集』Documentosを見つけることができます。この書物の大部分は彼女の自筆によって構成され、次ぎにタイプされた原稿が付されています。誰もこのテキストの信憑性に疑問を呈したことはありません。
聖母は<この手段によって>約束なさいます。もっと正確に言えば、神が約束なさいます-聖母は明白に神のみ名によって話しておられます-。しかしそれは<この手段によって>約束なさる神です。それ以外には別のものは存在しません。私がそこに存在することを愛するであろうと同じように、そこには他のものは存在しません。
必要な「道具」
われわれが人々の頭を通じてその単純な事実を得ることができればよいのですが。ちょうどあなたが何かある書く道具なしにはこのページの上に言葉を書くことができないように、すべて物体的な道具である秘蹟なしにはあなたは救われることはできません。
告解でさえ-それは言葉ですが-物体的道具です。あなたは言葉なしには、人間の身体のある物体的道具性によって媒介される一つのしるしが存在することなしには、告解することができません。すべての秘蹟は道具です。それは聖トマスの教えです。そしてあなたはロシアの奉献のこの秘蹟的なものは、神が教皇と司教たちの手に委ねられた一つの道具であるということを見出すでしょう。それなしにはわれわれは奴隷化を回避しないでしょう。他の道はないのです。
ところで、あなたはそれは極端に単純化されていると言うことができます。ある人々は迷信ということで私を非難しさえしました。そうではありません。そう言うことは冒涜です。これは迷信であると言うことはファチマの聖母が迷信を助長していると言うことと同じです。ファチマのメッセージは信ずるに値します。迷信を広めるとしてそれを非難することは迷信を広めるとして教皇教導権を非難することです。ことがらの単純な事実は彼らがファチマの聖母を信じたくないということです。
これは一つの全体的な別の話です。われわれはこう言うことができます。「よろしい、それでは、ファチマの聖母は御出現にならなかった。彼女はこれらのことがらを言われなかった。神は7万人の前で奇蹟を働かれなかった。起こったすべての預言は本当は何も意味していない。」私があなたたちに告げていること、他のいかなる道も存在しないということを信じることよりもそれがそうであろうと信じることはもっと愚かです。他のいかなる道も絶対にそして単純に存在しないのです。
聖書に記述されている今日のわれわれの状況
われわれが今日どこにいるかの情景を欲するならば、あなたはそれを聖書の中に見出すことができます。それは紅海のほとりに立っている旧約聖書における神の民のようなものです。聖書の中の節を思い起こすならば、民がエジプト軍に取り囲まれたのは出エジプトにおいてです。
彼らの剣は引き抜かれていました。彼らはイスラエル人の首をはねる、あるいは彼らの間を駆け抜ける用意を整えていました。そしてエジプト人は全速力で彼らを圧倒しようとしていました。そして人々はどこにも逃げ場がありませんでした。
彼らは、ちょうどわれわれがそうであるように、武装していませんでした。そして行くところはどこにもありませんでした。彼らの前には海があり、彼らの後ろには軍隊がいます。神はモーセに命令を与えられました。神は民全体に告げられたのではありませんでした。神はモーセだけに海の上に彼の腕を伸ばすように告げられました。
さて、神はエジプト人たちの目に砂を投げ入れることもお出来になったでしょう。神は多くのことをなすことがお出来になったでしょう。しかし、神はまずモーセから信仰と従順の行為を要求なさいました。神はまたすべての民の側にも信仰の行為を要求なさいました。モーセはその腕を海の上に伸ばしました。そして海は開けました。彼らは歩いて通り抜けました。ところで、一方の側に水の壁があり、他方の側にも水の壁があります。しかし、彼らは他の岸へ行くことができるように神がそこで水を持ち上げてくださると信じて、歩いて通り抜けました。彼らはマリアの名によって一人のおとめによって導かれました。それは今日われわれがどこにいるかについての描写です。相違はある人々がわれわれを圧倒する軍隊をまだ見ないということです。不幸なことに、私はあなたたちのすべてが、もしそれ以前でないとすれば、二三年先にそれを見るのではないかと恐れています。われわれは取り囲まれているのです。
われわれの敵は彼らの武器そして彼らの意図を隠してきました。しかし、われわれの前にまさに現れようとしています。
2500年前紅海のほとりに立っている神の民にとってたった一つの解決があったように、一つの解決があるでしょう。
神はその選ばれた代理者-教皇-に、神に対する信仰、希望、従順において、ロシアの上にその手を伸ばすように求めておられます。そして神はロシアを回心させられるでしょう。
われわれは教皇のために祈らなければなりません。
イエズスがシスター・ルシアに言われたように、「教皇のためにたくさん祈りなさい。彼はそれをなすであろう。しかしそれは遅いであろう。」