原爆と戦争責任

なぜ核兵器はなくならないのでしょう?なぜ日本人は非常識なのでしょう?

川口隆行による本島発言への評(2004年)

2007-07-19 00:30:30 | 原爆
「被害と加害のディスクール~戦後日本のわたしたち」(川口隆行)より抜粋
  雑誌「原爆文学研究」第3号 [2004.08]
http://scs.kyushu-u.ac.jp/~th/genbunken/kenkyu/03pdf/01_kawaguchi.pdf

(前略)
「8月6日・9日」を語るにあたって被害ばかりを強調するのではなく加害に言及すべきだという言説は、かなりの程度浸透し、認知されている。90年代以降だけでも、広島・長崎両市長の「平和宣言」で加害と(その謝罪)が言及されるようになり、植民地支配や侵略戦争について配慮した平和資料館の展示再配置が行なわれた。1995年には被爆地長崎において、岡まさはる記念長崎平和資料館が開館する。必ずしも広いとはいえない館内は、展示室はもちろん廊下や階段の壁面にいたる隅々まで強制連行、戦時性暴力、日本軍の虐殺行為等に関するパネルや展示品によって埋め尽くされ、立ち入るものの知性と情念に圧倒的な凄みをもって訴えてくる。
 (記念館のパンフレットに記載されている設立趣旨は次の通りである「日本の侵略と戦争の犠牲となった外国の人々は、戦後50年。たっても何ら償われることなく見捨てられてきました。加害の歴史は隠されてきたからです。加害者が被害者にお詫びも償いもしないという無責任な態度ほど国際的な信頼を裏切る行為はありません。/この平和資料館は、日本の無責任な現状の告発に生涯を捧げた故岡正治の遺志を継ぎ、市民の手で設立されました。政治、社会、文化の担い手は、たとえ小さく見えようとも一人ひとりの市民です。当館を訪れる一人ひとりが、加害の真実を知るとともに被害者の痛みに思いを馳せ、一日も早い戦後補償の実現と非戦の誓いのために献身することを願ってやみません。」)

「原爆は落とされるべきだった」「原爆が日本に対する報復としては仕方がなかった」という本島等の発言もそうした言説を代表する一つであろう。1996年12月5日、ユネスコ第20回世界遺産委員会は、原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)の世界文化遺産登録を決定する。採決において反対票は投じられなかったものの、アメリカは黙認という立場で戦争遺産の取り扱い再考を委員会に要求し、中国は賛否の判断を留保し、それぞれ棄権にまわった。
 翌春、昭和天皇の戦争責任に言及し右翼から銃撃されたことで知られる本島等元長崎市長は「広島よ、おごるなかれ―原爆ドームの世界遺産化に思う」と題した論文を広島平和研究所の発行誌に寄稿する。本島は論文中「峠三吉は誰にむかって、ちちをかえせははをかえせと言っているのだろうか」と問い質す。反戦反核の旗印=プロパガンダとして、人々を奮いたたせ、平和運動に動員した「人間をかえせ」を<中国華北の孤児たち>の発した声へと大胆に読み替え、意図的に異なる文脈に移し変えようとする。そして、広島の原爆野のかわりに三光作戦の虐殺による〈無人の地〉の光景を想像=創造するのである。

 日本侵略軍に、皆殺し、焼き殺され、何の罪もない中国華北は無人の地となった。1941~43年までに247万人が殺され、400万人が強制連行された。「ちちをかえせははをかえせ何故こんな目に遭わねばならぬのか」峠三吉よこのことばは、親を皆殺しにされた、中国華北の孤児たちのことばだったのではないか。広島に原爆を落としたのは「三光作戦」の生き残りだったのではないか5

本島は同様の主張を「なぜ私は〈謝罪〉を言うか」民衆にも加害責任がある(論座、1997年11月号)でも繰り返し、ついには共同通信社の単独インタビューに(1998年7月29日)「(原爆は)落とされるべきだった。(満州事変から終戦までの十五年間にわたる)あまりに非人道的な行為の大きさを知るに従い、原爆が日本に対する報復としては仕方がなかったと考えるようになった」と語るまでになる。
 記事によると、本島氏は第二次世界大戦について「南京大虐殺、三光作戦、七三一部隊などは虐殺の極地。日本人の非人間性、野蛮さがでている」と強調。「中国などにとっては原爆は救世主だった(日本は)一度戦争に引きずり込んだのだから、最初から覚悟していたのではないかと」と述べた。

 現在、世界に配備されている核兵器と、投下された原爆との関係については「あの当時の原爆はおもちゃのようなもの。当時の考え方からすれば通常兵器の一種だったと考えざるを得ない」とし、原爆による被害は現在の核兵器による被害とは単純比較できないとの認識を示した。
 昨年の長崎原爆の日の伊藤一長現市長が読み上げた平和宣言文の中から初めてアジア諸国への謝罪の文言が消えたことについて、本島氏は「謝罪のない宣言文なんて日本以外はだれも相手にしない逆に悪意を抱く」と指摘、宣言文は年々後退している憂うべき問題だと述べ日本の加害者責任があいまいなままの現状を厳しく批判した。

本島発言は、被爆者団体はじめ各方面から被爆体験を貶め、歪めるとして猛抗議にあうのだが、その挑発的言辞の真の狙いは、加害の認識と謝罪の徹底を通して原爆観の落差を埋めること、そして何よりも被爆体験の特権化による「被爆ナショナリズム」の解体にこそある。概して本島発言の批判者の多くは、本島が挑んだ「被爆ナショナリズム」の解体という点については、見落とすか、あえて見ようとしなかった。反対に、本島発言に共感した者には、同時期に強行されたインド・パキスタンの核実験に代表されるアジア諸国の核開発競争に対して「被爆ナショナリズム」、から脱却できないでいる従来の「ヒロシマ・ナガサキ」の主張が全くの無力であったという焦燥感が存在した。また「8月6日、・9日」を語るのとともに、アジア侵略に言及するという枠組み自体、私が前提とするようには、共有されていないという危機意識もあったのだろう。こうした焦燥感や危機意識を杞憂と一蹴するには、ためらいがなくもない。

というのも、本島発言がなされた時期は、小林よしのりのマンガ(幻冬社、一九九八年『新ゴーマニズム宣言戦争論SPECIAL 』が刊行され、爆発的なベストセラーになったことに象徴されるように、俗に歴史修正主義者と呼ばれる論者が勢いを増してきた時期であるからだ。続編『戦争論2』を経て『戦争論3 において三部作(同社、二〇〇三年七月)として一応の完結をみる『戦争論』シリーズは、第一部、第二部では「反戦平和サヨク、第三部では「親米プチ保守」と、攻撃」の矛先が微妙に移動しているが、国家への過剰な同一化による誇、。大妄想的自画像を描き出そうとしている点は首尾一貫している『戦争論』は、現在もっとも印象的、魅惑的に「八月六日・九日」を登場させるポピュラーな表現媒体でもある。第一部ではまとめて十頁を割いて八月六日・九日を延々描写するように、シリーズ全体に渡って「八月六日・九日」の記憶を随所に呼び出し、ひたすらその追体験を試みる表象操作によって「日本」は悲惨な被害者の位置を与えられていく。本稿のエピグラフに掲げた小林のエッセイを収録し、小林が編集も担う雑誌『わしズム』第七巻は完結編第三部と同時発売されており『戦争論』の期待される読みの地平を積極的に提示する媒体となっている。内容は当然のこと、ひときわ目を引くのは、原爆ドームを背にした小林の写真で飾られた表紙裏表紙の装丁であろう「反米嫌中」を念仏のように復唱しながら「反戦平和サヨク」、に切りかかり、返す刀で「親米プチ保守」を裁断する、そうしたナショナリズム言説の絶対権威を保障する究極の役回りとして、葵の印籠ならぬ原爆ドームの威光が遺憾なく発揮、利用されているのである。

ちなみに全国紙で一連の本島発言を大きく扱ったのが読売新聞と産経新聞であったことは現在のメディア状況を思えば、やはり興味深い。例えば産経の場合「許せぬ本島発言」(1997年7月15日)「本島元長崎市長『原爆投下は仕方なかった』(1998年8月1日)被爆地から非難続出と、被爆者の抗議の声を大きく取り上げ、代弁するようなかたちで、自紙の政治主張を鮮明に打ち出している。
 もちろんこうした姿勢は産経がこの時期支援してきた「新しい歴史教科書」作り運動と直結している。たとえば、2001年4月21日には「本島原爆容認論と同じ論理構成で記述」という記事を掲載している。一部引用しておこう「広島に原爆が投下されたのは軍都だから―とする記述が平成14年度版の中学校歴史教科書(東京書籍)に掲載されることが分かったが、この記述は、本島等・前長崎市長が四年前に発表して各方面から批判を浴びた論文と論理構成が同じだ。原爆容認論にもつながりかねない記述が教科書にまで登場したことに、核兵器問題に詳しい識者は驚きを隠さない。」

現在、小林よしのりが産経の「アメリカ追随報道」を糾弾するのは別にして、彼が「新しい歴史教科書をつくる会」の活動に熱心に参加していたことは周知の事実であり『戦争論』の原爆表象と産経の本島発言批判とは明らかに通底している。少なくともこうした現状を鑑みれば、原爆ドームの世界遺産登録に寄せた本島の危惧は見事的中したと言うべきかもしれない。

一方、従来の全国紙レベルの原爆報道は朝日新聞や毎日新聞によって担われてきた側面が強いのだが、両紙の本島発言の扱いは極めて小さい。朝日や毎日は、本島発言を問題化するすべや、問題化しようとする意識さえ持ちえなかったのだろうか。被爆地の新聞メディアを比較してみると、中国新聞よりも長崎新聞のほうが、本島発言の問題点を注意深く掘り下げようと試みている。