Stahlgewitter2016

ベルリンでの日々

パラドクス

2017-06-19 09:35:04 | 日記
 ロビンソン・クルーソーが島のもっとも高い一点、より正確には、もっとも見晴らしのきく一点にとどまりつづけていたとしたら--慰めから、恐怖から、無知から、憧れから、その理由はともかくも--そのとき彼はいち早く、くたばっていただろう。ロビンソン・クルーソーは沖合いを通りかかるかもしれない船や、性能の悪い望遠鏡のことは考えず、島の調査にとりかかり、またそれをたのしんだ。そのため、いのちを永らえたし、理性的に当然の結果として、その身を発見されたのである。
 (カフカ「ロビンソン・クルーソー」(池内紀訳)


 さる国に連れ去られた日本人、ある人は帰国でき、ある人はできなかった。真偽のほどは定かではないが、帰国できなかった人は帰国の希望を捨てず、時に逃亡も企てたという。これに対して帰国できた人は、その国に家族と共に生きることを決断し、そのためにその国の体制に忠実に生きようとしたという。ある時、日本に一時的な帰国をさせる人間を選ぶ時が訪れた。選ばれたのは、一時帰国させても体制に反することはしないと見込まれた後者の人々であった。結果としてその一時帰国が最終的な帰国につながった。
 その境遇から逃れる希望を捨てなかった人が希望を果たせず、希望を捨てたがゆえに逃れることができた人がいた。これがその通りだとしたら、これほど悲しい逆説(パラドクス)はないだろう。
 社会科学において最も興味深いのは、社会におけるパラドクスを見つけ、それがなぜ生じるかを明らかにするような作品である。また、社会を複眼的にみるための要諦がパラドクスへの注目にあることは、苅谷剛彦『知的複眼思考法』の説く通りである。
 さて、カフカ描くところのロビンソン・クルーソーの行動は、このパラドクスを短いながら極めて鮮明に示している。ふつう島から脱出するために試みるようなことをせず、島の生活を楽しんだ(脱出のためにはそんなことをする暇はないだろう)がゆえにその身を発見された、というのである。
 と、一見この短い文章はパラドクスとは何かを説明する際に有用にみえるのだが、カフカは驚くべきことに、「理性的に当然の結果として」、ロビンソン・クルーソーは島から抜け出る道を得られたと書いている。
 つまり、ロビンソン・クルーソーの行動はカフカにとってパラドクスでも何でもない。それはなぜなのか。こう考え始めた時、すでにカフカの迷宮の中にいる。
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