Stahlgewitter2016

ベルリンへの日々

「記憶の断罪」をめぐって②

2016-10-15 10:40:02 | 忘却の政治
 1989年に東ヨーロッパで共産主義体制が崩壊し、その数年後にはソ連の共産主義体制のみならずそ、ソ連という国家自体が消滅した。
 その際、各国で共産主義体制やソ連支配を象徴するような記念建造物への暴力的な破壊行為がみられた。とくに狙われたのは共産主義体制を代表する権力者、とりわけレーニンの像であった。レーニン像の倒壊してゆくシーンは、共産主義体制の崩壊過程の象徴として記憶された。
 しかし、奇妙なことにというべきか驚くべきことにというべきか、そのような暴力的な破壊行為がほとんど生じなかった共産主義国家があった。
 東ドイツである。冷戦による東西分断の最前線、東ヨーロッパの共産主義体制の最優等生であった東ドイツでなぜ、共産主義体制支配のさまざまな象徴に人々の怒りや憎しみの感情が向かわなかったのだろうか。
 いくつかの仮説がある。
 第一は、ドイツ人のメンタリティによる説明である。ドイツでは第一次世界大戦の終結時も、ナチズム支配の時代も第二次世界大戦の終結時も、ほとんど暴力的な「偶像破壊」を経験しなかった。それに示されるようなある種の秩序意識が機能し、記念建造物も、事務的・官僚的に撤去された、というのである。
 第二は、ベルリンの壁の存在である。ベルリンの壁が崩れたことは、ドイツのみならず、ヨーロッパあるいは世界の冷戦の終焉を象徴する出来事とみなされた。そのようなベルリンの壁が倒壊したことに、東ドイツの人々は胸のすくような思いを感じ、それ以上の「偶像破壊」はとるに足らないものと感じるようになった、というのである。
 そして第三は、東ドイツの人々は、その地理的位置から西側に近づきやすく、西側徒の接近(さらには訪問)をイデオロギーや政治の問題よりは実践的な生活の問題と考えていた、というものである。新しいもの未知のものへの単純な関心や憧れが、象徴やイデオロギー問題への関心を失わせていったというのである。
 どれか一つでこの興味深い現象をきれいに説明することはできないだろうが、おそらくは、東ドイツの中心部に西ドイツの飛び地たる西ベルリンを抱えていたということ、そしてそこにベルリンの壁という最も重大な共産主義支配と東西冷戦の象徴があったということ、こうした特殊事情が、東ドイツにおける暴力的「偶像破壊」の不在の背景にはあるのだろう。
 (Florian Greßhake, Damnatio memoriae. Ein Theorieentwurf zum Denkmalsturz (2010), S. 38-41)
ジャンル:
ウェブログ
この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 「記憶の断罪」をめぐって① | トップ | 「記憶を少しずつ薄れさせる... »
最近の画像もっと見る

あわせて読む