カトリック教会の問題

公会議後の教会の路線は本当に正しいのでしょうか?第二バチカン公会議後の教会の諸問題について、資料を集めてみたいと思います

トリエントミサがない時は、新しいミサに与ってもいいのか?

2017-06-18 20:04:25 | 公開書簡
トリエントミサがない時は、新しいミサに与ってもいいのか?

 しかし、司式者の意向はどうやって判断したらいいのでしょうか。司祭たちの信仰が弱まるにつれ、彼らが「教会が常にしていたことをする」という意向をもはや持たなくなるにつれ、(というのは、教会はその意向を変えることができませんから)ますます有効なミサが少なくなっているということは全く明らかなことです。いわゆる現在「神学生」と呼ばれている人たちの受けている養成では、有効なミサを捧げられるようにとは、彼らを準備していません。神学校では、ミサ聖祭の犠牲が司祭生活の基本的な事業であるなどと考えるようには彼らに教えていないからです。

 他方で、全く一つも誇張なしに、ほとんどの[新しい]ミサは、祭壇石もなく、低俗な祭具で、種入りのパンで、カノンの真っ最中でさえも世俗の話が導入されるなど、涜聖であり、そのようなミサは信仰を減少させ、信仰を失わせます。これらのミサの非神聖化のために、ミサの超自然的な性格、「信仰の神秘」を失っています。[新しいミサにおいて]もはや自然宗教の行為以外の何ものでもなくなっています。

 皆さんの「どうなってしまったか分からなくなった」ことは、次のような形を取るかも知れません。

 つまり「古いミサが無いときには、主日の義務を果たすために、私は、有効だけれども涜聖のミサに与ることができるのでしょうか?」という質問の形です。この答は簡単です。これらのミサは義務の対象にはなりません。更に私たちはこのミサに、信仰を危険にさせる行為、あるいは涜聖の危険のある行為に参与・参加することに関する、道徳神学と教会法の規則を適応させなければなりません。

 新しいミサは、たとえ敬虔深く典礼規則を遵守して捧げられたとしても、上記と同じミサに対する態度をとらねばなりません。何故なら新しいミサはプロテスタントの精神が染み込んでいるからです。新しいミサはそれ自体で信仰に対する非常に有害な毒を含んでいます。そのことを確認すると、今日ではフランスのカトリック信者は宣教地のと同じ宗教生活をする条件下にいると言わざるを得ません。宣教地の住民たちは、1年に3、4回しかミサに与ることができません。フランスの信者たちも、聖寵と聖化の本当の源である、昔の「永遠のミサ」にがまだ捧げ続けられているところに行って、そのミサに1月1回与るために努力をしなければならないことでしょう。
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