カトリック教会の問題

公会議後の教会の路線は本当に正しいのでしょうか?第二バチカン公会議後の教会の諸問題について、資料を集めてみたいと思います

ミサが十字架のいけにえの続きであるためには、三つの条件が必ず無ければなりません

2017-06-16 16:46:05 | 公開書簡
 しかし、公教会はその反対に、このいけにえは、ミサのたびごとに、私たちの祭壇上で神秘的に血を流さないやり方で、パンとぶどう酒の形相の下で御体と御血との分離によって実現すると常に言明しています。この神秘的な更新のおかげでミサに参列している信徒たちに十字架の功徳を適応させることが出来るし、時と空間においてこの聖寵の源を絶えず続けることが出来るのです。聖マテオによる聖福音はこの言葉によって終わっています。「私は今からお前たちと共に常に世の終わりまでいるだろう」と。

 この考えの違いは些細なことではありません。しかしカトリックの教義を変えて、その違いが無いかのようにしようと努力しています。カトリックの教義に変更が加えられていることは、典礼の中に多くのしるしを見ることが出来ます。

 ルターはこう言っていました。「礼拝は以前、天主に崇敬として捧げられていた。しかしこれからは人間を慰め人間を照らす為に、人間に捧げられるだろう。いけにえは以前第一位を占めていた。しかしこれからは説教がそれにとって代わるだろう」と。これは人間の崇敬の導入を意味し、「御言葉の典礼」に重要さが与えられたのです。

 新しいミサ典書を開きましょう。この革命がミサの中で成就しています。以前は二つであった聖書の朗読[書簡と聖福音]に、もう一つの朗読や「共同祈願」が加わりました。共同祈願はよく政治・社会のイデオロギーを広めるために使われていますが、説教を含めて言葉が多くなりバランスを崩しています。説教が終わるとミサはもう殆ど終わりに近づきます。

 教会の中で、司祭には、彼をして第二のキリストalter Christusとする、消すことの出来ない司祭の刻印が刻まれています。そのために司祭だけが聖なるいけにえを捧げることが出来るのです。

 ルターは聖職者と平信徒との区別を「ローマ主義者が作った第一の壁」だと考えていました。ルターによれば全てのキリスト者は司祭であり、牧師とは「福音のミサ」の座長としての役割しか持たないのです。


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