カトリック教会の問題

公会議後の教会の路線は本当に正しいのでしょうか?第二バチカン公会議後の教会の諸問題について、資料を集めてみたいと思います

共通点はミサ聖祭が全く日常の行為の位まで押し下げられていること

2017-06-14 16:48:51 | 公開書簡
共通点はミサ聖祭が全く日常の行為の位まで押し下げられていること

 これらの躓きになる光景には共通のものがあります。それはミサ聖祭が全く日常の行為の位まで押し下げられていることです。装飾、楽器、態度、服装などの低俗さです。さて、カトリックという名の付く雑誌は、教会の入り口で売られ、このようなやり方でミサをたてられていることを批判するのではなく、反対にこれらのやり方を推薦するために写真を載せているのです。ラ・ヴィ[La Vie]と言う雑誌は、これだけでは足りないと思ったようです。たいていは読者の便りの抜粋を使ってこの雑誌の考えていることを無責任に書くのです。例えばこうあります。「典礼改革は更に進めなければならないと思います・・・。同じことをくり返したり、いつも同じ祈りがあったり、このような典礼規定は真の創造性にストップをかけています。」ではミサはどうあればいいのでしょう?こう言います。「私たちの問題は沢山あります。私たちの困難な状況は大きくなるばかりで、教会はまだそのことに気が付いていません。ミサが終わって帰路についてもしばしば疲れています。私たちの生活、私たちの今の問題と日曜日に私たちに項生きなさいというその教えとの間には何かギャップのようなものがあるのです。」

 ミサが私たちを天主へと引き上げるのではなく、人間のレベルにまで私たちを降ろすものであったら、そしてミサを変に理解して、「問題」から人を超越させることを許さないものであるなら、確かにミサが終わっても疲れてかえるだけでしょう。この典礼改革を更に進めようというかけ声は、聖なるものを破壊しようという故意の意志があることを示しています。キリスト信者にとって何か必要なもの、キリスト信者が願うものをこうやって取り上げてしまっているのです。何故ならキリスト信者は天主にかかわりのある全てのことを崇敬し尊敬したいと思っているからです。そうなら天主の御体となり御血となるミサのいけにえに関してはどれほどの崇敬を払いたいと思うことでしょうか。何故ホスチアを灰色や焦げ茶で作るのでしょうか。糠の混じったホスチアを作るのでしょうか?新しいミサの中からは削除されてしまっている古い祈りhanc immaculatam hostiam(この汚れなきホスチア)という祈りを忘れさせようとしたいのでしょうか。
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