仙台青春風の旅

ブーメランのように

吉野の桜と醍醐の桜

2017-04-18 | Weblog
花見と言えば桜、桜の花見で有名なのは秀吉が催した吉野の花見と醍醐の花見がことさらに有名だ。そこで今回は所用に合わせてその前後に奈良県の吉野と、京都山科と六地蔵の間にある醍醐寺へ、桜の満開に合わせて花見に行き往時を偲んでみた。年譜を整理すると

1590年 北条征伐関東平定、日本全土平定(秀吉54歳)
1592年 朝鮮出兵(秀吉56歳)
1594年 吉野の花見(秀吉58歳)
1596年 第2次朝鮮出兵(秀吉60歳)
1598年 醍醐の花見(秀吉62歳 この年死去 )
1600年 関ヶ原合戦 徳川方の勝利
となる。

1592年の朝鮮出兵開始2年後の1594年に秀吉は吉野の花見を催し、徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗ら武将ほか総勢5千人が豪華絢爛な花見を行った。これはもう花見というより「まつりごと」そのものだった。秀吉の本陣となった吉水神社は南北朝時代南朝の後醍醐天皇の政務所いわゆる南朝の皇居が置かれた由緒ある神社だった。

1596年の第2次朝鮮出兵後の2年後の1598年に醍醐の花見が催され、参加者は大名の奥方やお付きなどほとんどが女性だったそうだ。醍醐寺と上醍醐に続く沿道には畿内各所から短期間のうちに700本もの桜を移植させたとのこと、また1500人の女性に3着ずつの新品の着物をプレゼントしお色直しをさせたという豪勢な話が残っている。ボクは大学院のころ、六地蔵の駅を通過して大学の研究所がある黄檗まで3年間通ったのだが近くにある醍醐寺には一度も行ったことがなかった。当時の関心事は他にあり青春とはそんなものだとうそぶいてみたものの、今更ながら悔やむと言うより勿体なかったなと淡々と振り返ったりする。

小生も関西を離れて何十年にもなるが、豊臣秀吉は関西では「太閤はん」と呼ばれて特に大阪では人気がある。結果的には大阪冬の陣の後に夏の陣で大阪城炎上があり政権の移行があって徳川家康の評判は良くない。政変があって首都を江戸に移されてしまった大阪は悔しかったのだろう。

余談だが、大阪を中心に京阪神では阪神タイガースの人気は絶大で、もはやその応援たるや理屈ではない。阪神タイガースのことをタイガースというより阪神と呼ぶ人が多かった。ボクが神戸に住んでいたころ、ジャイアンツすなわち巨人の方が圧倒的に強かったので、阪神の応援は悲愴である。深層には江戸徳川とジャイアンツへの敵愾心があったのだろう。そのころラジオ番組で中村鋭一というパーソナリティが阪神の勝った翌朝には「阪神優勝です!」と叫んで毎朝「六甲おろし」をフルコーラス熱唱するのには参った。関西人は熱くなり六甲おろしの合唱に理屈抜きで酔いしれた。中村鋭一氏は六甲おろしの熱唱で有名になり挙げ句の果てには国会議員選挙に当選してしまった。今日はこのあたりまで。









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