聖ピオ十世会 Society of Saint Pius X

キリストは勝利し給う、キリストは統治し給う、キリストは命じ給う

なぜ伝統的ラテン語ミサなのか?なぜ新しいのはいけないのか?62の理由

2017-01-17 01:31:23 | ミサについて
なぜ伝統的ラテン語ミサなのか?
なぜ新しいのはいけないのか?
62の理由

(伝統的ミサ) 二千年間もの尊むべき使用試されかつ真実のもの
(新ミサ)1969年に捏造試験的なもの

(伝統的ミサ) 明白に犠牲である祭壇と司祭
(新ミサ)明白に食事であるテーブル使用

(伝統的ミサ) 天主を中心に据えられる崇敬の為に構成されている
(新ミサ)人間を中心に据えられる自由な構造が乱用招く

(伝統的ミサ) 完全にカトリック一・聖・公・使徒継承
(新ミサ)半分プロテスタント四つの徴(しるし)全てを欠く

(伝統的ミサ) トリエント公会議にて法典化聖人教皇によって(教皇聖ピオ5世)
(新ミサ)企画考案された六人のプロテスタント牧師の認可のために

(伝統的ミサ) 実り豊か!数知れぬ聖人、殉教者、聖職召命の群れ
(新ミサ)不毛!空っぽの神学校、ミサ参列者の減少、大量の背教

(伝統的ミサ) .....この我々の、永久に有効であるべき、教令によって、我々は、このミサ典礼書において、何かが付加されたり、削除されたり、変更されたりなど決してなされるべきではないことを、定め、かつ命ずる。.... 教皇聖ピオ五世“クオ・プリムム”1570年7月14日
(新ミサ)「新典礼によって、非カトリック共同体は、カトリック教会と同一の祈祷文をもって主の晩さんを祝うことができるであろう。」 マックス・テュリアン Taizeのプロテスタント牧師「刷新されたミサにおいては、福音主義(新教)のプロテスタントに本当に差障りになるものは何一つない。」 M.G.ジークヴァルト Strasbourgのプロテスタントの教理神学教授

(伝統的ミサ) 聖なる聖会から決して廃止された事がない!
(新ミサ)失敗した試み


 何故、良心的に、我々は新ミサ(或いは教皇パウロ六世のミサ、Novus Ordo[新通常文]、新典礼)に与ることができないか。自国語でもラテン語でも、人々に対面しても聖櫃に対面しても、である。従って、これらと同じ理由で、我々は、忠実に伝統的ミサ(或いはトリエント・ミサ、古いラテン語ミサ、ミサ—レ・ピアーヌム、聖ピオ五世のミサ典礼書、全時代のミサ)を堅持するものである。(これらの理由は、ブラジルのカンポス教区の教区司祭が発表した60の理由に基づいている。)
【原文はアメリカ合衆国Ridgefieldの聖トマス・アクイナス神学校が出版した英語のもので、これはその邦訳である。】

 1.何故なら、新ミサは、(伝統的ミサがそうであるような)カトリック信仰の紛れもない明白な告白ではなく、曖昧なもの、プロテスタント的なものだからである。従って、我々は、信仰する通りに祈るからには、プロテスタント流の新ミサで祈りながらも、なおカトリック信者として信仰することはできない、ということになる!

 2.何故なら、変更は単に些細なものであるに留まらず、実に「根本的な刷新・・・完全な変更・・・新しい創造物・・・に関わる。」(新ミサの共同作成者、Msgr. A. ブニーニ)ものだからである。

 3.何故なら、新ミサは、「真理が・・・永久にカトリック信仰と切っても切れない関係にある“教理の神聖なる遺産”に不忠実であることなく、変更され、或いは無視されることができる、という思いに私達を至らせてしまう。」からである。*

 4.何故なら、新ミサは、「トリエント公会議の第22総会において公式化されたミサのカトリック神学からの、著しい離脱を提示している。」からである。同公会議は、“教理典範(=カノン)”を定めることによって、「玄義の完全性を侵害する異端に対して打ち勝ち難い防壁を築いた。」のであった。*

 5.何故なら、両者の相違は、単に些細な点に関する或いはただの祭式の修正に関するものであるに留まらず、「永遠の価値を有する全ての事柄は ——それがいやしくも未だ見出され得るとしても—— 、(新しいミサにおいては)より少ない場しか与えられていない。」からである。*

 6.何故なら、「典礼における真新しい変更は、既に困惑と信仰の弱体化のしるしが見受けられる
信者たちを、全くの混乱に陥れる他ないということを、最近の改正の結果が、十分に示唆している。」からである。*

 7.何故なら、今日のような混乱の時代においては、我々は、「その結ぶ実を見て、かれらを見分けることができる。」との我等の主の御言葉によって導かれるからである。新ミサの結実とは:合衆国における、主日のミサ参列者の30%減少(N.Y.Times誌5/24/75)、フランスにおける43%減少(マルティ枢機卿)、オランダにおける50%減少(N.Y.Times誌1/5/76)、である。

 8.何故なら、「最良の聖職者たちの間では、(新ミサの)実際的結果は、痛ましい良心の危機となっている。」からである。*

 9.なぜなら、新ミサ導入後わずか七年足らずで、全世界の司祭は41万3438人から24万3307人に減少 ——ほぼ50%—— したからである(聖座統計)。

 10.何故なら、「伝統とのかくも重大な決裂を正当化するために引き合いに出されている司牧上の理由は、我々にとって十分なものには思われない。」からである。*

 11.何故なら、新ミサは、我等の主の聖体におけるまことの現存に対する信仰を表明していない — ところが伝統的ミサはそれを全く間違いなく表明しているからである。

 12.何故なら、新ミサは、キリストの聖体におけるまことの現存を、キリストの我々の中における神秘的な現存と混同している(かくしてプロテスタントの教義に近似している)からである。

 13.何故なら、新ミサは、聖職位階の司祭職と人々の共通司祭職とでは、歴然と異なっているべき事柄を、(プロテスタントがしているように)ぼかしてしまっているからである。

 14.何故なら、新ミサは、キリストを聖体の秘蹟に現存せしめるのは人々の信仰であって、司祭の言葉ではない、という異端の理論を助長するものだからである。

 15.何故なら、ルーテル派の“信徒の祈り”の新ミサへの挿入〔=共同祈願〕は、人々全員が司祭であるというプロテスタントの誤謬に従い、かつそれを働かせるものだからである。

 16.何故なら、新ミサは、司祭のConfiteor(告白の祈り)を廃して、それを人々と共同のものにしてしまっており、こうして、司祭が裁判官、証人、天主との仲介者であるというカトリックの教えについての、ルターの否認を助成しているからである。

 17.何故なら、新ミサは、人々が司祭と共同執行するということを伝えようとしているからである — それは、カトリック神学に反する!

 18.何故なら、新ミサを作成するにあたって、六人のプロテスタント牧師が協働したからである(Drs.ジョージス、ジャスペル、シェパード、ケナッス、スミス、テュリアン)。

 19.何故なら、丁度ルターがOffertorium(奉献の部)を廃したように — そうしたのは、それがミサの犠牲的、贖罪的性格を明確に打ち出していたからであった —、同じく新ミサもそれを廃したのであり、それを単なる賜物のお供えごとに格下げしてしまったからである。

 20.何故なら、十分にカトリック神学が排除されたので、プロテスタントの人々が、まことのローマ・カトリック教会に対する反感を持ち続けながらも、新ミサのテキストを難なく使用できるほどだからである。プロテスタント牧師のテュリアンは、新ミサの結実の一つは「おそらく、非カトリック共同体が、主の晩さんをカトリック教会と同じ祈祷文を用いて祝うことができることだ。」と言ったものだ(La Croix誌4/30/69)。

 21.何故なら、新ミサにおける、聖変化の物語る様な【ナレーションの様な】やり方は、それが単なる記念であって、まことの犠牲ではない(プロテスタントのテーゼ)と暗示してしまっているからである。

 22.何故なら、重大な省略の数々によって、新ミサは、それが単に食事(プロテスタントの教義)であって、罪の赦しのための犠牲(カトリックの教義)ではないと、私達に信じるに至らしめるからである。

 23.何故なら、祭壇の代わりに、テーブル、聖櫃の代わりに人々に面すること、手での聖体拝領等は、プロテスタントの教理(例えば、ミサは食事である、司祭は単に会衆の座長である等)を強調しているからである。

 24.何故なら、プロテスタントの人々自身が、「新カトリック奉献文は、天主に献げられるいけにえの間違った見識を放棄した。(La Croix誌12/10/69)」と述懐したからである。

 25.何故なら、我々は、新ミサをもって礼拝することでプロテスタント化するか、そうでなければ全時代の伝統的ミサを忠実に堅持することで我等のカトリック信仰を守るかのいずれかである、というジレンマに直面するからである。

 26.何故なら、新ミサは、プロテスタントのミサの定義に従って作成されたからである:「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の儀、すなわち“主の記念”を祝うために、キリストを代理する司祭を座長として、一つに集まった天主の民の集会である。」(4/6/69、新ミサ典礼書の総則第7項、ミサの定義)

 27.何故なら、両意に取れる曖昧さによって、新ミサは、プロテスタント信者の気に入ろうとする一方でカトリック信者の気に入ろうとするからである;こうして、それは“二枚舌”であって、あらゆる種類の偽善を忌み嫌われる天主を侮辱するものなのである:「・・・と二枚舌の人は、呪われよ、彼らは幾多の平和の人々を亡ぼしたからである。(集会の書〈=シラの書〉28章13節)」

 28.何故なら、人々を何世紀の間霊感してきた、美しい、親しまれたカトリック聖歌が投げ出され、強くプロテスタント感覚のものである新しい聖歌に置き換えられてしまって、もはや人はカトリックの行事に参加しているのではないという、既にはっきりした印象をより一層深めてしまうからである。

 29.何故なら、新ミサは、微妙に異端を助長しているような曖昧さを含んでおり、それは、明確に異端的である場合よりももっと危険性を帯びているからである。というのも、半分の異端は半分真理に似通っているからである!

 30.何故なら、キリストは唯一の浄配、即ちカトリック教会のみを持っており、彼女(カトリック教会)の礼拝式は、自らと敵対関係にある宗教にも仕えることなどできないからである。

 31.なぜなら、新ミサは、クランマーの異端的アングリカン・ミサ(=英国聖公会のミサ)の形態に従っており、かつそれを助成する方式は、まさに英国の異端者の方式に従っているからである。

 32.何故なら、聖にして母なる教会は、新ミサの如きミサにあずかることを拒否したために殺された、数多くの英国人殉教者を列聖したからである!

 33.何故なら、一旦カトリックに改宗したプロテスタントの人々は、新ミサが、彼らがプロテスタントとしてあずかったものと同じであるのを見て憤慨しているからである。そのような人々の一人、ジュリアン・グリーンは自問している、「何のために我々は改宗したのか?」

 34.何故なら、統計は、新ミサ使用以後のカトリックへの改宗の大減少を示しているからである。合衆国において年に10万人にも上る改宗があったのに、それが1万人以下に減ってしまったのである!

 35.何故なら、伝統的ミサは数多くの聖徒を生み出したからである。「・・・それによって、無数の聖徒が、天主に対する魂の敬虔を豊かに養ってきたのであります。(教皇パウロ6世、使徒座憲章“ミサ—レ・ロマーヌム”)」

 36.何故なら、新ミサは本性上、聖体の秘蹟に対する汚聖を拡大しやすいものになっているからである。そのような汚聖は、伝統的ミサでは見聞されたことがない頻度で、度々起ってしまっているのである。

 37.何故なら、新ミサは、外観にかかわらず、カトリック信仰ではない、新しい信仰を伝達するからである。それは近代主義を伝達し、誤謬を婉曲に言って唱道するために紛らわしい用語を用いることで、まさに近代主義の戦術に従っているのである。

 38.何故なら、自由選択の多様さを導入することで、新ミサは、各々の司祭が創造性という口実のもとに自分の好みのままに逸脱行為を犯しがちであることによって、典礼の統一性を侵害するものであり、結果として尊敬の欠如と無礼を伴った無秩序が不可避的に生じるからである。

 39.何故なら、多くの良きカトリック神学者、教会法学者、司祭たちが、新しいミサを容認せず、しかも良心的に新ミサを執行することができないと断言するからである。

 40.何故なら、新ミサは、以下のような事柄を削除したからである:跪き(三回分のみ残る)、カリス(杯)中での司祭の指の洗浄、聖変化後の司祭の指のあらゆる涜聖的接触からの保護、聖なる祭壇石と聖遺物、三枚の祭壇布(一枚に削減)。これらすべては、「どれほど無法にも、キリストの聖体におけるまことの現存という教義に対する信仰が、暗黙裡に否認されているかを、ひとえに強調しているばかりである。」からである。*

 41.何故なら、聖伝(Traditio Sacra)の幾世紀もの長い歴史によって、豊かにされ、円熟していった伝統的ミサは、聖人であった教皇ピオ五世によって法典化された(発明されたのではない!)のであった;他方新ミサは人工的に捏造されたからである。

 42.何故なら、自国語訳に引き立たされている誤謬は、新ミサのラテン語テキストにも存在しているからである。

 43.何故なら、新ミサは、その曖昧さと寛容さで、ミサの無効な執行の危険を助長していることによって、我々を天主のお怒りにさらしてしまうからである。「伝統的養成を受けておらず、しかも、“教会が行うことを行う”意向をもってNovus Ordo(新通常文)に頼る、近い将来の司祭達は、有効な聖変化を行うだろうか?それについては疑ってよい。」*

 44.何故なら、伝統的ミサの廃止は、ダニエルの書8章12節の預言を喚起するからである:「彼に毎日のいけにえを荒らす力が与えられたのは、(人々の)罪の為である。」又、ミサは、ここ地上における教会に存する最高で最も美しいものであるが故に、悪魔は異端者を使ってそれを私達から奪い去ろうと常に試みてきた、という聖アルフォンソ・リゴリの所見をも喚起するからである。

 45.何故なら、伝統的ミサが守られている所では、人々の信仰と熱心はもっと大きいからであり、一方新ミサの支配している所ではその反対であるのが事実だからである(ミサについての報告書、カンポス教区、ローマ教区、ブエノス・アイレス教区#69, 8/81)。

 46.何故なら、新ミサと相まって、新しい公教要理、新しい道徳、新しい祈り、新しい考え方、新しい暦、一言で言うなら、新しい教会、古いものからの完全な革命が進行するからである。「典礼改革派・・・・欺かれちゃいかん、これは革命の始まりだ。(バーミンガムの大司教 Msgr.ドワイアー、司教会議の代弁者)

 47.何故なら、伝統的ミサの本来的な美しさは、それ自体霊魂たちを引き付けるものである;一方、新しいミサは自ら引き付ける力を持たぬ故、人々の気に入ろうとして新奇さや余興を発明しなくてはならないものだからである。

 48.何故なら、新ミサは、トリエント公会議において、教義的に排斥された幾多もの誤謬を体現しており(全体が自国語であるミサ、大きい声で発音される聖変化の言葉、等。“ヤンセニウス派のビストイア会議の排斥”参照)、又教皇ピオ十二世によって排斥された誤謬を体現している(例:テーブルの形の祭壇。“メディアトル・デイ”参照)からである。

 49.何故なら、新ミサは、カトリック教会を、全てのイデオロギーと全ての宗教を抱き込むところの、新しい、エキュメニカル教会に変貌せしめんと試みるものだからである。その目標は、カトリック教会の敵共が長いこと夢見たものなのである。

 50.何故なら、新ミサは、司祭が一人でミサを執行する場合に、挨拶と最後の祝福を取り除いていることによって、諸聖人の通功の教義に対する不信仰を示しているからである。

 51.何故なら、祭壇と聖櫃は今や分離されてしまっており、こうして“キリストの司祭と祭壇上の犠牲”におけるキリストが、聖櫃の中での真の現存におけるキリストから区別されてしまっているからである。それは、「両者の本質そのものからして、一緒のまま保たれなくてはならない二つのものなのである。(ピオ十二世)」

 52.何故なら、新ミサはもはや人から天主に向う垂直的な礼拝を制定しておらず、それに代わって人と人との間での水平的な礼拝を制定しているからである。

 53.何故なら、新ミサは、第二ヴァチカン公会議の取り決めに適合しているかのように見受けられるが、実際には公会議の教えに反しているからである。というのも、公会議は伝統的ミサを維持し、奨励しようとの望みを表明したからである。

 54.何故なら、教皇聖ピオ五世の伝統的ラテン語ミサは決して合法的に廃止されたことがなく、従ってカトリック教会のまことの典礼であり続けており、カトリック信者はそれによって主日の義務を果たしてよい、からである。

 55.何故なら、教皇聖ピオ五世は、伝統的ミサを自由に、合法的に、良心の呵責や罰・判決・譴責の恐れなしに、執行できるための、“永久に”有効である永続的特許を授与したからである(教皇大勅書“クオ・プリムム”)。

 56.何故なら、教皇パウロ六世は、新ミサを公布するに際して、「その典礼は・・・・それ自体として教理的決定ではない・・・。(11/19/69)」と自ら言明したからである。

 57.何故なら、教皇パウロ六世は、英国のヒーナン枢機卿にトリエント・ミサを廃止ないしは禁止しているのかどうかを尋ねられた時に、「トリエント・ミサを全く禁止することが私の意向なのではない。」と答えたからである。

 58.何故なら、「新ミサのLibera Nosにおいて、至福なる童貞聖マリア、使徒ら、及び諸聖人は、もはや言及されていない;こうして彼女と彼等の取次ぎが、危機に瀕している時期にさえも、もはや願われていない。」からである。*

 59.何故なら、(新ミサの)三つの新奉献文のいずれにも、死せる人々の苦しみの状態について・・・言及されておらず、いずれにも、特定のMemento【特定の生者ないし死者の記憶】の可能性が存在しておらず、こうして、ミサの犠牲の贖罪的本性に対する信仰を密かに傷つけているからである。*

 60.何故なら、我々は、聖にして母なる教会の全世界的統治における、聖父なる教皇様の至上の権威を認めているが、同時に我々は、この権威さえも、かくも明白に信仰に反する礼拝式:曖昧さを持ち、異端を助長するミサ、又それ故に天主に嘉され得ないミサ、を我々に押しつけることはできないことも知っているからである。

 61.何故なら、第一ヴァチカン公会議に言明されているように、「聖霊がペトロの後継者たちに約束されたのは、聖霊の啓示によって、新しい教義を教えるためでなく、聖霊の援助によって、使徒たちが伝えた啓示、すなわち信仰の遺産を確実に保存し、忠実に説明するためである。(D. S. 3070)」からである。

 62.何故なら、異端ないし明らかに異端を助長するいかなる事柄も、従順に関わる問題とはなり得ないからである。従順が信仰の為に用立てられるのであって、信仰が従順の為に用立てられるのではないのである!この上述の件においては、従って、「我々は人間よりも天主に従わなければならない。(使徒行録5章29節)」からである。

* 注:“Novus Ordo Missae(新ミサ通常文)の批判的小調査書”を同封した、A. オッタビアーニ枢機卿とA. バッチ枢機卿の1969年9月25日付教皇パウロ六世宛の書簡

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