聖ピオ十世会 Society of Saint Pius X

キリストは勝利し給う、キリストは統治し給う、キリストは命じ給う

ルター曰く「ミサをぶち壊そう。そうしたら私たちはカトリック教会をも壊すことになるだろう」

2017-06-16 01:29:21 | 公開書簡
 ありとあらゆる機会を使って、人は『主日の新しいミサ典書』が呼び慣わすところの、いわゆる「制定の叙述」というものを強調しています。ジャン・バール・センターというパリ司教区の中央機関は「ミサの中心は叙述にある」と宣言しました。私たちはもう一度、違います!と言わねばなりません。ミサは物語の叙述ではなく、実現する行為なのです。

 ミサが十字架のいけにえの続きであるためには、三つの条件が必ず無ければなりません。それは、

-犠牲の奉献、

-いけにえを象徴的ではなく実際的に祭壇上に現存せしめる全実体変化、そして、

-私たちの主こそが第一の司祭ですが、その主の代わりとなる司祭、言い替えれば、私たちの主の司祭職によって聖別されていなければならない司祭、の三つです。

 そうしてこそ、ミサは罪の赦しを与えることが出来るのです。単なる記念、食事を伴った制定の記念、というのは、罪の赦しのためには遥かほど遠いところにあります。ミサの持つすべての超自然の力は、十字架のいけにえとミサとの関係から来るのです。もしそのことを信じていないなら、聖なる公教会の教えることを一つも信じていないことになるのです。そうなったら、公教会は存在する理由が無くなってしまいます。そのような人は、もう自分がカトリックなどと主張すべきではありません。

 ルターはミサこそが教会の中心、教会の霊魂であると良く理解していました。だから彼はこう言っていました。「ミサをぶち壊そう。そうしたら私たちはカトリック教会をも壊すことになるだろう」と。

 ミサの新しい司式Novus Ordo Missaeを見ると、それがプロテスタントの観念にそっくりであるのに、少なくとも危険なほどそれに近づいているのに、気が付きます。ルターにとってミサは賛美のいけにえでありえました。つまり、ミサとは賛美することであり、感謝することではあるのですが、十字架のいけにえを更新し私たちに適応させる罪の償いのいけにえでは決してないと、ルターは考えていたのです。ルターにとっては、十字架のいけにえは歴史のある限定された時において起こり、この歴史の中に閉じ込められ、私たちがキリストの功徳を自分たちに適応することが出来るのは、私たちがキリストの死と復活を信じることによるだけでした。

 しかし、公教会はその反対に、このいけにえは、ミサのたびごとに、私たちの祭壇上で神秘的に血を流さないやり方で、パンとぶどう酒の形相の下で御体と御血との分離によって実現すると常に言明しています。この神秘的な更新のおかげでミサに参列している信徒たちに十字架の功徳を適応させることが出来るし、時と空間においてこの聖寵の源を絶えず続けることが出来るのです。聖マテオによる聖福音はこの言葉によって終わっています。「私は今からお前たちと共に常に世の終わりまでいるだろう」と。
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