聖ピオ十世会 Society of Saint Pius X

キリストは勝利し給う、キリストは統治し給う、キリストは命じ給う

ルターは犠牲を認めず、ミサから奉献の部も廃止した

2017-06-17 23:05:11 | 公開書簡
 ルターは奉献の部を廃止しました。もしも犠牲がもはや存在しないのなら、どうして染みも汚れもないホスチアを奉献する必要があるだろうか、というのが彼の論理でした。フランス語の新しいミサの式次第には、奉献の部は実際上存在していないのと同じことです。奉献の部はもはや「奉献の部」という名前さえついていません。『主日の新しいミサ典書』には奉献の部の変わりに「提示の祈りPrieres de presentation」となっています。そこの祈りの言葉は、むしろ感謝の祈り、大地の恵みを感謝する祈りで、それ以外ではないのです。その変化をよく知りたいと思ったら、新しい祈りの文句を、教会が使っていた昔の聖伝の祈りの言葉と比べてみるだけで良いでしょう。昔の祈りには「私の数かぞえ切れない罪、過失、怠りのため、全ての参列者のため、生ける、かつ、死せる全てのキリスト信者のため、この捧げものが、永遠の生命のために、私の救いと彼らの救いのためになるように、私は御身に捧げます」とあり、また、カリスを奉挙しつつ、司祭は「主よ、私たちは御身の贖いのカリスを御身に捧げ、御身の優しい心づかいによって、これを快い香りとして御身の威光の前に、私たちの救いとこの世全ての救いのために、立ち上らせて下さるように懇願します」と言うのです。こうして、犠牲の贖罪的な目的、罪を償うための目的を明らかに言及しています。

 新しいミサでは何か残っているものがあるのでしょうか。新しいミサではこう言います。「主よ、あなたは万物の創り主、ここに供えるパンはあなたからいただいたもの。大地の恵み、労働の実り、わたしたちの命の糧となるものです。」ぶどう酒についても全く同じです。ですから、この後で「私の罪科を洗い、主を私を清めて下さい」とか「私たちの犠牲が今日御身の前で快いものとなりますように」と付け加えたとしても、いったい何の役にたつでしょうか。一体何の罪のことでしょうか。何の犠牲のことでしょうか。信者は、この捧げものの曖昧な奉献と、贖いとの間に一体どんな関係を見いだすというのでしょうか。さらに、私はもう一つ別の質問をしたいと思います。一体何故、明確な祈りの文を、その意味が完全であるその祈りの文を、謎めいた言い回しの、前後の文脈がよく合っていないものに取り替えてしまったのでしょうか。もし取り替える必要があると思われたなら、それはそれをもっとよくするために変えなければならなかったはずです。
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