聖ピオ十世会 Society of Saint Pius X

キリストは勝利し給う、キリストは統治し給う、キリストは命じ給う

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多くの教会とカテドラルは酒盛りと麻薬、ありとあらゆる汚れに身を委ねられ汚されたのです

2017-06-15 06:00:09 | 公開書簡
 世俗音楽のコンサートが教会の中で開かれるというのは今では普通のことになってしまいました。ロック・ミュージックの為に礼拝の場所を貸したりもします。もちろんいつものようにロック・ミュージックには様々なひどい醜態が付き物ですがそれも含めてです。多くの教会とカテドラルは酒盛りと麻薬、ありとあらゆる汚れに身を委ねられ汚されたのです。そしてこの償いの儀式をしたのはそこの教区の聖職者たちではなく、このような醜聞に抗議の声をあげた信者のグループだったのです。司教や司祭たちはこのようなスキャンダルに好意を寄せて、一体どうして自分たちと自分たちの民に天主様たらの呪いを受けると言うことを怖れないのでしょうか。天主様の呪いは、彼らの業の実りの無さでも既に見ることが出来ます。全ては失われ、全てはバラバラになっていきます。何故ならミサの聖なるいけにえが、こうやって汚聖され、聖寵をもはや与えなくなっている、聖寵が通ることが出来なくなっているからです。御聖体におけるキリストの現存に対する軽視は、新しい精神、もはやカトリックではない新しい精神を明らかに表す事実を、最も明らかににおわせています。いま私の言ったようなけばけばしいやりすぎにまで行かなくとも、これらは日曜茶飯事になりました。トレント公会議は全く異ななる疑問の余地も残さずに、私たちの主は聖変化したホスチアの最も小さなかけらにでさえも現存しているとはっきり宣言しました。では、手による聖体拝領は何なのでしょうか。もし聖体拝領の時に聖体拝領盆を使うと、たとえ聖体拝領する人の数が少なくてもいつもかけらが落ちてその拝領盆の上に残っています。従って、このようなかけらは信者の手に今では残っているのです。御聖体における主の現存に関する信仰は、多くの信者において揺さぶられ、特に子どもではそうです。

 この新しいやり方にはたった一つの説明しかありません。もしミサというものが友情のパンを割き、共同体の食事、共通の信仰のパンを割くことであれば、それなら御聖体に対して厳重な注意を払わなくても良いことになります。もし御聖体が象徴であって、過去の出来事の単なる思い出、私たちの主の霊的現存を具体化するものであれば、床に落ちるかも知れないパンくずに気をかけなくてもそれは全く論理に適っています。しかし、教会の信仰がそう要請するように、これは天主様の現存、私たちの創造主の現存にかかわることなのです。つい最近のローマから来た文書にもかかわらず、このような新しいやり方を認めそれを勧めるとはどう理解したらよいのでしょうか。こうやって私たちに飲み込ませようとしている考えは、まだそれに汚染されていないカトリック信者たちがそれに反して抗議の声をあげるプロテスタントの考え方なのです。この考え方を信者たちに押しつけるために、彼らに立ったままで聖体拝領をさせているのです。

 最低限の尊敬と従属の印しもなくキリストを拝領しに行くのはふさわしいことでしょうか。聖パウロはキリストの前に天のものも地上のものも地の下にあるものも膝を屈めると言っています。多くの司祭はもはや御聖体の前で跪きをしません。ミサの新しい典礼様式が跪きをしないように勧めているのです。そこに私は二つの理由しかないと思います。私たちが天主と同等であるかのように天主を取り扱わせるもの凄い傲慢があるか、あるいは御聖体に天主様が現存していないと言う確信があるかのどちらかです。

 私はいわゆる「公会議後の教会」に犯意の訴訟を起こそうとするのですかって?いいえ。私は何も思いつきでものを言っているのではありません。ストラスブールの神学部長の言うことを聞いて下さい。

「演説者の現存、とか俳優の現存とかと言うとき、それで単純に地形学的な「そこにある」ということ以外の何らかの属性を示しています。結局、誰かは象徴的な行為によって、彼自身が物理的になさなくても、誰か別の人が彼の深い意向で創造的な忠実さをもってする行為によって現存しうるのです。例えば「ベイルートの祭典」は、リチャード・ワグナーの現存を実現させるでしょう。この作品はその濃さにおいてこの音楽家に捧げられたその他の作品やたまたまのコンサートが表すよりも、優っていますから。そしてこの最後の見方において、キリストの聖体における現存を捉えるのがふさわしいと思われます。」

 ミサを「ベイルートの祭典」と比べるなんて!もちろん私たちはこの言葉についても音楽についても絶対に同意することは出来ません。(この項続く)

Mgr. Marcel LEFEBVRE: Lettre ouverte aux catholiques perplexes.

Editions Albin Michel, S.A., 1985. 22 rue Huyghens, F-75014, Paris, France.

Collection <Lettre ouverte> ISBN 2-226-02325-9.
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