聖ピオ十世会 Society of Saint Pius X

キリストは勝利し給う、キリストは統治し給う、キリストは命じ給う

ファチマの秘密(1-2)

2017-01-21 02:05:41 | 聖母マリアとその出現について
 最後には、私の汚れ無き御心が勝利を収めるでしょう。教皇様は私にロシアを奉献するでしょう。そしてロシアは回心するでしょう。そして世界には平和の一時期が与えられるでしょう。

 ポルトガルでは信仰のそのドグマが常に守られるでしょう。等々[ママ]

 このことを誰にもいわないで下さい。フランシスコにはそれをいうことが出来ます。

 あなたたちがロザリオを唱えるときには、各連の終わりにこう唱えなさい。ああイエズスよ、我らを赦し給え。我らを地獄の火より救い給え。全ての霊魂、ことに最も必要とする者たちを天国に導き給え。**」

(*ルシアの四つの回想録の内の二つにはこの7月13日のことが記されている。その内容は一字一句同一である。しかし第四回想録では、今日本語に訳出したように「ポルトガルでは信仰のそのドグマが常に守られるでしょう。等々[ママ]」という文章は最後に書かれている。しかし、この文章は論理的にはここ*印のところに来るべきである。なぜなら次に「最後には、私の汚れ無き御心が勝利を収めるでしょう。」という文章があるからである。また、ここに第三に秘密に関する記事がなければならない。それは、ファチマの第三の秘密がカトリック信仰に関することだからである。ところで、「現代の危機を告げるファチマの聖母の啓示ールチア修女の手記」137頁には、ドイツのノイエス・オイローパ紙が発表したいわゆる「第三の秘密」が載せられている。しかしこれは真面目なものではない。またデルコル神父編「ファティマの第三の秘密 教会内の信仰の危機」(ご存じですか?シリーズ87 1995年再版)にもミゲル・アンヘル・ポブレテという青年の受けた「メッセージ」の話が載っている。デルコル師は教会認可を受けていない御出現でもむやみに広めておられたから、多分にこれは教会の認可を受けていないだろう。もし教会認可を受けていたとしても、その内容は、少なくともルシアが受けた第三の秘密ではない。)

(**日本語では普通こう唱える。「ああイエズスよ、我らの罪を赦し給え、我らを地獄の火より守り給え。また全ての霊魂ことに主の御憐れみを最も必要とする霊魂を天国に導き給え。」)

この後に、沈黙がよぎりました。私はそこで尋ねました。

「あなた様が私に望むことは他にありますか?」

「いいえ、私は今日はあなたにこれ以上何も望みません。」

すると、以前と同じように聖母は東の方向に向けて、天の大きな距離のために見えなくなるまで昇られました。

 マリアの汚れ無き御心こそが、この7月13日のメッセージの核心であり中心部である。既に5月13日、6月13日の二回にわたってマリアの汚れ無き御心は啓示され、準備されていた。そして、この7月13日のメッセージこそ、ファチマの全てのメッセージの中心である。この後の三回の御出現はこのメッセージが本当に天主の御母からのものであるということを示すサイン(署名)であり印鑑であり証明であった。聖母がこの時荘厳に「私はロシアを私の汚れ無き御心に奉献することと、月の初土曜日に償いの聖体拝領をすることとを求めに来るでしょう」と告げ知らされたように、天主様の憐れみの計画を告げるために聖母は更に後になって戻ってくると約束された。実にポンテベドラで1925年12月10日、聖母はご自分の茨で貫かれた汚れ無き御心をお見せになった。そして聖母はお約束の通り月の最初の土曜日に五回続けて償いのための聖体拝領をすることを要求された。また更にもう一度、またもお約束の通りトゥイで1929年6月13日にもう一度戻られロシアを聖母の汚れ無き御心に奉献することを要求された。

 聖母は「ロシア」をご自分の汚れ無き御心に奉献されることを要求されたのだった。ロシアを?そう、ロシアを。1917年ルシアは「ロシア」という言葉が何を意味するのか知らなかった。しかし彼女は幼いながら常に"a Russia"という言葉を聞いたと断言していた。光明社からの「ファチマの牧童」セ・バルタス著 中山利喜太郎訳1947年初版発行には、「世界」(89ページ)となっているが、ルシアの回想録には常に"a Russia"(ロシア)と書かれている。同様に、彼女は確かに"no reinado de Pio XI"と聖母が言われるのを聞いた。彼女にはそれが確実だった。ルシアは「次の教皇の時」と聖母が言われるのを聞いたのではなかった。ルシアは1946年にヨンゲン神父にこう言っている。「私達はそれが教皇様なのか王様なのか知りませんでしたが、いとも聖なる童貞母はピオ11世と話されたのです。」

 「ファチマの牧童」の90頁注の17に正しく記載されているように「不思議な光によって照らされた夜」というのは、1938年1月25ー26日の夜に成就した。

 聖母はまずこう言われた。「そのお方(彼女)だけがあなたたちを助けることが出来る」と。ここに秘密中の秘密がある。天主はかつて聖母を通して救い主をお与えになったように、今もいつも私達に聖母を通して全てを与えようと望まれている。天主は聖母の汚れ無き御心への信心の報いとして私達に全てを、霊的善のみならず全世界にこの世的な平和さえも与えようと望まれる。

聖母はこう言われる。「ロザリオの聖母を崇敬するために、世界に平和を得、戦争の終わりを勝ち取るためにロザリオを毎日唱え続けることを望みます。なぜなら、そのお方(彼女)だけがあなたたちを助けることが出来るからです。」つまり、私達にとって聖母を通さなくては世界に平和を得戦争を止めることが出来ない、と言われたのだ。聖母だけが私達を助けることが出来るのだ。聖母を通さなくては何も得られないのだ。この連載を通じて私は、聖母の汚れ無き御心だけが、世界の平和のためのみならず、私達の救いのため、全キリスト教世界と、カトリック教会の救いのために残された最後の手段であると出来る限り明らかにするつもりである。

 ファチマの秘密はここにある。ファチマはマリア様の汚れ無き御心のいわば「啓示」だ。マリアの汚れ無き御心だけが全ての悪に対する最高の薬であり、私達の霊魂の救い、私達の愛する祖国、世界中の国々、全キリスト教世界、そしてローマ・カトリック教会の救いのための最終の唯一の手段であるということの啓示である。これが、全知全能の聖三位一体がその無限の憐れみの計画によって、私達に聖母マリアのいとも優れて聖なる、汚れ無き御心の母としての取り次ぎによって、私達に全てを与えようと言う啓示なのだ。

 だから私達はまずロザリオを唱えなければならない。毎日ロザリオの聖母を崇敬してロザリオを愛を込めて唱えねばならない。毎日唱え続けなければならない。これが天主の御母聖マリアのお望みだ。

 このメッセージの終わりに聖母は子どもたちにこう言われた。「あなたたちがロザリオを唱えるときには、各連の終わりにこう唱えなさい。

『ああイエズスよ、我らを赦し給え。

我らを地獄の火より救い給え。

全ての霊魂、ことに最も必要とする者たちを

天国に導き給え』」と。

+「ああイエズスよ」と、聖母は御子への祈りを教え給う。イエズスとは「救い主」という意味である。ファチマのメッセージはきわめてキリスト中心的である。聖母の教えた別の祈りもこの救い主への呼びかけで始まっている。「罪人たちのために犠牲をしなさい。たくさん、特に何か犠牲をするときにこう言いなさい。”イエズスよ、これは御身を愛するため、罪人たちの回心のため、そしてマリアの汚れ無き御心に対して犯される罪を償うためです”と。」

 ロザリオの祈りとは、天主なる救い主、約束されたメシアであるイエズス・キリストが教えられた主の祈りを唱え、天にまします我らの父に祈ることであり、天主から使わされた大天使ガブリエルと、天主からの特別の啓示を受けた聖エリザベトの言葉「めでたし」の祈りで、天にまします我らの母に祈り、聖三位一体なる唯一の天主に栄光を祈る。そして聖母はその後に救い主イエズスに対する祈りを付け加えることを望まれた。

+「我らを赦し給え。」ファチマのメッセージの全体に染み通っているのがこの「罪」という現実である。私達は罪人であり、罪が私達の奥深く根を張っている。罪は私達の永遠の生命を脅かし、私達を地獄に追いやる唯一のものである。聖母の御出現の中でも天使の出現でも「罪」に言及しなかったものは一つもない。ロザリオで、私達は主祷文をこう唱える。「我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給え!」天使祝詞ではこう唱える。「罪人なる我らのために・・・祈り給え!」私達はこのいわば「連祷」の後に「ああイエズスよ、我らの罪を赦し給え!」と願うのである。ああ救い主よ、我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給え、天主の御母にして我らの御母よ、罪人なる我らのために、我らの罪が赦されるように祈り給え!と。

+「我らを地獄の火より救い給え。」"Livrai nos do fogo do inferno!"聖母はこの最も緊急な祈りをすることを望まれた。聖母は地獄という現実を私達がいつも思い出すことを望まれた。聖母は地獄には本当に永遠の火がありそれを避けなければならないことを私達に教えようとされたのだ。恐ろしい、しかしそれが現実なのだ。聖母は地獄の火から「救われる」ことを祈れと言われた。「我らを悪より救い給え」と主祷分でも同じことを祈る。ラテン語ではSed libera nos a maloと言うが、「libera nos 我らを救い給え」と言う動詞と、ポルトガル語の「livrai nos 我らを救い給え」とは同じ語源の動詞である。私達にとって最大の悪とはこの地獄の火に落ちることである。たとえ全世界をもうけても、霊魂を失っては何の利益になるだろうか?

 カトリック信者はだからいつもこの最大の悪から避けられるように天主の憐れみを乞うてきた。典礼でも、カトリック祈祷書でもそうだった。

 イエズスの御名の連祷では「A morte perpetua, libera nos, Jesu! 永遠の死より、イエズス、我らを守り給え!」

 諸聖人の連祷でも「A morte perpetua, liber nos Domine! 永遠の死より、主よ我らを救い給え!」また「Ut animas nostras ...ab aeterna damnatione eripias, te rogamus audi nos! 我らの霊魂を永遠の滅びより救い出し給え、我らの祈りを聞き入れ給え!」と言う。

 更に、ミサのローマ・カノンの中では「ab aeterna damnatione nos eripi!永遠の滅びより我らを救い出し給え!」と祈っている。これこそ最も緊急の祈りだ。これに私達の全生涯がかかっている。永遠のたすかりを全うするか否かにこそ、全人生の意義がかかっている。私達が地獄の火から救われるためにこそ天主は人となり、御苦難を受け十字架で死を甘んじ受けられたのだ。天主の本性上の御子イエズスのこの世に来られた目的はそこにあった。イエズスの苦しみ、受難、十字架、流された御血潮と汗、それら全ては私達が地獄の火から救われるためだった。イエズスなしでは、イエズスのご受難とそのいとも貴き御血なしには私達は永遠に地獄の火に焼かれるべきものであった。私達はイエズスに私達の救いの恩義がある。だからこそ、聖母は私達にこう祈りなさいと教える。「ああイエズスよ、我らを地獄の火より救い給え!」と。そして、これは同時に大きな希望に満ちた祈りだ。「私を通らずに御父のもとに誰も行けない」と主は仰せられたが、私達の全希望はイエズスの御名にある。私達は主の十字架に全てを期待する。Ave Crux, spes unica! 私達は救い主イエズスによって罪の赦しを与えられることを確信している。聖ペトロはこう言った。「天上天下イエズスの御名以外に人の救われる名はない」と。だから、地獄の火から救われ、天国へ行けることを主の憐れみによって期待しているのだ。

+「全ての霊魂・・・を天国に導き給え。」私達の熱烈な望み、私達の最大の善、それは私達が、私達の愛する者たちが皆救われることだ。天の御父も皆が救われることを望まれる。キリストも皆が救われるためにご自分の生命を捨てて十字架で死なれた。だから、私達も「全ての霊魂」が救われるようにと祈るように聖母は望まれた。そうだas almas todas全ての霊魂だ。或いはシスター・ルシアがよく唱えるように、as alminhas todas全ての哀れな霊魂だ。Alminhasという単語は「霊魂たちalmas」の指小語であり、愛情と憐れみの感情を含む言葉だ。煉獄の霊魂のことだけとは限らない、いやむしろ、バルタス師がいみじくも指摘するように(91ページ注20)この祈りは罪人のため、かわいそうな罪人の霊魂のため、天主様を侮辱し続けるがために地獄の火に落ちていこうとする罪人に関することである。

 ルシアはこう書いている。「ある人は、子どもたちを恐れさせたくないために地獄については話しません。ところが天主は私達三人に、一人は六才だったのに、恐ろしい地獄を見ることを許されました。ヤシンタはたびたび考え込んで地面とか岩の上に座りこう叫びました。『ああ、地獄!地獄!地獄に行く霊魂が本当にかわいそう!下のあそこでは人々は生きたまま火の中の薪のように燃えているの!」そして震えながら跪いて合掌し聖母が私達に教えて下さった祈りを唱えました。『ああイエズスよ、私達を赦し給え。私達を地獄の火から救い給え。全ての霊魂、特に最も必要とする霊魂たちを、天国へ導き給え!』司教様、司教様は私が受けた印象によればこの祈りの最後の言葉は永遠の滅びの非常に大きな危険にある霊魂、或いはそれに非常に近い霊魂たちのことを指しているのだと言うことをもう理解されることでしょう」と。(第三手記による。「現代の危機を告げるファチマの聖母の啓示ールチア修女の手記」p140参照)

 Livrai para o Ceu! 天国に導き給え!私達は、心からこう祈る。「彼らを天国へと連れて行き給え、天国へと持ち上げ給え、天国へと引き寄せ、引き上げ給え!イエズスよ、御身は「私が上に上げられたとき全てを私のもとに引き寄せようOmnia traham ad meipsum.」と仰せられました。御身を仰ぎ見る者たちを、全ての霊魂たちを、御身のもとへ引き寄せ給え、御身の天国へと引き寄せ給え。御身を知り愛する恵み、聖徳を実践する恵みで御身のもとに導き給え!私達の祈りは受け入れられる価値のないものです。私達は何の権利もありません。しかしただ御身の無限の憐れみによって、御身の愛と同情によって、全ての霊魂を救い給え。もちろん、私達は全ての霊魂が、罪を犯すのを止め、御身の聖心を悲しませるのを止め、天主に立ち戻りそして救われることを望みます。出来れば、彼らが全て回心し、御身を信じ、愛し、救われることを望みます。・・・でも、私達の要求が全て聞き入られるほど私達には功徳がありません。私達はだから、要求をもっと明確にします。どうぞ、全ての霊魂が無理でしたなら、出来るだけ多くの霊魂のために、特に優先的に今地獄に落ちるか否かの瀬戸際にある霊魂たちのため、今一番地獄に落ちる危険のある霊魂たちのため、祈ります。」これが聖人達の論理、愛の論理だった。だから、「ことに最も必要とする者たちを、天国に導き給え。」と祈りなさいと聖母は教えるのだ。

+「ことに最も必要とする者たちを、天国に導き給え。」「めでたし」の祈りの中で聖なる私達の母公教会は、「天主の御母聖マリア、罪人なる我らのために、今も臨終の時も祈り給え!」という祈りを付け加えた。「天主の御母聖マリア、罪人なる我らのために、今も臨終の時も祈り給え!アーメン」天主の御母よ、今もいつも我ら罪人たちのために祈り給え。そして特に地獄に落ちるか否かの瀬戸際にある臨終の時に、最も必要とするその時に、我らのために祈り給え!と言うのだ。

 今地獄に落ちる間際にいる霊魂たちは聖母に祈らない。聖母を侮辱する。だから、聖母は彼らに代わって私達に祈れと頼まれたのだ。おお、良き牧者なるイエズスよ、御身は失われた罪人を捜し回り、それが救われることを、うみも病みもされない。イエズスの聖心よ!

 幼いイエズスのテレジアは、その当時マスコミを騒がせて居た大悪党、三人を殺して悔悛の心を何一つ見せなかった殺人犯Pranziniのために祈った。彼女は霊魂の救いに飢え、大きな罪人たちの霊魂が地獄の火に落ちないようとりとめようと言う燃える愛の望みを持っていた。そして、彼女の祈りと犠牲でイエズスといとも貴き御血から救いの「天からの露」を勝ち得たのだった。それと同じく、私達もファチマの聖母に教えられ、罪人たちのために、最も必要とする霊魂たちのために祈るのだ。

 ルシアはまたこう書いている。「ヤシンタはこのように跪いたままで、長い間同じ祈りを何度も何度も繰り返して唱えました。ときどき誰かが眠りから目を覚ましたように、お兄さんか私を呼んでこう言うのです。『フランシスコ、フランシスコ、私と一緒に祈ってる?私達は地獄から霊魂たちを救うためにほんとにたくさん祈らなきゃダメ!あんなに多くの霊魂がそこに行くのだから!あんなに多くの!』

(この項続く)文責トマス小野田神父

「マニラのそよ風」より


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