ジャーナリスト活動記録・佐々木奎一

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プーチンと親しい森喜朗が語る北方領土交渉秘話

2012年07月05日 | Weblog

 

2012年6月18日、auのニュースサイト EZニュースフラッシュ増刊号
 
「朝刊ピックアップ」で記事 
 
「プーチンと親しい森喜朗が語る北方領土交渉秘話」
 
を企画、取材、執筆しました。
 
 
 
 

 17日の朝日新聞朝刊に「北方領土 まず『始め』 18日、首相・プーチン大統領初顔合わせ」という記事がある。これによると、野田佳彦首相は18日(日本時間19日未明)、こう着状態が続く北方領土交渉を再開するため、メキシコでロシアのプーチン大統領と初の首脳会談に臨むという。

 交渉の行方について、同記事では、主に「外務省幹部」という匿名の人物への取材をまとめた構成で、「日本政府は解決への道筋を描いているわけではなく、交渉の道のりは険しい」と結論づけている。

 だが、本当にそうだろうか? 同記事のイラストには、北方領土交渉のキーマンとして、鈴木宗男氏や森喜朗元首相、前原誠司政調会長などの似顔絵が描かれている。その森氏が、今月15日付放送の「くにまるジャパン」(文化放送)で日ロ交渉の“秘話”を語っている。

 もともと森氏の父親の茂喜氏は、石川県根上町(現能美市)の町長を九期務めた人物で、日ソ協会石川県連合会会長として旧ソ連と民間外交を続けてきた。その茂喜氏が亡くなった時、ソ連はイルクーツク付近に墓を建てて分骨した。そのことについて森氏はこう述べている。「オヤジが死んだときに、ロシア側が『墓をつくったから、骨をくれ』と言ってきた。それがロシアのイルクーツク。だから、プーチン氏はイルクーツクで会談をやるぞ、と言ってきた」

 また、森氏は、サンクトベテルブルクで初めてプーチン氏と会ったときのエピソードも語っている。そのときプーチン氏は森氏に耳打ちして「あなたのお父さんはシベリアで抑留されていたのか?」と聞いてきたという。森氏は「いや全く違う。シベリアの近くまで来ていて、あのままいたらおそらく抑留されたと思うが、転戦して助かった」と言った。するとプーチン氏は、ほっとした顔をしていたという。

 また、シベリア抑留の日本人の眠る国立墓地に行ったときに、森氏は、マフラー、手袋、 オーバーを脱いだ。すると、プーチン氏はじっとみて「ヨシ、なんで寒いのに脱ぐんだ?」と聞いた。森氏は「あなたのせいじゃないが、あなたの国がかつて、日本の人々を極寒の地シベリアに連れて行った。その人たちは死んでいったのに、なんで、私が暖かい恰好をして、お参りできるんだ。そんなことはあり得ないことだ」と言った。すると、プーチン氏は慌てて、自分もコートや手袋を脱いだという。

 このようなやり取りを重ねたプーチン氏と森氏は、2001年3月25日、イルクーツクで日ロ首脳会談を行った。この時、森氏は「歯舞群島、色丹島の二島については、どうやって返還するのか協議をしましょう。国後、択捉島については、日ロいずれに帰属するかについて協議しましょう」という並行協議を提案。プーチン大統領は「その提案は持ち帰らせていただきたい」と述べた。

  元外務省の佐藤優氏によると、この頃が北方領土が日本に返還される最大の好機で、「そのまま交渉を続けていれば、もう歯舞、色丹には日の丸が揚がり、国後、択捉は、今ごろは交渉が終わり、日本のものになっていた可能性がかなりあった」と語っている。

 そして今、民主党の前原氏や玄葉光一郎外相などの野田政権は森路線を継承しており、またとないチャンスが再び来ている、という。今後の動向を注目したい。(佐々木奎一)


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