院長室の窓

院長からのメッセージ

院長談話 2016年10月

2016年10月15日 | メッセージ
 
  内視鏡手術の光と影

   ~胸腔鏡手術と分離肺換気麻酔~



 腹腔鏡手術には、「気腹法」と「腹壁吊り上げ法」の2種類があることはすでにお話しました。
「気腹法」では、腹部を高圧にすることによって手術空間が作成されるため、腹部高圧に起因する死亡例を含む重大な合併症の発生を防ぐことができないのに対し、平圧下で手術を遂行する「腹壁吊り上げ法」では、高圧に起因する合併症は原理的に発生しないのです。(2015年春号 佐野市民病院だより;院長室の窓)

 腹腔の後方の腸管表面を覆う臓側腹膜と、前腹壁下面を覆う壁側腹膜の間には、通常、潤滑油に相当する体液(リンパ液)が少量存在するだけで、ほとんど隙間はありません。
 臓側腹膜と壁側腹膜との間に充分な隙間を作らないことには腹腔鏡手術を遂行することはできません。
 その狭い隙間を穿刺し、高圧の気体(炭酸ガス)を注入する方式として、気腹法下腹腔鏡手術が、1980年代の終わり頃、欧米で始まりました。
 我が国では、平圧下で、より安全に手術ができる「腹壁吊り上げ法」が創案されていますが、未だに、日本の多くの施設では、危険な「気腹法」が主流であり、引きも切らず、腹腔鏡手術の犠牲者が出続けているのは憂うべき現象です。

 ヒトの身体には、腹部と胸部に二つの大きな閉鎖空間が存在しています。
 腹膜に包まれた閉鎖空間を腹腔、胸膜に包まれた閉鎖空間を胸腔と呼びます。
肺、心臓、縦隔などの胸腔臓器の表層を覆う臓側胸膜と、胸隔下面を覆う壁側胸膜との間にも、潤滑油に相当する体液(リンパ液)が少量存在しています。
 腹部と同じように胸腔に気体(炭酸ガス)を注入するとどうなるのでしょう。

 ヒトは、横隔膜と肋骨筋の収縮により胸腔を陰圧にして、大気を胸腔に流入させ、血液を酸素化して生命が維持されています。
 本来、陰圧に保たれている、臓側胸膜と壁側胸膜との間隙に高圧のガスが注入されると、最初に、患側(病変のある側)の肺が気圧で縮みます。(緊張性気胸) 
 次いで、縦隔が健側肺(病変のない反対側の肺)方向に圧排されます。(縦隔動揺) 
 最後には、健側肺までもが押されて縮み、呼吸が出来なくなってしまうのです。 
 そこで、縮ませてはいけない側、つまり、健側の肺換気を確実に確保しつつ、患側肺を選択的に虚脱させる「分離肺換気法」が、胸腔鏡手術の普及とともに進歩してきました。

 分離肺換気は胸腔鏡補助下で患側肺を縮小させ手術野を確保するために行われることが第一義の目的ですが、同時に術中の換気を担当している健常側の気管支に、術野側の気管支から分泌物や出血した血液が流入することを防ぐことも従たる目的です。
 そのためには、確実に術野側の気管支をブロックすること、及び術野側・健常側の気管支内腔を個別に吸引できることが必要であり、適切な位置にバルーンを固定でき、かつ、術野側気管支の内腔を吸引できる専用の分離肺換気器具(ブロッカー気管チューブ)が、2歳以上の小児、成人対象に保険診療が認められています。

 私が埼玉県医療安全委員会の委員長を務めていた頃、下肢の血栓除去に用いるフォガティカテーテルを、小児用気管チューブ(直径4mm)の狭い内腔に挿入、術中バルーンが気管に逸脱し換気不全(窒息)を来たし、重篤な脳障害を受けてしまった乳児分離肺換気麻酔の症例(臨床試験に相当)で裁判となってしまったケースがありました。
 特にその際、麻酔を従圧式(肺胞にかかる圧力で制御する方式)で換気管理していると、バルーンが気管に落ち、送気がショートカットされ、酸素が肺胞まで届いていないにもかかわらず、呼吸器の数値だけを見ていたのでは換気不全が発生しているのがわからない場合があり、麻酔医からも恐れられているのです。

 換気不全を防止するためには、健側肺の呼吸音を常時聴診することに加え、やや専門的になりますが、手術中、EtCO2(呼気終末炭酸ガス濃度)や、動脈血酸素濃度をチェックしつつ、適宜、分離肺換気を両肺換気に戻し、安全な全身麻酔の管理が必須です。
 胸腔鏡手術と分離肺換気とは一体なので、内視鏡外科医と麻酔医は、共同で患者の安全に取り組む必要があるのです。
 胸腔鏡手術は、通常、健側肺を下とし、患側肺を上とした側臥位で行ないます。手術が遂行される上側の胸腔は、いわば回転楕円体となっており、大血管を損傷してしまった場合、大出血につながり、底部に溜まった血液が鏡面を形成(ニボーブリディング)、その鏡面が急速に上昇してきます。
 胸隔を大きく切開している場合(大開胸手術)には、すかさず、出血点を手で抑え込むのですが、それでも、うまく抑え込むのは容易ではありません。
 まして、開胸しない胸腔鏡手術では、とっさに手を胸腔に挿入することはできないことに加え、貯留した血液の吸引中、さらに出血が増悪してしまいます。
 胸腔鏡手術のプロの内視鏡外科医ですら、10リットルをも超える大出血で、辛くも、心停止から免れることができたなどという話が少なくないのです。

 本年の6月、第29回日本小切開・鏡視外科学会が開催され、東海大学呼吸器外科教授岩崎正之先生の会長講演で、完全鏡視下手術を目指さず、胸腔鏡手術においても、適切な小切開を設けた胸腔鏡手術の方が、患者の安全のため望ましいと注意が喚起されました。
 手術を受ける前に聞く、担当内視鏡外科医の合併症や死亡率が、いくら低い値であったとしても、事象が発生してしまった患者家族にとっては、とうてい、確率事象の問題として済まされなくなってしまうことを自覚すべき時代となっているのです。



   
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