六本松通信(旧能美・呉羽・博多南通信)

ブログ主が2014年11月から居住を始めた福岡市城南区と中央区の生活や都市環境をお伝えします。

宗家が続いた理由

2016年12月28日 | 歴史

 さて宗家の統治が800年の長きにわたって持続可能であった理由ですが、実際に対馬を歩き回って考えたことをご紹介いたします。歴史学の専門分野では当然こうした先行研究はあると思います。本来はそうした成果に則った考察が必要ですが、それはまた後日レビューしてご紹介させて頂くということでお許し下さい。ですから以下は私の個人的な雑感です。もう、とっくに周知の事実かもしれません。

 宗家の統治が800年続いた理由としては、まず対馬内部の社会に理由を探す必要があるでしょう。既に12月16日の本ブログ記事でご紹介しましたように、対馬住民は万松院の構内にある「諌鼓」(かんこ)をあまり打ち鳴らすことはなかったらしい・・・つまり宗家の統治に不満を持ち領主への警鐘を鳴らすことはなかったと。これが本当だとすると、宗家の統治は住民に対してあまり過酷ではなかったのかもしれません。

 なぜでしょうか?

 一つ考えられる理由は、対馬が山がちで米など農作物の収穫が少なく、代わりに朝鮮との交易収入によって藩財政を維持していたということです。ということは領民から米等農産品を余り収奪する必要がなかったのかもしれません。それで領民の不満も少なかったのかもしれません。

 同じ九州の薩摩藩も、領内の土壌が火山灰のシラスに覆われていて米の生産が少なく、軍事的に制圧した琉球王国を通じた中国との交易で収入を得ていた事情と通じるものがあるかもしれません。ただし薩摩藩は経済規模が対馬藩よりはるかに大きいので(薩摩藩は77万石あり、対馬藩は十万石相当)、同じように見なすことは適当でないかもしれません。 

 いずれにせよ対馬藩は外国貿易という農業以外の収入源があり、これは全国的には鎖国状態にあった江戸期においては他藩に比較して優位性の一つとなったでしょう。

 以上は、対馬内部の社会的理由の推測です。さらに対馬外部にありうる持続可能性の担保理由ついても考察してみましょう。(続く 上の写真は宗家の墓所を管理している万松院です)

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