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F先生を見送る

2017年07月28日 | 雑記帳
 よき先輩であったF先生の訃報が新聞に載った。
 ご病気であったことは昨年末に知ったが、これほど早くに逝かれるとは本当に残念である。



 校長になった年に、地域の郡市校長会から大役を仰せつかった。
 校長会長が退職するので、送別会で会員を代表して送る言葉を話せという。

 会長とは、F先生である。
 一番若輩なのにと思いつつ、国語教育研究会における私との関わりを知ってくださっている方々の配慮と思え、有難く拝命した。

 当日、緊張しながら読み終えた、その送る言葉の原稿を今再び噛みしめている。

・・・・(前 略)

 ご承知の先生方も多いと思いますが、雄勝の国語教育研究会、国研というと、その昔、非常に多彩な方々が集まっており、一種の「巣窟」のようなイメージを作っておりました。
 詩人がいて、小説家がいて、劇作家がいて、組合の闘士やら、舞踊をやる人やら…時代の申し子的な方々が私たちの大先輩なわけですが、年代的にそうした方々の後に位置したのがF先生でした。また、そのあとをちょこちょことついていったというのが私です。

 郡市の文集「かっち道」、まだ教育会館が佐竹町にあった時代に、私も審査に加わりました。間もなく消防署の方へ会館が新築になり、その頃にF先生と一緒に幹事の役を仰せつかることになりました。
 といっても、当時はまだ午後3時になるかならないかのうちに、やかんに酒を沸かすのが若い者の仕事でした。
「審査の評な、家さ行ってでかしてこい。まず飲め。聞げ」と言われ、酒も話も存分に吸収できるいい時代だったなあと思います。
 しかしF先生は、そういう時でも着実に、その後を見据えていたのだなあと、今になって感じます。

 取り組まれた改革の詳しくは述べませんが、代表的な仕事としては(… 中略 …)中央の著名な講師を招いたり、協議形式に新しい手法を取り入れてみたり、郡市で唯一のホームページを開設したり、他の団体に先んじて、様々な活動に取り組みました。
 これら全てがF先生を中心として、会として結束できた成果だということは、本当に誇るべきことではないでしょうか。

 F先生は「下の者とよく相談して、若い者の声をじっくり聞いて」とよくおっしゃいます。私のような何事も拙速に過ぎる者にとっては耳が痛いのですが、実はそれがマネジメントの極意であることを、先日ある本を読んで納得できたところでした。私たちに求められていることは、細部まで落とさず見つめるだけでなく、大局を見る、俯瞰力のようなものではないかと思います。
 そういう意味で、F先生はその温厚な人間性とともに、全体を見渡して行動していくということを明確に示されてきたと思うのです。
 だから、先生のもとでは下の者、若い者が育ち、勤務された学校や所属した団体はうまく回転していったのではないでしょうか。

・・・・(後 略)


 ずいぶんとお世話になった。
 私たちが進んでいこうとした道を、丁寧に均してくださったような気がする。
 数多くの自慢していい事柄をけして声高に語ることなく、F先生は旅立たれた。

 合掌。

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