はい。
北伊予怪奇譚の第3弾をお届けします。
いい感じで破局への歩みを進める私はいよいよ高学年へ。
黒歴史の幕が上がります。
そして、遭遇するものも・・・
(以下、当時の状況=かなり腹がたつ内容です)
――私は、高学年に上がりました。
その頃の私はといえば、ずいぶんおかしなことになっていました。
事故以来現実に現実感を持てないでいた私は、十分すぎるほど現実を認識するようになっていました。
それがいろいろな意味での痛みによるものであることは皮肉なものですがw
ですがこのブランクは私の今後をむしばんでいくことになりました。
小学校の中高学年といえば、それまでお遊びレベルだった勉強が九九を皮切りに難易度を増していく時期です。
そしてその頃には私は
「こんな痛く苦しい思いをして何でこんなことをしないといけないのだ」
というプチ反抗期を迎えていました。
しかし、肉体的にも精神的にも圧倒的に大きい母はあまりに恐ろしく、単にやらないという行動に走っていました。
後になって聞くとほかの友人たちもこの頃にずいぶんさぼっていたそうですから似たものかもしれないですが。
言い訳をしてしまえば、答えを間違ったのなら容赦なく平手打ちに腹に蹴りを入れる勉強を、それでいてできたら一通り褒め、折檻されている間にさんざん「お前は私の子ではない」とか「貴様はクズだカスだ」などといっておきながらもその前言を翻されて誰が勉強を楽しいと思うでありましょう。
発散しようにもスポーツチームは低学年のころから続けている人たちの独壇場に、肉体言語の場所となっています。
そして教室での会話にはゲームやカードなどの話題にうとくついていけません。
ゲームの価格の低下や、おくれたミニ4駆ブームによって、ぎこちないながらも友人関係を維持していた新入りの人たちは自分たちの世界を築き上げています。
簡単に言ってしまえば、私は勇気がなかったといえるでしょう。
そんな私を気にかけていたのはやはり母。
そしてその友人たちでした。
彼女らは彼女らなりに考えた結果、習い事などでの友人作りを推進しようとしたようです。
ですが、それをやる過程で手が出ては意味がありません。
意固地になっていた私は殴られ、蹴られながらほとんどこれらに身を入れることができませんでした。
「これで母のストレスは発散できる」と思うかたわら「こんな苦行をなぜやらなければならない」
とも思っていたのでしょう。
今思い返せば、当時の私は少なくとも1週間に1回は数時間がかりの精神的・肉体的なリンチ、ほぼ毎日母の説教という名のイヤミを浴びていました。
母はどうやら私の記憶力に問題があると認識したようでした。
しかも、私はいわゆる砂場や公園遊びをほとんどした経験がありません。
単純に近場に砂場や公園がなかったこともありますが、こういったきっかけがない――ちょうどその年ごろには父が呼び戻される過程でのゴタゴタがありましたからまったく経験していないということは何をもたらすでしょうか。
最低限の社会性の欠如。
これが同級生との拭いがたいギャップを生みだすことになるのに時間はかかりませんでした。
驚くべきことに私は中学生になるまで「友人」という言葉が実感できていなかったのです。
精神の成熟以前に知識を詰め込んだ人間の典型的なものとして嫌味な人間となっていた私は、こうしてできた友人を知らず知らずのうちに失っていきます。
しかも、身近には「あなたのため」と言いつつも己のストレス発散のためとしか思えない機会に同じ過去の失敗をあげつらう人しかいません。
他人のためを思って注意する友人は「自分を苛める人間」にしか見えなくなっていました。
友人のいない子供は、大人の力をたのみにします。
ま、かくて嫌われ者が誕生するというわけでした。
しかも、対人経験のなさは、言動の無思慮さを生みます。
ああ。今思い出しても昔の自分にすさまじく腹が立つ!
ただ、その間に今にいたる歴史やらその他の知識の基礎が築かれるのはいい点だったかもしれませんね。
おもに見ているTV番組がNHKのニュース7(それ以外は見させてもらえませんでした)と環境番組や科学・歴史番組。例外的にTBSの世界不思議発見という偏った小学生でありましたがw
ま、そんな状況の上に、それまで遊んでくれていた対象である女子たちは早くも独り立ちしていましたので、私はクラスにはどこでもいる嫌われ者という立ち位置にいることになります。
さらに、この頃になると、私が学校の中でも感じてしまう何かを知って気持ち悪がる人も、ご近所に毎週のように響く私の鳴き声でご近所も敬遠する人が多くおり、私はだんだんとおかしくなっていたのではないでしょうか。
―――ゴホン。
そんな状況で、私は10歳の夏休みを迎えました。
いつもはいずれ休みの終わりに折檻されながら夏休みの宿題をやるのが分かりながらも(今でも私はどんな精神状態でそれを決断したのか分かりません)それを放置していました。
ですが、この年の私は違いました。
なぜなら母いわく、「この年までに人間の基本形は決まる。ならば貴様のようなデキソコナイは是が非でも矯正されなければならない。」というわけだからです。
自分でもこのままでは困るという考えから発奮し、それが内心の葛藤を上回ったのでしょう。
私は精力的に夏休みの課題や、自由研究に取り組んでいました。
その中の自由研究のネタは「地域の歴史」。
それは、家の中に閉じこもっているのもアレだと父がすすめてくれたサイクリング(自転車に乗れるまでは父がつきっきりで監督してくれた)の途中で見つけたこの地域の豪族の史跡が気になったためでもありました。
愛媛は意外に歴史が古く、松山市内には日本最古の温泉といわれる道後温泉や伊予国府など、そのほかにも神功皇后や村上水軍、鎌倉時代の元寇など多くの伝説が残っています。
私の故郷でも、この地を支配した水軍や、武将の史跡が多くありました。
この無駄に長い歴史は、周囲15キロほどさして広くない地域の中に、祠を入れず、22の神社、6つの寺院、17の中世城郭があることからも推察できるでしょう。
私はこの中のひとつを調べてみることにしたのです。
自転車でいけるごく近い場所。
それが問題でした。
「首塚」。
すぐそばの山城が長宗我部の伊予侵攻で玉砕したうえ、奥方をはじめとする女性や子供までも虐殺されたと伝えられるこの場所に、そうとは知らず私は入り込んでしまったのです。
あとで聞いた話ですが、この山城から市街地の反対側を結ぶ道では首なし武者が出るという非常に有名な場所があります。
今にして思えば、私はそこにまるで引き寄せられるように自転車を走らせました。
そこにたどり着いたとき、天気は曇り。
8月のはじめ。
母はいません。
私はパンパンと手を叩いて首塚のそばの祠に手をあわせて調査をはじめました。
当時郷土史の本を読んでいた私はそこに記されている内容を見ることができることに興奮していました。
ですが。
「ひた。ひた。」
気のせいでしょうか?
後ろに誰かがいるようなのです。
ですが私は特に気にしませんでした。
足音はすぐに去っていきましたし、このあたりにはみかん農家の人が時折通ります。
「ひた。ひた。」
今度は二人でしょうか。
山の方に向かっていきます。
このあたりはみかん畑があるだけで、後は前述の山城とは別の少し離れた場所に養護施設が山の上にあります。
しかし道はつながっていないはず。
「ひた。ひた。」
また増えました。
私は特に気にせずに――というよりも気のせいと信じて調査を続けました。
私はこれから男になるのだ。
そういった子供ならではの無謀さが私を突き動かしていました。
しかし――
「ひた。ひた。ガチャ。ガチャ。」
もう間違いはありません。
後ろの道、山の途中の石垣で造られた行き止まりへ向かう道を多くの足音と気配がのぼっていきます。
私はここに至ってはもう振り返ることはできませんでした。
たまに家の中で接するあの気配の――もっと濃密なものが後ろをたどっているのです。
ガタガタと震えが背筋をつたいました。
動くことはできません。
叫び声をあげたい気分ですが、喉に何か栓がされたように声が出ません。
はやく。逃げなければ。
でなければ私はどこかへ連れて行かれてしまう。
かつて感じた死の気配が私を包んでいました。
思えば、以前立ち寄った時と比べて今のこの場所はおかしいのです。
農家の人ともすれ違いませんでした。
それ以上に人影など見えないのです。
天候はいよいよ怪しくなってきました。
いえ。
晴れている、雲はないのに暗く、ぽつぽつと霧雨が降り始めます。
「キツネの嫁入り」
母から教えられた抒情的な名称が頭をよぎります。
のちに私は同じシチュエーションを、漫画「ARIA」で発見し戦慄。
昨年の伏見稲荷でも同じ悪感をもらうことになりますが、この時のそれは、明確な殺意を抱いていました。
私が回覧板を持っていった先のある家であびせられた何か(顔はにこやかでした)を何倍にもしたようなものです。
そして後にいるのはキツネではありません!
そんなとき、私は目の前の首塚の解説が目に入りました。
一言でいえば「リアル八つ墓村」ネタ。
ここで首を切り離された武士たち13人の祟り云々とそこには書かれていました。
しかも、すぐそばの山城の武士たちだというではありませんか。
もう、間違いはありません。
私は本気で死を覚悟しました。
その瞬間です。
「逃げなさい!」
誰かの声を聞いたような気がしました。
そのとたん、私の鉛のように重かった足は脱兎の如く動き出し、坂道の上にとめてあった自転車へと飛び乗れると、一気に道を駆けおりました。
すると不思議なことに天気雨はやみ、蛇行した国道へと出ました。
そうして命からがら帰ってみれば、東京へいっていた母が戻っているではありませんか。
私は、内心の恐怖などおかまいなしに母に今の出来事を言いました。
すると母はこう言ったのです。
「あなた、今日山へ行ったの!?」
そうだというと、母は私に肩に置いた手を震わせました。
「今日はね。地獄の釜の蓋があく日なの。だから海で泳いでいれば引きずり込まれるし、山では人が食われる。だから絶対に入っちゃダメ!」
私は何度も頷きました。
もう、何をする気も起きません。
私がこの言葉をしみじみ思いだすのは、この5年以上もあとです。
北伊予怪奇譚4 「鈴なりの声」
北伊予怪奇譚の第3弾をお届けします。
いい感じで破局への歩みを進める私はいよいよ高学年へ。
黒歴史の幕が上がります。
そして、遭遇するものも・・・
(以下、当時の状況=かなり腹がたつ内容です)
――私は、高学年に上がりました。
その頃の私はといえば、ずいぶんおかしなことになっていました。
事故以来現実に現実感を持てないでいた私は、十分すぎるほど現実を認識するようになっていました。
それがいろいろな意味での痛みによるものであることは皮肉なものですがw
ですがこのブランクは私の今後をむしばんでいくことになりました。
小学校の中高学年といえば、それまでお遊びレベルだった勉強が九九を皮切りに難易度を増していく時期です。
そしてその頃には私は
「こんな痛く苦しい思いをして何でこんなことをしないといけないのだ」
というプチ反抗期を迎えていました。
しかし、肉体的にも精神的にも圧倒的に大きい母はあまりに恐ろしく、単にやらないという行動に走っていました。
後になって聞くとほかの友人たちもこの頃にずいぶんさぼっていたそうですから似たものかもしれないですが。
言い訳をしてしまえば、答えを間違ったのなら容赦なく平手打ちに腹に蹴りを入れる勉強を、それでいてできたら一通り褒め、折檻されている間にさんざん「お前は私の子ではない」とか「貴様はクズだカスだ」などといっておきながらもその前言を翻されて誰が勉強を楽しいと思うでありましょう。
発散しようにもスポーツチームは低学年のころから続けている人たちの独壇場に、肉体言語の場所となっています。
そして教室での会話にはゲームやカードなどの話題にうとくついていけません。
ゲームの価格の低下や、おくれたミニ4駆ブームによって、ぎこちないながらも友人関係を維持していた新入りの人たちは自分たちの世界を築き上げています。
簡単に言ってしまえば、私は勇気がなかったといえるでしょう。
そんな私を気にかけていたのはやはり母。
そしてその友人たちでした。
彼女らは彼女らなりに考えた結果、習い事などでの友人作りを推進しようとしたようです。
ですが、それをやる過程で手が出ては意味がありません。
意固地になっていた私は殴られ、蹴られながらほとんどこれらに身を入れることができませんでした。
「これで母のストレスは発散できる」と思うかたわら「こんな苦行をなぜやらなければならない」
とも思っていたのでしょう。
今思い返せば、当時の私は少なくとも1週間に1回は数時間がかりの精神的・肉体的なリンチ、ほぼ毎日母の説教という名のイヤミを浴びていました。
母はどうやら私の記憶力に問題があると認識したようでした。
しかも、私はいわゆる砂場や公園遊びをほとんどした経験がありません。
単純に近場に砂場や公園がなかったこともありますが、こういったきっかけがない――ちょうどその年ごろには父が呼び戻される過程でのゴタゴタがありましたからまったく経験していないということは何をもたらすでしょうか。
最低限の社会性の欠如。
これが同級生との拭いがたいギャップを生みだすことになるのに時間はかかりませんでした。
驚くべきことに私は中学生になるまで「友人」という言葉が実感できていなかったのです。
精神の成熟以前に知識を詰め込んだ人間の典型的なものとして嫌味な人間となっていた私は、こうしてできた友人を知らず知らずのうちに失っていきます。
しかも、身近には「あなたのため」と言いつつも己のストレス発散のためとしか思えない機会に同じ過去の失敗をあげつらう人しかいません。
他人のためを思って注意する友人は「自分を苛める人間」にしか見えなくなっていました。
友人のいない子供は、大人の力をたのみにします。
ま、かくて嫌われ者が誕生するというわけでした。
しかも、対人経験のなさは、言動の無思慮さを生みます。
ああ。今思い出しても昔の自分にすさまじく腹が立つ!
ただ、その間に今にいたる歴史やらその他の知識の基礎が築かれるのはいい点だったかもしれませんね。
おもに見ているTV番組がNHKのニュース7(それ以外は見させてもらえませんでした)と環境番組や科学・歴史番組。例外的にTBSの世界不思議発見という偏った小学生でありましたがw
ま、そんな状況の上に、それまで遊んでくれていた対象である女子たちは早くも独り立ちしていましたので、私はクラスにはどこでもいる嫌われ者という立ち位置にいることになります。
さらに、この頃になると、私が学校の中でも感じてしまう何かを知って気持ち悪がる人も、ご近所に毎週のように響く私の鳴き声でご近所も敬遠する人が多くおり、私はだんだんとおかしくなっていたのではないでしょうか。
―――ゴホン。
そんな状況で、私は10歳の夏休みを迎えました。
いつもはいずれ休みの終わりに折檻されながら夏休みの宿題をやるのが分かりながらも(今でも私はどんな精神状態でそれを決断したのか分かりません)それを放置していました。
ですが、この年の私は違いました。
なぜなら母いわく、「この年までに人間の基本形は決まる。ならば貴様のようなデキソコナイは是が非でも矯正されなければならない。」というわけだからです。
自分でもこのままでは困るという考えから発奮し、それが内心の葛藤を上回ったのでしょう。
私は精力的に夏休みの課題や、自由研究に取り組んでいました。
その中の自由研究のネタは「地域の歴史」。
それは、家の中に閉じこもっているのもアレだと父がすすめてくれたサイクリング(自転車に乗れるまでは父がつきっきりで監督してくれた)の途中で見つけたこの地域の豪族の史跡が気になったためでもありました。
愛媛は意外に歴史が古く、松山市内には日本最古の温泉といわれる道後温泉や伊予国府など、そのほかにも神功皇后や村上水軍、鎌倉時代の元寇など多くの伝説が残っています。
私の故郷でも、この地を支配した水軍や、武将の史跡が多くありました。
この無駄に長い歴史は、周囲15キロほどさして広くない地域の中に、祠を入れず、22の神社、6つの寺院、17の中世城郭があることからも推察できるでしょう。
私はこの中のひとつを調べてみることにしたのです。
自転車でいけるごく近い場所。
それが問題でした。
「首塚」。
すぐそばの山城が長宗我部の伊予侵攻で玉砕したうえ、奥方をはじめとする女性や子供までも虐殺されたと伝えられるこの場所に、そうとは知らず私は入り込んでしまったのです。
あとで聞いた話ですが、この山城から市街地の反対側を結ぶ道では首なし武者が出るという非常に有名な場所があります。
今にして思えば、私はそこにまるで引き寄せられるように自転車を走らせました。
そこにたどり着いたとき、天気は曇り。
8月のはじめ。
母はいません。
私はパンパンと手を叩いて首塚のそばの祠に手をあわせて調査をはじめました。
当時郷土史の本を読んでいた私はそこに記されている内容を見ることができることに興奮していました。
ですが。
「ひた。ひた。」
気のせいでしょうか?
後ろに誰かがいるようなのです。
ですが私は特に気にしませんでした。
足音はすぐに去っていきましたし、このあたりにはみかん農家の人が時折通ります。
「ひた。ひた。」
今度は二人でしょうか。
山の方に向かっていきます。
このあたりはみかん畑があるだけで、後は前述の山城とは別の少し離れた場所に養護施設が山の上にあります。
しかし道はつながっていないはず。
「ひた。ひた。」
また増えました。
私は特に気にせずに――というよりも気のせいと信じて調査を続けました。
私はこれから男になるのだ。
そういった子供ならではの無謀さが私を突き動かしていました。
しかし――
「ひた。ひた。ガチャ。ガチャ。」
もう間違いはありません。
後ろの道、山の途中の石垣で造られた行き止まりへ向かう道を多くの足音と気配がのぼっていきます。
私はここに至ってはもう振り返ることはできませんでした。
たまに家の中で接するあの気配の――もっと濃密なものが後ろをたどっているのです。
ガタガタと震えが背筋をつたいました。
動くことはできません。
叫び声をあげたい気分ですが、喉に何か栓がされたように声が出ません。
はやく。逃げなければ。
でなければ私はどこかへ連れて行かれてしまう。
かつて感じた死の気配が私を包んでいました。
思えば、以前立ち寄った時と比べて今のこの場所はおかしいのです。
農家の人ともすれ違いませんでした。
それ以上に人影など見えないのです。
天候はいよいよ怪しくなってきました。
いえ。
晴れている、雲はないのに暗く、ぽつぽつと霧雨が降り始めます。
「キツネの嫁入り」
母から教えられた抒情的な名称が頭をよぎります。
のちに私は同じシチュエーションを、漫画「ARIA」で発見し戦慄。
昨年の伏見稲荷でも同じ悪感をもらうことになりますが、この時のそれは、明確な殺意を抱いていました。
私が回覧板を持っていった先のある家であびせられた何か(顔はにこやかでした)を何倍にもしたようなものです。
そして後にいるのはキツネではありません!
そんなとき、私は目の前の首塚の解説が目に入りました。
一言でいえば「リアル八つ墓村」ネタ。
ここで首を切り離された武士たち13人の祟り云々とそこには書かれていました。
しかも、すぐそばの山城の武士たちだというではありませんか。
もう、間違いはありません。
私は本気で死を覚悟しました。
その瞬間です。
「逃げなさい!」
誰かの声を聞いたような気がしました。
そのとたん、私の鉛のように重かった足は脱兎の如く動き出し、坂道の上にとめてあった自転車へと飛び乗れると、一気に道を駆けおりました。
すると不思議なことに天気雨はやみ、蛇行した国道へと出ました。
そうして命からがら帰ってみれば、東京へいっていた母が戻っているではありませんか。
私は、内心の恐怖などおかまいなしに母に今の出来事を言いました。
すると母はこう言ったのです。
「あなた、今日山へ行ったの!?」
そうだというと、母は私に肩に置いた手を震わせました。
「今日はね。地獄の釜の蓋があく日なの。だから海で泳いでいれば引きずり込まれるし、山では人が食われる。だから絶対に入っちゃダメ!」
私は何度も頷きました。
もう、何をする気も起きません。
私がこの言葉をしみじみ思いだすのは、この5年以上もあとです。
北伊予怪奇譚4 「鈴なりの声」











甲田学人氏の小説とか読んでたりしますが、
この手の話は面白いというか、引き込まれてしまいます。
マヨイガに行ってみたいなと思ってたりも。
と、思いつつ読みました。
しかし、盆にあんなところ行くなんて。
実際、色々と古い形が残っている土地ですから。
私のせいで死人を出したくないですので。
というか、あの山にのぼったときは何も起きなかったんですがね〜w
当時は私は世界一不幸な人間だと思い込んでいましたが、実際そうでもないんですよ。
まあ、六つある寺と22ある神社の一つづつ何らかの繋がりがあると色々聞きます。
何というか、それ以上に危ない話も。
でも一番怖いのは生きている人間そのものだったりしますが。
・・・そこらへんは体験していない上に伝聞ですから書きません。
文字通り洒落になりませんからね。
そして人間が一番恐ろしいということ。
本当にしみじみそう思います。
山の怪談も多いですが、これはどうやらオバケの方みたいですね。
土着の神様も大概怖いですけど。
そしてひゅうがママン、酷すぎ。
引っ越さず、都市で暮らしていれば違っていたのでしょうね。
都会の人に山の暮らしは大変だろうし。