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5月に入ると、ハレー彗星は実に60度という途方もない長さの尾を引き始めた。
これは、東の地平線から西の地平線までを180度としたときその3分の1以上の長さの尾が空を覆っていることになる。
同時期、フランスのある天文学者によって彗星の尾に含まれるシアンガスが地球大気に接触することで毒ガスが発生するという説が発表された。
彗星の軌道は不安定であり(核から大量のジェット噴射を行っているようなものなので当然だろう)、衝突するかもしれないという恐怖は拭いきれない中で発せられたこの提言は、「彗星のガスはそれほど濃くない」という反論にも関わらず各国の新聞がそろって「人類滅亡の危機」と騒ぎ立てる要因にもなった。
この時、空を見つめた眼の密度が最も高かったのはおそらく日本であろう。
天文台の建設ラッシュに続き、折からのハレー接近は日本人の恐怖を煽ったが、それは西洋の「審判の日」的なものではなく、一種のお祭り騒ぎを併発させる末世世直し的な気風を掻きたてていたのだ。
ある意味、地震・雷・火事に慣れきっており、また近代戦争という恐ろしい現象を乗り切った日本人の開き直りに近い精神状態ではあったが、町の眼鏡屋やまだまだ零細企業であった日本光学(現ニコン)が安価な天体望遠鏡や組み立て式のレンズと紙筒のセットなどを販売して躍進のきっかけを作るなど大いに経済には貢献している。
(記録によると、まだまだ日本全体が貧しかったにもかかわらずわずか1年のうちに30万セットが売れた上、それに加えて文部省から学校教材用に大量の発注がかかったという)
5月7日以降は過去最高の売り上げを記録する花柳界を除いて全土が自主的な灯火管制に近い状況が出現し、5月11日には小爆発を伴うと思われる発光を確認。
5月21日には尾の長さはなんと120度にまで達した。
同日が最接近であり、あとは太陽に最接近した後でそのまま宇宙の彼方へと消えていくという予測結果が示されたのは23日。
国家プロジェクトとして観測が行われていた日本での観測データが結果的に一番量が多いことになった。
この大接近の中で、ひとつの重要な出来事が起こっている。
日本初の硬式飛行船の飛行である。
表向きは、ハレー彗星の接近による大気への影響を調査するということになっていたが、実際はその業務に並行して気密室内に皇族を擁して万が一のハレー衝突や大気の毒化に備えるための行動であったといわれている。
実際、5月21日にはのちの大正天皇や昭和天皇、その他の皇族たちが富良野からハレーの空中観測を親閲している。
この際、開明的であり新し物好きであったといわれる皇太子(のちの大正帝)が航空機や天文分野に大きな興味を抱いたことから、日本の航空宇宙開発は大きな発展を遂げる糸口をつかむことになった。
なお、ハレー接近の際の観測データは国際学会において報告され、日本の国土測量の結果とあわせて利用されることで三角測量が可能となったことからハレーの正確な距離や軌道計算が可能となっていた。
歴史は、この観測データを日本天文学初期の偉大な功績として記録している。
同年12月には、欧州で飛行機の訓練に従事していた徳川好敏 陸軍工兵大尉が代々木練兵場において日本初の動力飛行に成功。
ハレー彗星の航空観測が世界的にも高い評価を受けていたこと、天文分野に大きな関心が寄せられつつあったことを鑑み、時の桂太郎(第13代内閣総理大臣)内閣は、枢密院の外局扱いであった隕石衝突対策委員会と天文局を統合。
さらには日本国内における航空機開発を主導し、隕石衝突などの「国体の危機」に対処する専門機関として「内閣航空宇宙庁」の設立を宣言した。
これは、同年に発生した哈爾浜での伊藤博文暗殺「未遂」事件に代表される明治政府を主導した元老たちの権威の低下から、陸軍の首領的な地位にいた元老山形有朋の排除を狙ったためであるともいわれている。
ともあれ、政府の航空・天文重視の姿勢は継続され、東京湾要塞や新戦艦の建造中止などをもってねん出された多額の予算は黎明期の日本の航空開発と天文観測のインフラ整備にあてられることとなった。
初代の航空宇宙庁長官に就任したのは、台湾の初期統治で児玉源太郎総督の右腕として辣腕を振るい、満州においては初代満鉄総裁として伊藤博文とロシア皇太子との会談を実現させた敏腕官僚の後藤新平(のちの第19代内閣総理大臣)であった。
有能であるといって差し支えない彼の手によって、日本の航空および天文観測は急速な発展を遂げていくことになる。
2、観測体制の拡充と航空機の黎明
航空宇宙庁の出だしは、ハレー観測成功という輝かしい成果にふさわしく順風満帆なものだった。
とはいっても、順調であったのは庁内の最大部局である天文局にほぼ限った話であり、航空機開発や、主眼とされた隕石迎撃の実行部署に関しては相変わらず研究レベル以上の予算はつかなかった。
これは、天体危機対策委員会を主導する桂内閣が、「予算不足のため」水面下で進行していた大韓帝国の併合計画を白紙撤回させられた腹いせであったともいわれているが、実際のところは元老伊藤博文や明治帝の大反対によって阻止されただけの話で、研究予算としては潤沢な予算を与えられていたことに違いはない。
事実、1911年には日露協商下の良好な日露関係のもとで科学者の交換協定が成立。
これにのって、のちのロケットの父、コンスタンティン・ツィオルコフスキー博士が東京帝国大学に招聘されている。
この交換プログラムは順次世界中に拡大され、当初は第一線の研究者が、次いで軍人と研究者の卵たちが主に英国やアメリカへ渡航することになる。
ただ、日露戦争の勝利を糧に、八八艦隊や陸軍常設35個師団といった大規模な軍拡を希望していた軍界(軍部)の受けが悪かったことは確かである。
それでも、隕石対策といえばある程度の妥協は成立し、第一次世界大戦に至るまで海陸軍は主に大口径砲や砲兵(のちに高射砲)部隊の整備に力を尽くしていくことになる。
なお、こうした大口径砲を日本本土で運用し、隕石災害時に素早く対処を行うために日本陸軍と内務省が後藤新平の改軌論争に味方したことで、大正期の政治抗争は原敬の敗北に終わったことは特筆されるべきであろう。
1911(明治44)年、後藤新平長官のもとで発足した航空宇宙庁は、既に建設が進んでいた「基幹天文台」に加え、太平洋上に点在する島嶼部や、観測条件のいい南米チリや豪州などにも観測基地を設けるという、いわゆる「1次天」、「第1次中期天体観測所整備計画」を決定。
内閣の承認を取り付けると、当時太平洋の大半を支配していた英仏、そして米国に対し働きかけを開始した。
これは、桂内閣時に満州鉄道の経営権問題で米国のハリマン商会と対立し結果悪化した日米関係を改善し、また、日露戦争後存在価値が危ぶまれつつあった日英同盟を存続させる狙いも持っていたようである。
実際、協議は難航したものの最終的に1913(大正2)年には大韓帝国の基幹鉄道であった京釜線と、南満州鉄道において同商会は出資比率3割という破格の待遇で経営に参画することになっている。
(英国東インド会社が2割、日本政府が3割5分、フランス政府が1割5分であるが、英国は京義線と平新線において5割の資本比率を確保していた)
この好待遇に気をよくした英米は、日本持ちで天文台を建設し観測結果は公表、また研究の半分は現地の大学も利用できるという協定を認める。
折しもモロッコのタンジール事件などでドイツ第2帝国と英仏の対立が深まっていた頃で、米領ウェーク島への天文台建設は中止され、ハワイマウナケア山頂へと変更されるなどの改定は行われたものの、太平洋上の島嶼の各地において天文観測施設の槌音が響いていた。
1913年末までに完成していたのは、
・米領ハワイマウナケア天文台(大口径反射望遠鏡設置)
・英領クリスマス島天文台(赤道上での掃天観測を実施)
・仏領ニューカレドニアパニエ山天文台(南半球での観測を統括)
以上の3つである。
これ以外にも日本領内においては、
・新高山天文台(台湾の最高峰に位置。南東アジアの観測拠点として整備)
・久万高原天文台(四国山中、西日本の観測地として整備)
・金北山天文台(佐渡島最高峰に位置。日本海方面を観測)
の3か所が整備され、これらを補完するために
・敷香観測所(樺太中部)
・幌筵観測所(千島列島北端近くに位置)
・帯広観測所(北海道)
・馬篭観測所(長野・岐阜県境)
・明石観測所(日本標準時子午線上の基準時制定所に併設)
・福江観測所(五島列島)
の6か所が整備されつつあった。
この頃の天文台は、2つ以上の天体望遠鏡ないし観測設備とドーム屋根を有しているものをいい、観測所は天体望遠鏡が1つはある場所をいった。
のちにこの基準は望遠鏡の口径が30センチ以上(広角を除く)で常駐する所員2名以上のものと改訂されることになり、多くの天文台が観測所に「格下げ」となる。
だが、いずれの施設にも電信設備が配備されて常時緊急事態に備える態勢がとられていることに変わりはなかった。
(ほとんどが軍用地か山間部を選んで立てられ、いずれも日露戦争時に建てられた海軍望楼に準じた扱いを受けた)
日露戦争において威力を発揮した電信による情報伝達システムは、有線と無線の両方を用いて東京三鷹の「東京中央天文台」に併設された「天体危機管理本部」へと直結され、東西南北の四つに分けられた天空で常に一人は空を警戒していることが求められることになっていた。
天文台においては平時は天体観測と研究にも従事できたが、各観測所では流星や小惑星の監視がメインであり、二個以上の望遠鏡を持っているところでなければ自由に星を眺めて観測を行うことは許可されていなかった。
また、各観測所は「基幹天文台」が所管するする7つの管区に所属し、それぞれ基幹天文台の台長の命令で観測が行われていた。
こうして、1911年から13年にかけて急ピッチで整備された西太平洋から極東にかけての観測網は、第一次世界大戦に遭遇することで一時的に拡大にストップがかかる。
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5月に入ると、ハレー彗星は実に60度という途方もない長さの尾を引き始めた。
これは、東の地平線から西の地平線までを180度としたときその3分の1以上の長さの尾が空を覆っていることになる。
同時期、フランスのある天文学者によって彗星の尾に含まれるシアンガスが地球大気に接触することで毒ガスが発生するという説が発表された。
彗星の軌道は不安定であり(核から大量のジェット噴射を行っているようなものなので当然だろう)、衝突するかもしれないという恐怖は拭いきれない中で発せられたこの提言は、「彗星のガスはそれほど濃くない」という反論にも関わらず各国の新聞がそろって「人類滅亡の危機」と騒ぎ立てる要因にもなった。
この時、空を見つめた眼の密度が最も高かったのはおそらく日本であろう。
天文台の建設ラッシュに続き、折からのハレー接近は日本人の恐怖を煽ったが、それは西洋の「審判の日」的なものではなく、一種のお祭り騒ぎを併発させる末世世直し的な気風を掻きたてていたのだ。
ある意味、地震・雷・火事に慣れきっており、また近代戦争という恐ろしい現象を乗り切った日本人の開き直りに近い精神状態ではあったが、町の眼鏡屋やまだまだ零細企業であった日本光学(現ニコン)が安価な天体望遠鏡や組み立て式のレンズと紙筒のセットなどを販売して躍進のきっかけを作るなど大いに経済には貢献している。
(記録によると、まだまだ日本全体が貧しかったにもかかわらずわずか1年のうちに30万セットが売れた上、それに加えて文部省から学校教材用に大量の発注がかかったという)
5月7日以降は過去最高の売り上げを記録する花柳界を除いて全土が自主的な灯火管制に近い状況が出現し、5月11日には小爆発を伴うと思われる発光を確認。
5月21日には尾の長さはなんと120度にまで達した。
同日が最接近であり、あとは太陽に最接近した後でそのまま宇宙の彼方へと消えていくという予測結果が示されたのは23日。
国家プロジェクトとして観測が行われていた日本での観測データが結果的に一番量が多いことになった。
この大接近の中で、ひとつの重要な出来事が起こっている。
日本初の硬式飛行船の飛行である。
表向きは、ハレー彗星の接近による大気への影響を調査するということになっていたが、実際はその業務に並行して気密室内に皇族を擁して万が一のハレー衝突や大気の毒化に備えるための行動であったといわれている。
実際、5月21日にはのちの大正天皇や昭和天皇、その他の皇族たちが富良野からハレーの空中観測を親閲している。
この際、開明的であり新し物好きであったといわれる皇太子(のちの大正帝)が航空機や天文分野に大きな興味を抱いたことから、日本の航空宇宙開発は大きな発展を遂げる糸口をつかむことになった。
なお、ハレー接近の際の観測データは国際学会において報告され、日本の国土測量の結果とあわせて利用されることで三角測量が可能となったことからハレーの正確な距離や軌道計算が可能となっていた。
歴史は、この観測データを日本天文学初期の偉大な功績として記録している。
同年12月には、欧州で飛行機の訓練に従事していた徳川好敏 陸軍工兵大尉が代々木練兵場において日本初の動力飛行に成功。
ハレー彗星の航空観測が世界的にも高い評価を受けていたこと、天文分野に大きな関心が寄せられつつあったことを鑑み、時の桂太郎(第13代内閣総理大臣)内閣は、枢密院の外局扱いであった隕石衝突対策委員会と天文局を統合。
さらには日本国内における航空機開発を主導し、隕石衝突などの「国体の危機」に対処する専門機関として「内閣航空宇宙庁」の設立を宣言した。
これは、同年に発生した哈爾浜での伊藤博文暗殺「未遂」事件に代表される明治政府を主導した元老たちの権威の低下から、陸軍の首領的な地位にいた元老山形有朋の排除を狙ったためであるともいわれている。
ともあれ、政府の航空・天文重視の姿勢は継続され、東京湾要塞や新戦艦の建造中止などをもってねん出された多額の予算は黎明期の日本の航空開発と天文観測のインフラ整備にあてられることとなった。
初代の航空宇宙庁長官に就任したのは、台湾の初期統治で児玉源太郎総督の右腕として辣腕を振るい、満州においては初代満鉄総裁として伊藤博文とロシア皇太子との会談を実現させた敏腕官僚の後藤新平(のちの第19代内閣総理大臣)であった。
有能であるといって差し支えない彼の手によって、日本の航空および天文観測は急速な発展を遂げていくことになる。
2、観測体制の拡充と航空機の黎明
航空宇宙庁の出だしは、ハレー観測成功という輝かしい成果にふさわしく順風満帆なものだった。
とはいっても、順調であったのは庁内の最大部局である天文局にほぼ限った話であり、航空機開発や、主眼とされた隕石迎撃の実行部署に関しては相変わらず研究レベル以上の予算はつかなかった。
これは、天体危機対策委員会を主導する桂内閣が、「予算不足のため」水面下で進行していた大韓帝国の併合計画を白紙撤回させられた腹いせであったともいわれているが、実際のところは元老伊藤博文や明治帝の大反対によって阻止されただけの話で、研究予算としては潤沢な予算を与えられていたことに違いはない。
事実、1911年には日露協商下の良好な日露関係のもとで科学者の交換協定が成立。
これにのって、のちのロケットの父、コンスタンティン・ツィオルコフスキー博士が東京帝国大学に招聘されている。
この交換プログラムは順次世界中に拡大され、当初は第一線の研究者が、次いで軍人と研究者の卵たちが主に英国やアメリカへ渡航することになる。
ただ、日露戦争の勝利を糧に、八八艦隊や陸軍常設35個師団といった大規模な軍拡を希望していた軍界(軍部)の受けが悪かったことは確かである。
それでも、隕石対策といえばある程度の妥協は成立し、第一次世界大戦に至るまで海陸軍は主に大口径砲や砲兵(のちに高射砲)部隊の整備に力を尽くしていくことになる。
なお、こうした大口径砲を日本本土で運用し、隕石災害時に素早く対処を行うために日本陸軍と内務省が後藤新平の改軌論争に味方したことで、大正期の政治抗争は原敬の敗北に終わったことは特筆されるべきであろう。
1911(明治44)年、後藤新平長官のもとで発足した航空宇宙庁は、既に建設が進んでいた「基幹天文台」に加え、太平洋上に点在する島嶼部や、観測条件のいい南米チリや豪州などにも観測基地を設けるという、いわゆる「1次天」、「第1次中期天体観測所整備計画」を決定。
内閣の承認を取り付けると、当時太平洋の大半を支配していた英仏、そして米国に対し働きかけを開始した。
これは、桂内閣時に満州鉄道の経営権問題で米国のハリマン商会と対立し結果悪化した日米関係を改善し、また、日露戦争後存在価値が危ぶまれつつあった日英同盟を存続させる狙いも持っていたようである。
実際、協議は難航したものの最終的に1913(大正2)年には大韓帝国の基幹鉄道であった京釜線と、南満州鉄道において同商会は出資比率3割という破格の待遇で経営に参画することになっている。
(英国東インド会社が2割、日本政府が3割5分、フランス政府が1割5分であるが、英国は京義線と平新線において5割の資本比率を確保していた)
この好待遇に気をよくした英米は、日本持ちで天文台を建設し観測結果は公表、また研究の半分は現地の大学も利用できるという協定を認める。
折しもモロッコのタンジール事件などでドイツ第2帝国と英仏の対立が深まっていた頃で、米領ウェーク島への天文台建設は中止され、ハワイマウナケア山頂へと変更されるなどの改定は行われたものの、太平洋上の島嶼の各地において天文観測施設の槌音が響いていた。
1913年末までに完成していたのは、
・米領ハワイマウナケア天文台(大口径反射望遠鏡設置)
・英領クリスマス島天文台(赤道上での掃天観測を実施)
・仏領ニューカレドニアパニエ山天文台(南半球での観測を統括)
以上の3つである。
これ以外にも日本領内においては、
・新高山天文台(台湾の最高峰に位置。南東アジアの観測拠点として整備)
・久万高原天文台(四国山中、西日本の観測地として整備)
・金北山天文台(佐渡島最高峰に位置。日本海方面を観測)
の3か所が整備され、これらを補完するために
・敷香観測所(樺太中部)
・幌筵観測所(千島列島北端近くに位置)
・帯広観測所(北海道)
・馬篭観測所(長野・岐阜県境)
・明石観測所(日本標準時子午線上の基準時制定所に併設)
・福江観測所(五島列島)
の6か所が整備されつつあった。
この頃の天文台は、2つ以上の天体望遠鏡ないし観測設備とドーム屋根を有しているものをいい、観測所は天体望遠鏡が1つはある場所をいった。
のちにこの基準は望遠鏡の口径が30センチ以上(広角を除く)で常駐する所員2名以上のものと改訂されることになり、多くの天文台が観測所に「格下げ」となる。
だが、いずれの施設にも電信設備が配備されて常時緊急事態に備える態勢がとられていることに変わりはなかった。
(ほとんどが軍用地か山間部を選んで立てられ、いずれも日露戦争時に建てられた海軍望楼に準じた扱いを受けた)
日露戦争において威力を発揮した電信による情報伝達システムは、有線と無線の両方を用いて東京三鷹の「東京中央天文台」に併設された「天体危機管理本部」へと直結され、東西南北の四つに分けられた天空で常に一人は空を警戒していることが求められることになっていた。
天文台においては平時は天体観測と研究にも従事できたが、各観測所では流星や小惑星の監視がメインであり、二個以上の望遠鏡を持っているところでなければ自由に星を眺めて観測を行うことは許可されていなかった。
また、各観測所は「基幹天文台」が所管するする7つの管区に所属し、それぞれ基幹天文台の台長の命令で観測が行われていた。
こうして、1911年から13年にかけて急ピッチで整備された西太平洋から極東にかけての観測網は、第一次世界大戦に遭遇することで一時的に拡大にストップがかかる。
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