“風の道草” ・ かぜのみちくさ View Japan-景趣- 3

☆・Made in Japan を、せめて、半分は買おう!!
☆・国内経済の安定は国内生産消費サイクルから!!

“風の道草” 「かぜのみちくさ」 View Japan-景趣- 3

※- フランスTV も注目日本の『 特捜検察 』とマスメディア
日本語の字幕が出ます
文字が小さいので、初めから「全面画面」で視てください
「正力松太郎」(読賣新聞)は、CIAのスパイだった!!

日本語字幕に関して、日本の大手新聞テレビ局が報道しない理由を的確に述べています。
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Let’s go ! Heated discussion ⇒ 「阿修羅・掲示板
:
<-- TPP・密室交渉の知られざる罠 -->

「TPP・密室交渉の知られざる罠」

TPPのリーク・テキストを入手した市民団体「パブリック・シチズン」


ジョン・レノン John Lennon:世界は狂人によって支配されている

          ジョン・レノンが話している意味とは ⇒ ここから



内部告発!元アメリカ 国家安全保障局員 Jim Stone 氏

3.11大震災:アメリカ と イスラエルの裏権力が核兵器を使った!


目覚めた・アメリカ兵!NATO(実質アメリカ軍)こそが、テロリスト


”19世紀の流れ”

2005年08月07日 |  時流 ・戦争 
時流- 1 19世紀の流れ
 
 
戦後60年  2005年
 
 
徒然に ・ ・ ・ 、 日本史や西洋史なる難しい歴史事項は横に置いて、ただ、な~んと無く世界地図を開く。
 
アフリカ大陸全土から、中東アジア諸国、東南アジア諸国、そして、中南米諸国と殆んどが、19世紀当時、ヨーロッパ列強国の植民地や保護領統治である。
 
なぜか、東洋の端に位置する小国・島国・日本は、その西洋列強国の支配から免れる事が出来た。
 
その理由は何なのか、自分なりに考察すると、当時、曲がりなりにも日本国と言う国体が出来ていたと云う事なんでしょう( 歴史にも弱い )。
 
日本は列強国から開国を迫られながら、拒否を続けていた、しかし、アメリカの圧力に負けて開国となる。( なんとも、簡単な文章です )アメリカのペリー提督が黒船で浦賀にやって来た、等々は本を読んでください。
 
ぺりーは幕府に開国を迫った。一時退去したが 1854年再び江戸湾にきて条約締結を要求,神奈川条約(日米和親条約)の締結に成功。
 
日本は西洋の技術者を招き、治山土木、河川改修事業から建築、工業化と色々取り入れて行った、その結果、工業化が進んで軍事力を強める結果となった。
 
チョッと、幕末が飛んで明治に成っています。( だから、自分の歴史認識はこんなもんです )。
 
西洋から遠く東の果てにある( far east )島国日本、世界中が覇権・帝国主義・植民地政策の中で、小国島国・日本が独立国で居られたもんである。
 
20世紀、第二次世界大戦の敗戦によって一時期、完全に主権が奪われましたが、よくも日本が植民地にならなかった、不思議と言え無くもない時が流れた19世紀。   
 
つづく
 
*-*
 
 2005年 7月28日 景趣
     
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”日清戦争への流れ”

2005年08月07日 |  時流 ・戦争 

時流- 2 ( 日清戦争への流れ

 

戦後60年 2005年

 

1889年 明治22年   211 大日本帝国憲法発布

1890年 明治23年 )11月30 教育勅語

 

※- 日清戦争 -※

1894年(明治27年 )朝鮮半島南部で「東学の乱(甲午農民戦争)」とよばれる農民暴動が起こった。

此れを鎮圧する為に、朝鮮は清国に出兵を求めた。

清国の出兵が以前、甲申事変(1884年)の際、親日派と言われた人達を弾圧した経緯があり、日本政府は軍隊を派遣した。

日本と清国、双方の軍隊が衝突する事になり「日清戦争」が始まった。

この戦いは、朝鮮半島に止まらず、南満州まで拡大した。また、海戦も行なわれたが、日本軍の圧勝に終わった。

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下関条約

1895年(明治28年)日本の下関に於いて日清両国は条約を結ぶ。

この時、清国は日本に対して、当時、日本税収の 3倍に当たる 3億円の賠償金支払いを認めると共に、朝鮮の独立や中国の「遼東半島」の割譲を認めた。

しかし、この割譲は、「三国干渉」と言われる、ロシア、ドイツ、フランスの圧力でもって、日本は手放す事になる。

下関条約によって、台湾が日本の領有になる

*-*

この時、清国が支払った賠償金が、日本の工業化に使われる事に成る、その結果として、重工業が発達して財閥が大きくなり、軍事力も整いだしていく。

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下関条約1895年から 9年後、日露戦争が始まる。 つづく

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 2005年 8月 4日 景趣

     

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”日露戦争への流れ”

2005年08月07日 |  時流 ・戦争 

☆・時流 3  日露戦争への流れ

 

戦後60年  2005年

 

1902年 明治35年 )   日英同盟締結

1905年 明治37年 2月  日露戦争始まる

 

極東の小さな島国、日本。大国ロシアがジワジワと極東に勢力を拡大して来た。

1900年に中国で起きた義和団事件でロシアは満州に2万の兵を送り込み、そのまま居座っていた、その事が日本に取って気がかりであった、ロシアが状況を見て朝鮮半島まで南下の恐れがあったからである。

その当時、独立国が単独で国を守る難しさがあった、そこで日本は1902年に英国と同盟を結んだ。

 

  日露戦争 -※

1904年2月、日本は英米の支持を背景に、ロシアと戦争に成る。

1905年、日本陸軍は三国干渉で手放し、ロシア軍に寄って堅固に要塞化された遼東半島の突端にある旅順を、大きな犠牲を払いながら占領した、同様に、内陸部の奉天も占領する。

ロシア軍は、この劣勢を回復させるため、バルチック艦隊を日本へ派遣する事を決め、ヨーロッパから遠い日本へ 8ヶ月をかけて艦隊を送り込んで来た。

それを迎え撃つ日本海軍に、国家存亡がかかっていたと言える。

バルチック艦隊は40隻、迎え撃つ日本海軍は 108隻、日本海海戦が火ぶたを切った。(資料によって隻数が異なります)

日本の連合艦隊は旗艦・三笠を中心に戦い臨み、バルチック艦隊を全滅させた、この出来事は世界中に驚きを与えた。

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☆・ポーツマス条約

19059月、アメリカの仲介で、日本とロシア間で講和条約が結ばれる。

内容は、朝鮮の支配権を日本が持つ、中国の遼東半島の租借権を日本が取得、南満州にロシアが建設した鉄道の権益を譲りうける、南樺太の領有を確認した。

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日露戦争から10年後、1914年、第一次世界大戦が始まる  つづく 

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 2005年 8月 5日 景趣

     

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”第一次世界大戦への流れ”

2005年08月07日 |  時流 ・戦争 
☆・時流- 4 ( 第一次世界大戦への流れ )


戦後60年  2005年


1905年( 明治38年 )[ 日米政府間覚書 - 共に認め合う協約 - ]
アメリカの = フィリピン支配
日本の = 朝鮮半島支配
*-*
同年 [ 日英同盟更新 - 共に認め合う協約 - ]
英国は = 日本にインド防衛同盟義務
日本は = 朝鮮半島支配、
*-*
1907年( 明治40年 )[ 日露協約 - 共に認め合う協約 - ]
ロシアの = 外モンゴル支配、北満州の勢力範囲
日本の = 朝鮮半島支配、南満州の勢力範囲、

同年 [ 日仏協約 - 共に認め合う協約 - ]
フランスの = インドシナの植民地支配
日本の = 朝鮮半島支配
*-*
1910年( 明治43年 ) [ ※-韓国併合-※ ]

日本は日露戦争後、韓国に統監府を置いて支配を強めていた。

日本政府は日本の安全と満州の権益を防衛する為に、韓国併合が必要と1910年、韓国内の反対派を押さえ込んで韓国併合を行なった。

日本は韓国併合前に根回し外交を行なって来た。それを示すのが、文頭に書いた書簡であります。
*-*
1912年  1912年 ( 明治45年 ) [ 中華民国の成立 ]

1911年、中国に辛亥革命(しんがいかくめい)が起こり、その翌年、南京に革命派が集まって、孫文を臨時大総統に選んで中華民国の設立宣言をした。

その時、清朝政府の実力者「袁世凱(えんせいがい)」は革命はと結託して皇帝を退位させて清朝を滅ぼした。

しかし、結果として、中国は統制を失い、地方ごとに武力を持った軍閥によってバラバラに支配される事になる。
*-*
その頃、日本では、

1912年(明治45年)明治天皇が崩御され、大正天皇が即位した。

国内は財政難で在りながら、軍部は軍備拡大を進め、それに反対した、第二次西園寺公望内閣が倒れた。

その後、誕生した、第三次桂太郎内閣は国民の怒りを受けて総辞職した( 大正政変 )。政治が混乱の時代( いつも、そうですがね )
*-*
ヨーロッパでは、

三国協商( イギリス、フランス、ロシア )対 三国同盟( ドイツ、オーストリア、イタリア )の列強間の対立が大きく深まっていた。


※- 第一次世界大戦 -※

そんな緊張対立の中で、オーストリアの皇太子がボスニアのサラエボで、セルビアの青年に暗殺される事件が起きた。

両陣営が相次いで参戦する事となる、第一次世界大戦を境として、戦争の戦い方が大きく変わったと言われている、要するに、軍人だけの戦いに終わらず、一般国民も巻き込まれる戦争形態に移った、ドロドロした戦いが続く「 総力戦 」と言われる、戦い方である。
*-*
その時、日本政府は三国協商側に付く事になる。

日英同盟の約束に基づいての行動であった、ドイツの植民地であった、山東半島・青島(チンタオ)を占領したが、ヨーロッパ戦線への参戦は断った。
*-*
第一次世界大戦は:1914年 から 1918年までの 4年間も続いた戦争であった。
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ヨーロッパでの大戦が終わり、その後、23年、日本は真珠湾を攻撃した。太平洋戦争に突入する事と成る   つづく
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2005年 8月 6日 -景趣-
       
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”第二次世界大戦への流れ”

2005年08月07日 |  時流 ・戦争 
☆・時流- 5 ( 第二次世界大戦への流れ )


戦後60年  2005年


 戦争が起こる時、色々な原因がある、そんな中で言える事がある、経済不況である。

経済が悪くなり、国民の不満が1900年頃から直に政治に影響を与えるようになった。この、第二次世界大戦への流れは、それが謙虚に現われて来た現象と云える気がする。

第一次世界大戦から各国間協議が行われて来たが、その多くは戦勝国や白人社会主導で行なわれていた。

ドイツは大戦に破れた結果、賠償金の負担が庶民に課せられ、政府への不満がファシズムの台頭を育てたと言えるでしょう。

ヒットラーはゲルマン民族の栄光の回復をスローガンに選挙制度の下でナチス党を第一党にした。

1933年、ヒットラーは政権を握り独裁体制を作り上げた。
*-*
また、ロシアでは共産主義による一党独裁体制が多くの犠牲者を出しながら強力に進められていた。

レーニンが死んで、スターリン体制になり、1928年からの5カ年計画の下で集団化が進められた。
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◎-その頃の中国

清朝滅亡後:中国各地は、それぞれの軍閥が支配していた。

1928年、中国国民党の指導者:蒋介石が北京で新政府を樹立させた。

中国政府:北京の蒋介石から、これまで、中国と各国が結んでいた条約を、無効にする一方的な通達があった。これを中国国民党の革命外交と称して彼らの団結を示した。
*-*
◎-その頃の日本

日本国内に於いて、政党内閣が定着しつつも協調外交の行き詰まりが目に付いてきた。

1930年、ロンドンで行なわれた軍縮会議で、日本は、ここでも要求を満たす事が出来ず、政府に対しての軍部からの圧力が日増しに強くなって行く。

1931年( 昭和6年 )9月18日、満州事変が起こる。

その頃、関東軍部隊が満州を守る軍隊として駐屯していた。

中国人による排日運動が激しくなり、列車妨害が頻発するようになった。そこで一部の将校が全満州を軍事占領する計画を練っていた。

関東軍は日本陸軍の満州駐屯部隊でありながら、独自で行動を取った、それは、鉄道路線を爆破させ、中国側の仕業に見せかけて軍事介入し、満州国全域を占領した。

これは日本政府とは無関係に、関東軍独自の行動であった。

1932年( 昭和7年 )関東軍は満州国建国を宣言して、清朝最後の皇帝であった「溥儀(ふぎ)」を満州国皇帝に据えた。

1932年 五・一五事件が起きる:満州国の承認に消極的だった、犬養毅・首相は海軍将校の一団によって暗殺された。この事によって、政党内閣時代が終わりを告げ、軍人や役人中心の内閣が任命されるようになる。

1933年( 昭和8年 )日本、国際連盟を脱退
これも、一言では書けない問題である、満州事変の原因を調べる為に、リットン調査団が満州に入り、日本側の一部主張を認めたものの、日本軍の満州国からの撤退と満州国を国際管理にする事を決めた、日本が国際連盟から脱退した一つの理由と言える。

その後も、満州国は開発が進み、日本人だけでなく多くの中国人が流入した。
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1936年( 昭和11年 )2月26日 二・二六事件

陸軍の青年将校が千四百人の兵を率いて、首相官邸や警視庁を襲撃して、天皇を中心に軍部が政府をつくり、昭和維新を断行する事を要求した。

この時、昭和天皇は「 朕自ら近衛師団を率い、これが鎮圧に当たらん 」と、決意を示された。反乱は 3日間で鎮圧された。この時、参加した若い将校は軍法会議で死刑になっている。
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1937年( 昭和12年 )7月7日 盧溝橋事件

事件内容は、7月7日の夜に、日本軍は夜間の演習をしていた。

そこに、何者かが発砲した事から、戦争に突入した事件である。この戦いは終戦までだらだらと続く事に成るが、目的がハッキリしない戦争と云われた。

最近、この盧溝橋事件に関して,新説が言われている。

それは、ロシア軍が満州国との境にへばり付いている日本の軍隊(関東軍)をロシア国境から散らす作戦と云われている。

そこで、中国共産党に対して、日本軍と蒋介石率いる中国国民党を戦わせる為に中国共産党の兵が、川の中州から日本と中国国民党の双方に向けて銃撃をしたと伝えられています。

当時の中国共産党は殆んど日本軍とは戦闘していなかったと聞きます、日本と戦っていたのは、殆んど中国国民党であったとか。
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1938年( 昭和13年 ) 大東亜共栄圏
近衛文麿・首相は、日本・満州・中国・東南アジア諸国を経済圏に発展する構想を発表した。

その事が、アメリカとの間で亀裂を生じさせた。アメリカ政府はその後、公然と中国の蒋介石指導を支援するようになる。

日米の対立は、この時、1938年から始まったと言われる。

1939年、アメリカは日米通商航海条約を延長しない通告をして来た。

アメリカに依存していた資源物資が入らなくなる事から、日本政府は東南アジアに進出する事を決める。

日本はインドネシアを領有しているオランダと交渉したが断られる、日本はだんだんと経済封鎖で追い詰められていく。
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1940年10月 大政翼賛会

国家体制のもとでの統制経済が、この時代の風潮に成りつつあったと云われています。

それは、ドイツやソ連の国家の仕組みから来る。各政党は解散して、一つの政党・大政翼賛会へと、ますます、軍事色が強くなっていった。
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1941年( 昭和16年 )4月 日ソ中立条約

ソ連はこの条約を破って、日本が無条件降伏宣言をする数日前に参戦して来た。その結果、多くの日本人が長期に渡って、捕虜としてシベリア抑留され、重労働を課せられる事になり多くの人達が亡くなっている。
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※- 第二次世界大戦 ( 大東亜戦争 )-※

1941年12月8日 ~ 1945年8月15日

1941年(昭和16年)12月8日午前7時:日本海軍機動部隊がハワイの真珠湾に停泊中のアメリカ太平洋艦隊を空爆した。

同じ日に、日本陸軍はマレー半島に上陸してイギリス軍と戦い100日ぐらいで東南アジア諸国を占領して、初期の目的を達成する。

しかし、物量に任せたアメリカの攻撃によって、時間の経過と共に日本の苦戦が色濃く成って行った。

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2005年 8月 6日 -景趣-
     
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