マクロ行動のメッセージ

まち・ひと・しごと創生 根っこのお話

第五章 互いが生きる

2016年10月17日 00時51分55秒 | 企業と人




●マクロ土壌



 私たち一人ひとりは、いっけんミクロ社会の行動圏で生きている。
 それが、高いマクロ社会、意味のあるマクロ社会を一人ひとりが見据えて行動しているなら、それぞれは、客観的にも高い意味のあるマクロ方向を向いているもので、そんな空気に充たされて活動するミクロの集合がマクロ土壌(マクロ行動の育つ土壌)である。
 ミクロ社会はマクロ社会の縮図であり、両者は相似形である。
 ところで…、
 人間、狭くなってはいけない、のである。
 何をもって狭いというかば、前頭葉による視野のもち方である。
 少なくとも、集団ないし協働の場であるにもかかわらず、そこにいて、集団のめざす社会的目的やなかでの規範・マナーなどに関心も向けず、チームワークを疎かにする、それどころか、自分の枠内だけで考えることがつねとなり、その行いは、むしろ他の足かせとなる罪な存在でもあり、それを気にも留めず反省なども知らず――
 もし、人が挙ってそうであれば、世間は犇き合って息苦しくなってしまうであろうことは、いまさら論を俟たない。
 まさに、マイオピア行動の現れである。
 しかも人間がエゴイズムを現すと、人には優しさを求め、寛大さを求め、自分に非があろうと相手には仏のような穏やかさを求め、あるいは、何かのときには都合のよい便利さを求め、…。
 互いがそうであれば、世間の誰がそれに応えてくれるのか、となる。
 いわば、互いが虚構の世界に閉じ籠もっているだけに過ぎないのである。となれば、互いが使命とか責任を負うにはふさわしくないものとなる。
 俗に、そして平たくいうと「役立たず」というものである。
 裏返せば、きっとその世界は愚痴だらけの景色に違いない。
 マクロ行動がめざすは好循環であり、そのメリットが一人ひとりに返ってくるというものである。そのために必要なことが、マクロ土壌の醸成なのである。これは与えられるものではなく、造り合うものである。
 人のこころの真の幸せは、およそ受け身やマイオピアによるものではなく、能動的なマクロ行動によって得られるものである。
 痩せ我慢で満足できる割り切りもあるが、実感としての、生き甲斐としての、いや、そこまでいかなくても、ナチュラルなタッチでのほっとできる幸せ感はほしいものである。
 何より、働く空間でいうなら、互いに労働量が増せば増すほど、せめてその毎日が、互いに遣り甲斐を覚えられるような空間であってほしいのはいうまでもない。
 しかし、これが案外に得難いものであることは、職場の人間関係の現実によって分かってくることがある。
 なぜ職場が人間関係なのかは、理由は簡単である。
 仕事は組織によって成り立つものであり、たんなる個人々々の仕事のスキルのみで、それぞれの仕事が遂行できるものではない、そういったケースが多いのである。
 いわゆる、その職能資格を取得していたとしても、他でいかに経験している職種だとしても、それだけで、毎日がマイペースで過ごせることにはならない。
 仕事は生きている。
 狭義にとらえるマイペースの世界ではない。
 企業活動というのは毎日が流動的で、個人で決めて進めようとしている行動スケジュールにしても、環境の流動性によって容赦なく乱されてしまうことなどけっして少なくないし、むしろそれが当たり前なのである。事実、それが仕事なのだ、といってもまったく過言ではないのである。
 仕事とはそういうものである。
 乗り物の時刻表や作業マニュアルのようなわけにはいかないのである。それらが、むしろ交通整理されながら、一つひとつが、ただ何とか無事に前進・進捗していることを、有難く受け止めておかなくてはならない。
 ああしてくれないからこうなった、こうしてくれないから予定が狂ってしまった、こう言ってくれれば手間を食わずにすんだのに、…と、あまり他を責め合わないことである。それをすると、天に唾するようなもので、いずれ自分に返ってくる。
 自分の非は見えないものである。
 人間関係は相互作用なのである。
 仕事の能力というのは、そういった状況においてのいい仕事が求められ、いわゆる優れた人は、そういう環境の険しさにあっても、うまくいい成果をつくり出しているわけである。
 それは、我慢によるものではなく、正しく環境の認識ができていること、すなわち、広義のマイペース(広いこころ)による臨機応変さのお陰である。

 仕事の進め方は、いうまでもなくマネジメントが決めるのである。
 それが基本であることを見失ってはいけない。それは、上司個人の趣味や独断なんかによるものではない。同時に、担当者個人の主観や感情で仕事の質・量を決め付けてはならないのである。
 いわば、息の合った連係動作が必要なのである。
 したがって、その責任は原則として指示側にあるが、その指示の意図や内容を正しく理解すべきことはいうまでもない。
 子どもが親を選べないように、部下も上司は選べない。その宿命の下での連係動作なのである。
 その二者の関係は毎日続く関係であり、仕事をうまく進めるためには、良好な連係のとれる関係づくりに互いが努めなくてはならない。
 ミクロな集合でのこのことを、互いが認識できているかどうか。それが、マクロ土壌であるかどうかを決定づける。
 ところが、そのマクロ土壌の育ちにくい職場がある。
 それは、企業活動における生きた仕事のあり方を、よく教えていない職場である。
 「教育の基本」というポイントが、逆なばあいがある。
 つまり、レギュラーなルーチンより、むしろイレギュラー・バウンドの多い実態から先に知らしめる空気を敢えて重点にしながら、仕事のあり方における共通認識にすべきなのである。
 仕事のできる人なら、それを知っている。
 なぜか。
 柔軟な職場風土を形成すること――、それがいかに大切であるかに関して、身をもって熟知しているためである。
 柔軟とは、あくまでも人間の特性にたいする課題であり、いわゆる「円滑な人間関係」をさしている。
 目的は、効果的・効率的な仕事を実らせることである。
 仕事は人がする。
 人と人が相互に関係し合って動かなくては、仕事の出来栄えは質・量ともに評価しがたいものになってしまう。
 組織における仕事は、けっして個人々々の仕事がバラバラなままで集積されるわけではなく、ジグソーパズルのように、隙間のない連携と連係動作によって、はじめてねらいの成果を実らせるものだからである。

 このような話をする背景にあるのが、マクロ土壌にたいする負の行為(破壊行為)である。
 何よりも、企業は成果を出さなくてはならないのであるが、その認識の低さと集中力のなさが、仕事の空気を汚し、その土壌の疲弊を招いてしまう。
 仕事というものをまるで他人ごととして、あるいは、自分にとって迷惑な負荷としてしか受け止められない。それらは、モラルとモラールの低さに原因を求めることができる。
 いわば、当事者意識の低さからくるもので、つまりは、仕事にたいしての姿勢が前のめりではないというのである。
 それらが待遇・処遇(あるいは俗に、扱い)に影響してくる。
 むろん、その点には鶏と卵の関係もあって、どちらが先で問題であるかを、いっぽう的に決めつけるわけにもいかないスパイラルがある。
 賃金が低いから当事者意識が低いのか、当事者意識が低いから賃金が低いのか、である。
 一九九〇年(平成初期)の売り手市場だった頃から、非正規雇用の割合は上昇傾向となり、いわゆる終身雇用形態の冷却期に入る。使用側も被雇用者側も、安定志向の就社型より技術で生きる就職型という短期契約の採用枠が一般化し、二〇一五年時点で、ほぼ四割が非正規雇用といわれている。
 その待遇・処遇は、けっして安定したものではない。
 いや、待遇・処遇などとよぶ水準ではなく、その扱いには劣悪さを覚えるほどのものもある。
 海老で鯛を釣る、それよりも不釣り合いな労使関係がそこにあり、ともすれば、死にかけた海老で鯛を釣ろうとする、そんな猛々しさも見えてくるから穏やかではない。
 観音様ではないから、慈悲のこころなどあろうはずもないということなのだろうか。
 デフレ脱出に大切なのはただ一つ、陽半球と気半球の「エクアポイズ(equipoise)」なのである。ようは「つり合い」である。
 「拘束に見合う賃金・労働に見合う賃金」が充実しなくてはならない。
 それが叶わず、悪魔のような負のスパイラルとなって、いつまで経っても生活社会に夜明けがこない。
 そして長引けば、しだいに悪夢に苛まれる人々で溢れてくる。
 若い弱者たちが、結婚の条件やチャンスを見送るようなことにもなってくる。かろうじて結婚はできたにせよ、やむなく夫婦共働きが条件となれば、こんどは育児園の施設不足で途方に暮れて泣かされる。いっぽう中高年以上の弱者はとなれば、医療費も惜しんで、健康を取り戻すチャンスなどに恵まれない暮らしとなってしまう。
 さらに見渡せば、あたかも手っ取り早く…と言わんばかりの悪徳商法や詐欺の横行。経理担当その他による金銭面の不祥事。社会福祉の悪用。あるいは、職能の適性弱者とされ職を失った人たちは生きるすべもなく、あってはならぬ一線を越えた金銭問題の絡みで、前後の見境もなく無残な事件を起こすことにもなる。こうして、転じていのちの軽視や惨殺の模倣犯が増えることになれば、これらが過ぎて、社会はもしやより過激な事件の温床にもなりかねない。
 社会は、エクアポイズを育てなくてはならない。
 そのためにも、マクロ土壌がほしいのである。マクロ土壌が、人々のこころを取り戻してくれるのである。
 それには、企業の頑張りしかない。企業が勇気を奮って、そしてマクロ行動によって、人々とのエクアポイズ環境をめざさなくてはならないのである。

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