スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&意味ある飛躍

2017-08-09 19:50:24 | 将棋
 札幌で指された第58期王位戦七番勝負第三局。
 羽生善治王位の先手で菅井竜也七段の角交換三間飛車からの向飛車。この指し方はもはや菅井流といっていいくらいではないかと思います。先手が早めに自陣角を打って一歩得を果たし,その後も積極的に動いていく将棋になりました。この動きが機敏であったのかそれとも後手がうまく対応できなかったのかは分かりませんが,中盤では後手がかなり苦しくしてしまっていたのではないかと思います。
                                     
 先手が銀取りに歩を打った局面。銀を逃げていては☗4三桂成以下じり貧になってしまうとみたのか後手は☖9四香と取りました。先手は当然☗6五歩。
 ここから後手は☖9六歩☗同香☖同香☗9七歩☖同香成☗同王☖9六歩☗8八王☖9七角☗8九王☖8六角成と馬を作りました。上部に厚みを築いて入玉を目指す手順で,勝つとしたらその方法しかないとみての手順であったのだろうと推測します。
 逆にいえば先手は入玉さえ阻止してしまえば自然と勝ちになります。その方法は意外に簡単で☗8八香☖9五馬☗8六銀と馬を攻めること。ここで逃げていては逆に上から押し潰されそうですから☖同馬☗同香☖9七歩成は仕方なかったかと思いますが☗7九王☖9三王と互いに逃げたときに☗9五歩と打って,後手玉は上部には逃げ出せなくなっていました。
                                     
 総じていえば後手があまり力を出せなかった一局ということではないでしょうか。羽生王位が勝って1勝2敗。第四局は22日と23日です。

 飛躍に関連する考察はこれで終了してもよいのですが,第五部定理一五Deusが愛されているように記述されていても,実際に愛されているのは各々の事物とみることができるということは,論理的にはあるいは形而上学的には飛躍であるのだとしても,倫理的には意味あることかもしれないと僕は思っていますので,それに関係する僕の考え方もことのついでに述べておくことにします。
 スピノザは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』において,基本的に聖書というのはふたつの事柄しか教えていないのだという意味の主張をしています。そのひとつは神を愛せということであり,もうひとつは隣人を愛せということです。
 新約聖書でイエスがいうような隣人というのが,一般的に人類すなわち万人ということを意味し得るのかどうかということについては,おそらく解釈上の相違が発生するだろうと思います。新約聖書のテクストを忠実に読解すると,そこでいわれている隣人というのは,キリスト教徒の同胞ということだけを意味し,それ以外の人たち,すなわち異教徒や無神論者は隣人には含まれないと解することも不可能ではないと僕にも思えるからです。実はこのことはスピノザの場合には重要な意味を有します。もし隣人というのがキリスト教徒だけを意味するのであったとしたら,スピノザは間違いなく隣人には含まれないであろうからです。ただ,僕は聖書の解釈について議論しようという気は毛頭ありません。なのでここではそのような異論は排し,スピノザが解するような意味において,隣人というのはすべての人間を意味するとしておきます。
 このとき,スピノザが見出した聖書のふたつの教えというのは,哲学的には次のように分類できます。すなわち神を愛せといわれるときの神とは,絶対に無限absolute infinitumである神です。対して隣人を愛せといわれているときの隣人は,ある人間という様態modiに変状した限りでの神です。
 僕は絶対に無限であることと限りでの神の間に飛躍があるとみるのではなく,様態的変状modificatioに様態化した限りでの神と様態に変状した限りでの神の間に飛躍があるとみます。前者は絶対に無限である神の認識を必然的に含んでいるとみているからです。
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