スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

印象的な将棋⑭-1&デカルトの前提

2017-04-23 19:14:32 | ポカと妙手etc
 AbeamTVで観戦していたら面白くなって最後まで見てしまいましたので,昨年度の将棋大賞の名局賞をいってみましょう。
                                     
 これは観戦し始める少し前の局面。このあたりは後手が最も勝利に近付いていた局面だったのではないかと思います。
 王手ですから☗5九歩と受けます。ここで後手は☖6七桂と打つ手があった筈です。☗同金なら☖8八角で王手龍取りがあり,この龍を取られては先手は勝つ見込みがありません。なので☗6八王と逃げることになると思うのですが,実戦の進展と比較すれば後手は得をしていたと思います。この☖6七桂はこの局面だけでなく,今回の手順中で打つチャンスはほかにもありましたが,この手を逃したので混戦に至ったものと思います。ただ,逃したのには理由もありました。
 後手は☖4三金と銀を取り,先手は☗5三金と寄りました。どうもこの局面で先手玉が詰むから勝ちというのが後手の組み立てだったようです。ところが読んでみると詰みません。11分の考慮で☖4二歩と打ちました。以下☗5三金☖同金と取ったところから僕の観戦が始まったと記憶しています。先手は☗4四歩と攻めを繋ぎました。
 まだこの局面でも☖6七桂は残っていると思います。しかし☖8八銀と打ってこの筋は盤上から消えました。
                                     
 取るか逃げるか,先手は二択です。

 「我思うゆえに我ありcogito, ergo sum」ということ,正確にいえば我は疑いつつあるego sum cogitansということが,デカルトには確実なことと思えました。しかしここには,隠された前提が潜んでいると考えることができます。すでに説明したように,これは三段論法ではありませんから,思うということがあるということだという第一段目に該当する前提ではありません。これとは別の前提です。
 こんなふうに考えてみましょう。すべての事柄について疑ってみることは可能と仮定します。しかし一方で,すべてのことについて疑っている,あるいは疑おうとしているということは確実であるとします。他面からいえば,そのようにすべてを疑いまた疑おうとしている精神mensが存在していることは否定できないとします。そのゆえに我があるというならば,これは疑いまた疑おうとしている精神が我であるといっているのと同じことです。僕が隠された前提というのはその部分のことです。デカルトはあらかじめ我というものを想定し,その我の精神がすべてのことを疑いまた疑おうとしていると前提しているのです。もっと一般的にいうならば,我の精神というものが存在して,その精神が何らかの思惟作用をなすのだと前提しているのです。ですからこのことのうちに,すでにデカルトの自己認識というもの,正確性を期せば自己というものに対する認識が含まれていると僕は考えます。
 このことは,スピノザの認識論と比較してみれば一目瞭然です。『スピノザ 共同性のポリティクス』では,スピノザ哲学における自己というのは,思惟作用の結果として意識の中に析出されるものであるという主旨のことがいわれています。また,『スピノザの世界』では,精神が存在してそれが思惟作用をなすのではなく,精神などは存在しなくても思惟作用が存在するのだといわれていました。ですから,方法論的懐疑の結論部分をスピノザの哲学に照合して分析すれば,疑っているという思惟作用自体が存在しているということは確実であるといえても,それは我が疑っているとか我があるということではありません。単に疑いが存在しているのであり,疑っているのを我の精神と規定しているだけにすぎません。
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