スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

新人王戦&精神の眼と身体の目

2017-10-16 19:33:57 | 将棋
 第48回新人王戦決勝三番勝負第二局。
 佐々木大地四段の先手で角換り相腰掛銀。先手から開戦して後手の増田康宏四段も反撃に転じる攻め合いの将棋になりました。どちらかに偏った局面は最後の方までなかったのではないかと思います。
                                     
 先手が歩を連打して後手の飛車先を止めた局面。ここで☖6四銀と取って☗8四歩☖5五銀右と進みました。
 ここは先手の手番でいくつかの選択肢があります。☗4八飛と回って詰めろを掛けました。ただ☖4七歩☗同銀☖6六銀の進行は後手の方が得をしているように思います。なので飛車を回るところで別の攻めをみるか,飛車先を叩かれたのなら飛車で取ってしまう方が優ったかもしれません。
 ☗6九桂と受けて☖6七歩に☗5八玉。さらに☖7九角と打たれたところで☗5六銀と上がって再び詰めろとしました。ただ☖6八歩成☗4九玉と逃げたときに☖4一歩と打ったのが堅い受けで,ここでは大勢が決しているのではないかと思います。
                                     
 増田四段が連勝で優勝第47回に続く連覇で2回目の棋戦優勝です。

 第三種の認識cognitio tertii generisは神Deusの属性attributumの形相的本性actualis essentiaの十全な観念idea adaequataから事物の本性の十全な認識cognitioに進むといわれています。したがって第三種の認識によって直接的に認識されているのは事物の本性であるということになります。この意味において,精神の眼によって認識されるものは,物体corpusという意味でのものとは異なっていると解しておかなければなりません。物体であるというより,物体の本性であるという方が正確であるからです。一方,僕たちが身体corpusの目によってものを見るとき,そこで知覚されているのは物体の混乱した観念idea inadaequataであるといういい方が,このことの比較の上では可能になります。つまり精神の眼というのは,あくまでも比喩的な意味でいわれているのであって,僕たちが身体の目で何かを知覚する場合と同じような思惟作用が,精神の眼でものを認識する場合にも発生しているというわけではないのです。
 『ゲーテとスピノザ主義』によれば,ゲーテJohann Wolfgang von Goetheは「象徴的植物」のスケッチをシラーに見せたのだとされていました。精神の眼による認識は身体の目を通した認識とは異なった認識なのですから,僕は第三種の認識によって認識した事柄をスケッチすることが可能であるということについては懐疑的です。むしろこの部分を重視するなら,ゲーテが第三種の認識によって植物を認識したのだという説は否定されるべきであると思われます。ゲーテにとっては植物の本性なるものを描くことが可能だったのだ,他面からいえば植物の本性を形あるものとして把握することが可能であったのだということについて,僕は完全に否定することはできないのですが,蓋然性でいえば,僕はゲーテはこのときに何らかの誤謬errorを犯していたのだと思います。
 ただし,僕が注目したいのは実際にゲーテが何を認識したのかということではありません。さらにいうと,僕はそのスケッチの部分を除外していえば,ゲーテが植物に関して第三種の認識によって認識していたという可能性もあると思っています。ですから,クーンのいい方は明らかにゲーテはシラーとの会話において第三種の認識について何事かを語ったのだと読めるのですが,そういう読み方が不正確であるとは考えません。

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