スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

勇気&主体の排除

2017-03-24 19:31:07 | 哲学
 第三部定理五九備考では,「精神の強さfortitudo」が勇気animositasと寛仁generositasとに分類されていました。簡単にいえば自分の利益に関係する「精神の強さ」が勇気であり,他者の利益にも関係する「精神の強さ」が寛仁です。「精神の強さ」全般および寛仁と同様に,勇気もまた僕たちは通常は欲望cupiditasとは解さないでしょうから,この点で注意が必要なのは同様です。そしてさらに勇気の場合には,自己の有を維持しようとする欲望なので,別の注意も必要とされます。
                                     
 第三部定理七から分かるように,現実的に存在する人間が自己の有に固執する傾向conatusを有するのはその人間の現実的本性actualis essentiaです。そして第三部定理九により,僕たちのこうした現実的本性は,十全な観念idea adaequataを有する限りでも混乱した観念idea inadaequataを有する限りでも妥当します。したがって,僕たちは十全な観念に従おうとも混乱した観念に従おうとも,基本的に自己の有には固執するconariのです。勇気は理性ratioに従って自己の有に固執することなので,十全な観念に従ってある行為をなそうとする欲望は勇気ですが,混乱した観念に従ってそれと同じ行為をなそうとする欲望は勇気ではありません。つまりそれがどういう欲望であるかによって勇気であったりなかったりするのでなく,どんな観念に従った欲望であるかによって勇気であったりなかったりするのです。
 そしてこの区分によれば,通常は勇気とみなされることが勇気ではなく,逆に勇気ではないとみなされることが勇気であるという場合も生じ得ます。たとえば戦闘に挑む者は一般的には勇気があるとみなされ,逃走する者は一般的には勇気がないとみなされます。しかし理性に従って,戦闘行為が自己の有の維持に不利益であると判断することによって逃走する者は,この区分においてはむしろ勇気があるということになります。逆にたとえば名誉gloriaを得ることを期待して戦闘に挑むのなら,その名誉欲ambitioという欲望は勇気であるとはいわれ得ないことになるでしょう。
 このように,スピノザの哲学でいわれる勇気はかなり特殊です。この点を誤って解釈しないようにする注意が常に必要であると思います。

 ここでスピノザの哲学について僕がいう主体の排除について,改めてまとめておくことは無益ではないでしょう。これは多角的な観点を含んでいるからです。
 まず第二部定理一一系でいわれているように,人間の精神は神の無限知性の一部Mentem humanam partem esse infiniti intellectus Deiです。いい換えればある人間Aの精神とは,Aの精神の本性naturaを構成する限りでの神です。よってAによる事物の認識cognitioとは,Aの本性によって説明される限りでの神による認識です。この意味においていかなる人間も認識という作用の主体subjectumであることはできません。
 では神は認識の主体であり得るのかといえば,そうでもありません。なぜなら無限知性とは,第一部定理二一の様式で発生する神の思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態であるからです。いい換えればそれは神の本性が与えられれば必然的にnecessario生じる様態modiなのです。つまり無限知性は神の本性に属するものではありません。神は神自身の必然的法則によって生じる自己原因causa suiですが,それと同一の必然性necessitasによって生じる様態として無限知性はあるのです。いい換えれば神と無限知性には,原因と結果effectusという関係だけがあるのであり,神の意向と無限知性は関係を有しません。このような仮定は無意味ですが,もし神があるものについては認識しないと意志したとしても,そうしたものの観念は必然的に発生しなければなりません。この意味において神もまた認識の主体であるとはいえないのです。
 さらに,あらゆる観念は神の本性の必然性によって発生するのですから,これは神に限らず,ある有限な知性が何かを認識するcognoscereという場合にも妥当します。すなわち,ある知性は,何を認識し何を認識しないのかということについて選択権を有しません。神の本性の必然性に則しているなら知性はそれを必然的に認識します。しかし神の本性の必然性に反しているなら,知性がそれを認識することは不可能です。この意味において,何かを認識するものを主体と措定する限り,認識は主体の意向と無関係に発生します。いい換えればこれは,認識の主体は存在しないというのと同じです。
 これは認識に限らずあらゆる思惟作用に該当します。たとえば愛amorの主体なるものも存在し得ません。

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